それは、簡単な挨拶と自己紹介と現状説明のあと。
 「魔王崇拝者」「悪魔」だなどと、その外見にそぐわない肩書き――オーフェンならばまだ頷けなくもない――そういえば自分の友達に対し「悪魔」などと失礼な愛称をつけたのも彼だったか――を自称する男は、一つの提案を持ちかけてきた。



*****



「それより、レキは? どこにいるの?」
「君のお友達なら、そこに居るよ」
「え?」
 指し示された自分の隣を見る。確かに、彼はそこに居た。ふかふかと沈みそうなベッドの上に器用に座り込み、前に立つ男を見つめている。
「いつから居たの? ……レキ?」
 何気なく抱き上げても、子ドラゴンの視点は動かなかった。身動ぎもせず、じっと、男の顔を凝視したままでいる。
 いまいち信用のおけなさそうな薄い笑顔の男と、腕の中の友達を見比べた。
(こいつ、何なの?)
 用心しなくてはならない――元より、悪人よろしく登場してきた男だ。警戒しておくに越したことはない。クリーオウは気を引き締めた。
「さて」
 流れるような仕草で肩をすくめてから、男は本題を切り出した。
「君のお友達――レキ君だったかな。彼に一つ頼みごとをしたいんだ。それには君にも話を通さなければならないのでね」
「頼みごと?」
「そう。もちろん、ただでとは言わない。これは契約なのだから」
「……契約?」
 最大の疑問点を的確に復唱して、クリーオウは一つの感覚を認識した。
 嫌な予感がする。
「私の希望は既に伝えてある。あとは、君が了解してくれれば契約は完了する」
 レキの視点は一点で定まったままだった。
「どういうこと?」
 よくわからないが、その予感はどんどんと心の中を支配していく。
 それを払拭しようとしっとりした毛並みを撫でて、まだ友達はここに居るのだと自分を勇気づける。……何故そんなことを思ったのかはわからない。
 虫の知らせ。単なる勘。それとも、自分の中の何かが、むくむくと大きくなり始めたような――錯覚。
「こちらの条件を飲んでくれるかわりに、クリーオウ・エバーラスティン。君の間違いを直そうじゃないか」

 何気ない調子で差し出されたそれに、動作と思考がいっぺんに止まる。
 今、この男は何を言ったのだ?
(どういう意味?)
 言葉にしようとして、自分が動きを止めていたことに気付く。
 男の言葉は、完璧な不意打ちだった。
 誰にも気付かれないように、自分ですら気付かないように――気にしないようにすべく、きっちりと覆い隠した布の下。「彼」の置き土産を抱え込んだ自分。
 「空元気」という名のその布を、この男はべろりとめくってきたのだ。
 保護色よろしく、それは完璧に自身に溶け込ませていたはずなのに、まるで最初からそこにあるとわかっていたかのように、あっさりと、確実に、白日の下に晒されてしまった。
(間違い……って)
 それはつまり。
「ライアン・キルマークドの死はとても理不尽なものだ」
 ぎくり――背筋に何かが走る。悪寒か。それとも、苛念か。
「さすがにわたしにも、死した者を再び現世へ呼び戻すことはできない。だが、やり直させることは可能だ」
「やり直す……?」
「君は、転生というものを信じるかね? わたしは信じている。新たな生命となって戻ってきた暁には、彼に今度こそ希望を持って生きてもらいたいと思うのだ」
「……」
「それには君の力が要るだろう。彼が唯一信じようとした――悲しいことに、信じきれなかったようだがね――希望こそ、君なのだから」
「わたしが、希望?」
 男は頷いて、視線をレキに合わせた。
「君が辛い思いをするのは喜ばしいことではない。それによって心を痛める者も少なくはない。かといって、何もせず無実になれるほど、君は愚かではない」
「……ライアンは、わたしに「絶望」を遺していったわ。わたしはそれを、「絶望」じゃないって証明しなくちゃならない」
「そう。君は間違ってはいない。そこでわたしは、君にその機会を与えようというわけだ」
「機会って……「絶望」を、そうじゃないって、証明する?」
「わたしにはそれができる。そして、それは君の友達の望むこととも一致する。君が罪を贖い元のように笑えるようになれば、全て丸く収まる」
 男の言葉全ては、まるで呪文のようだった。
 呪文といっても魔術士が使うような具現化の発動キーではなく、それこそ「魔法」をかけるのに用いられる、不可思議な強制力と信憑性を持った、希望への――一番望むものへと還る、道標。
「人の罪というものは、償うことで、無へと還るのだよ」
(わたしの、罪――)
 助けようとして刃となったもの。
 信じることに固執して、滅びへ向かわせてしまったもの。
 それらを全て、救いの手にできるということだろうか。
 彼に、「絶望」は絶対のものではないと伝え、わかってもらえるということだろうか。

 ……だとしたら、それは何て――

 両手