空はどこまでも高く青い。
 見上げて視界に入れたそれは、いつもと何ら変わりないものだった。
 昨日ここで起きたのは「いつも」とは違う、それこそ常軌を逸した出来事だったというのに。

 自分もそう在らねばならない。
 何があろうとも、自分にできるのはもうそれしかないのだ。オーフェンが言うように。
 
 
 ――それはとてつもなく難しいことなのだと、今の自分が理解していたとしても。



*****



 さわりと風が頬を撫でる。
 揺れた髪の端を追いかけてか、胸に抱いた子ドラゴンが身じろぎした。
 そこでようやく空へと上向かせていた首の痺れるような痛みに気付き、ゆっくりと位置を戻す。痺れを和らげようと首を軽く回すと、先ほどオーフェンに示されたベンチが目に入った。
 一度病院を見上げ――当然、マジクの病室が何処だかわかるはずもなく――そこへ腰を下ろした。ベンチに重心を預けて息を吐き出す。
 そうして、今の今まで思考を繰り返しようやく到った結論を、心の中で言葉にした。
(……そうよね、そうするしかないんだわ、きっと)
 認めてしまってから、つとオーフェンの返答が蘇る。

『……今までと変わらないように、そう振る舞うんだ。そんなふうに努力するしか……ないだろ』

 今までと変わりなく、そう「振る舞う」。
 つまり、事実を忘れることなく、けれどそれを気にしたような態度を取るなということ。
 それが一番正しいのだろう。実際、自分でもそれ以外には考えつかなかったのだ。だからこそ彼に聞いてみたのだが――結局、是非の確認にしかならなかった。
(わたしに出来たことは、あれだけだったのよね……)
 膝上に乗せかえたレキは丸くなったまま動かない。
(本当にそうだったのかしら?)
 もっと他に方法があったのかもしれない。
 「あのとき」は情報だけには事欠かなかったが、絶対量が多すぎた。あの膨大な中から的確なものを拾いその上で対策が練れたのかといえば、そうではない気がする。元より、ディープ・ドラゴン(レキ)の力は制御しきれなかったのだ、自分は。
 もしこれが自分でなく――例えば、「魔術」に特化した人物――オーフェンだったならば、もしかしたらうまくいっていたのかもしれない。
 けれどそれは推測にすぎない。それも、希望的観測が多く含まれた。
 歴史に「IF」はない。もしも、と言い始めれば全ての良法的可能性を肯定することになり、終には現状の否定にしか繋がらなくなる。今を否定するということは、「今ここに在る自分の居場所」をも否定することだ。居場所なくして人は存在できない。
 生きている人間はどうしたって、現実を認めるしかない。様々な可能性を知りつつもそれを気にすることなく――いつものように過ごしていくしかない。
 だから今、わたしが取りうるべき方法もそれだけなのだ。
 
 それが痛いほどわかっていながら、否定しようのない必然性を認めながら、わたしは強く強く唇を噛んだ。



 どれくらい経ったのか、ふと人の気配を感じて顔を上げる。
 今になって気が付いたが、この病院は随分と人気がないように思う。昨日あれだけのことがあったのだから、怪我人が大量に担ぎこまれていてもおかしくはないのに。
 単に地理的問題で街中の病院へ殺到しているのか、それとも怪我人が少なかったのか、ここの評判が良くないというだけか。だとしたら入院しているマジクは大丈夫なのか。
 ともあれ、妙に静かな病院から出てくるのは先刻入っていったオーフェンだけだった。それに疑問を感じて、聞いてみる。
「……マジクは?」
「ああ。大事をとって明日まで入院ってことにした。お前も俺も、すぐに動けるわけでもねえし」
「そう」
 わたしはさり気なく目を伏せ――出来た。心中で「よし」と気合を入れ、視線を戻す。
「じゃあ、戻りましょ」
 瞬間、オーフェンが面食らったような顔をした。が、すぐに表情を微苦笑へと変える。
「ああ」
 ベンチから立ち上がり、準備はいいかという視線に軽く頷いて、わたしは普通に歩き出した。



 こうする他にない。
 彼もわたしも意見は一致した。

 だからわたしは泣いたりはしない。いつものように笑ってみせた。

 ――うまくできていたかは、わからないけれど。





 そうして、一人になってからもその状態を維持するのは思っていた以上に困難なことだった。

 その日の夜、眠れぬまま数度の寝返りを打つ。
 「一人」とはいえ部屋にはロッテとウィノナがいる。しかし二人が寝入ってしまえば、自分一人でいるのと大差はないように思えた。

 わたしは間違ったことをした。
 そう思うと、オーフェンが時折恨みがましく呟く――毎回言い方が遠まわしになっていったが、その意味は同じの――言葉が再生された。
『お前が余計なことさえしてくれなきゃ、こんなことにはならなかったんだよ』
 といっても、実際その通りに言われた覚えはなかった。
 これは全て自分の記憶やらイメージやら何やらが、仕草や声質やイントネーションその他全てをオーフェンに酷似させ、勝手に創りあげた幻影だ。偽者だ。オーフェンの言葉ではない。
 だから「これ」は真実ではない。
 けれど今、自分が直面しているのは明らかに事実であり、それは真実に他ならなかった。
 彼を助けなくては。
 全てを知ってから自然、そう思った。いつものように、困ってたり苦しんでたりする誰かを見捨ててはおけない。それは知り合いだろうが赤の他人だろうが関係のないことだ。
 生きるための信念とは、自分のしたいようにすること。しかしそれで人を傷つけてもいいとするならば、それは屁理屈に過ぎない。
 それは父が正気であったときの言葉だ。
 自分としてもそれは正しいことだと思った。だから信じてきたし、そうしてきた。結果、100%の成功でなくとも最悪6割ぐらいは望んだものへと回帰していった。
 正しいことをすれば――自分は正しいからこそ信じているのだから――それを最後まで貫けば、正しい結果が返ってくる。
 また、諦めなければその分だけでも結果に返ってくるものだ。オーフェンがこれまでしてきたように、最北の教会で自分がしてきたように。
 そこへ、追従するように記憶が甦る。
『一見、絶望的に思えたときなんてのは、あきらめさえしなければ、意外となんとか切り抜けられちまうもんさ――じゃなけりゃ、俺たちゃとっくに死んでる。そうだろ?』
(……そう。そうだったわよね)
 例えわたしを慰めるための詭弁であったとしても、オーフェンは否定してくれてすらいたのだ――「絶望」を。
 だからわたしは信じていた。それが事実で真実だと信じて疑わなかった。今回も、事態は収拾できると思っていたのだ。
 けれどそれは叶うことなく――返ってきたのは事実にも真実にも程遠く、予想する暇もなかった最悪の事態。
(わたし、ライアンに言ったのに)
 先程から感情が昂ぶるにつれて、奥底から掘り返されるようにどんどんと記憶が湧き上がってくる。これも「後遺症」の一つなのかもしれない。
 わたしは確かに断言したのだ。たった一つの信念を抱いて。

『他人を傷つけることなく、我を通すことができるとでも?』
『できるわ』
『賢くなればそれができるのよ。できないなんて考えてるほうがどうかしてるわ』

(できないことじゃなかったのに……わたしがもっと賢かったら、できたはずなのに!)
 どこをどう間違ったのかはわからない。それがわからないということは、つまり賢くないということだ。
 賢くないから間違うし、何を間違ったのか理解できなければ反省もできない。二度と同じ間違いをしないようにと対策を練ることもできない。
 それではダメだ。ちっとも賢くない。傷つけたくないのに傷つけてしまう。
 今思えば、自分はどこか舞い上がっていたのかもしれない。何に? わからない。わからない――賢くない。
(……本当に、余計なことをしちゃったんだわ)
 あれは間違いなく、彼を助けようと思っての行動だった。
 決して彼を殺そうと、滅しようと思ってやったことではない。悪意はない。
 そこにあったのは善意だけだ。確かに、もしかしたら身勝手な押し付けの善意だったのかもしれない。けれど。
(「絶望」なんて、そんなことないって、教えてやらなくちゃって、思って……)
 けれど結果はこのとおりだ。彼は居なくなり、「絶望」を唱えてこの世から生を消した。
 ……殺そうとしたのではない。助けようとしたのに。なのに。
 なのに彼はいなくなった。
(もとから、わたしがライアンを助けようとか思わなかったら、こんなことにはならなかったのかもしれない)
 これは昼間も思ったことだが――もしあの場にオーフェンが居たならば、事態は快方へと向かったのだろうか?
 それも途中からではなく、最初からあの場にいれば。
 そうしたら、何もできない自分の代わりに、オーフェンがなんとかしていたのかもしれない――ライアンは死なずにいたのかもしれない。
 もしかしたら「絶望」は絶対じゃないと信じてもらえたかもしれない。
(余計だったの? 助けようと思うのは、余計なことなの? ……そんなこと)
 以前だったら即座に否定できたそれは、今では困難を極める。
 即答ができない。それどころか、答えも見つからない。
 彼は死んだ。もうこの世にはいない。彼の言う「絶望」の存在を否定することもできない。
(わたしが、殺した――)
 直接ではないにしろ、間接的にそうしたようなものだ。
 助けようなどと押し付けがましく同情してさえいなければ。

 ――またもクリーオウは唐突に、酷く昔の情景を想起した。

『《牙の塔》の魔術士というのはね、無駄に人を殺したりはしないが、もし必要ということになれば一転、どんな残酷な殺し方でもできる人種なんだ』
『……オーフェン、あなたもそうなの?』
『俺か?』

『俺は……それができなかったから、落ちこぼれたんだ』

 苦笑を漏らした彼。安堵して淀みなく笑えた自分。
(でも、わたしは殺した……)
 冷たい自分の声が脳内に響く。記憶が曖昧なせいかぼやけ出した映像は、一瞬にして闇色に染められた。
 オーフェンができなかったことを、わたしはやったのだ。
(――そんなこと、望んでなんかなかったわよ! わたしは、わたしは、ただ……!)
 助けたかっただけなのに。
 あんなことしか言えない彼にどうしようもなく腹を立てて。
 あんなことに突き動かされて誰かを傷つける彼にわからせてやりたくて。
 それを信じ、言い続けているから、その通り「絶望」しか寄ってこないのだと。

 だったらもっと前向きに考えればいい。
 そのときは、自分も一緒になって考えるから――

 そう、もう届くはずもない彼に向けて更に言葉を続けようとして、

『それが絶望だ』

 彼の最後の言葉は、残酷にも、なけなしの弁解の――贖罪の――伝えたかった意志を無情に切り捨てるかの如く、わたしの中にこだまする。
 大量の人の感情と記憶の奔流の中で感じ取った、彼の本心と過去。そして今まで覚えてもいなかった自分の記憶とが混ざり合い、うねり、歪み、錯綜する。


『そんな君にわざわざ絶望なんて教えたくはない』
 会って間もない頃は、教える価値も意味もないと思われていて。

『そうだね――ぼくは君の信念が欲しい。だが実を言えば、君を死なせることくらいしかできそうにないな』
 一度の決別の後に、それは反転して、

『絶望を教えたい――君にね』
 わたしに教えなければ意味がないとまで、彼は思っていた。

『ぼくは絶望を抱いて生き続けなければならない。それに比べたら――死ぬのは楽なことだ!』
 だから、わたしに教えたかった?

『死ぬ前に、絶望を知ってもらう。ぼくが味わっているものの千分の一も持っていってもらう。そのくらいしなければ、しゃくに障るじゃないか、ええ?』
 何も知らないで全てを否定するわたし、に?


 ――ふと、気付く。いや、気付いてしまった、のか。


 彼の数々の記憶の中に、一貫して共通して存在していたもの。
 逆を返せば、「それ」があってこそ彼が存在しえたようなものだ。まるで「それ」を抜き差ってしまえば彼ではないような。
 これは、単なる憶測にすぎない。
 けれどだからこそ、その謎の信憑性ばかりが高まっていく。
 それは物凄い勢いで、単なる妄想からひどく現実味を帯びた確たる理論へと発展していく。
(そんな、まさか)
 けれど否定ができない。否定要素を探せば探すほど、その意味不明な信憑性ばかりが高まる。それを信じざるを得なくなる。
 もう確認する術はないというのに。

 気が遠くなるほどの永い年月を、たった一つの目的のために生きてきた彼が。
 その目的を果たすこと以外に自由のなかった彼が。
 たった一つだけ、彼を彼個人として成り立たせる要素となるまでに存在を大きくした――彼の中で産み出され育っていった「それ」。

 死に逝く人間は、別れを告げる現世に何かを残したがる。
 それは自分の軌跡。
 自らがこの世に生きていたという証。
 形は人それぞれで、建造物であったり美術品であったり意思を伝える手紙であったり、果てはその子孫であったり様々であるけれど。

 目的を果たすこと以外に自由のない彼が、遺せるものがあったとしたら。
 否、それぐらいしか彼個人を特定できるものとして「生きた証」が存在していなかったとしたら。
 「それ」は滞りなく、一つとして歪みもなくひずみもなく、ただそこに彼の中にしっかり根付いていたもので。
 確実に、彼が有していたもの。
 彼の意思で、彼が産み出し、彼が信じ――遺そうとしたもの。


(それが、「絶望」……?)

 わたしは反射的に体を縮こめた。
 全身を掻き抱くように、寒くもないのに布団の中でかたかたと震える。

(だから、……だからこそ、わたしに教えようとしたの? 自分が生きた証を遺すために?)

 ――だとしたら。
 この憶測の域を出ない、馬鹿げた考えであるこれが、もし本当だったとしたら?
 自分の感じている「それ」は、間違いなく彼から与えられたものであるのだから。

(……わたしの中で、ライアンは生きてる……?)

 どくんと一突き、心臓が跳ね上がる。


(今ここにある「絶望」が、ライアンの遺した――生きた証?)


「それが絶望だ」

 もう一度あの言葉が――まるで勝ち誇ったかのような響きを持って――それこそ自身が創りあげた幻想に過ぎないだろうに――こだまして、わたしは意識を手放した。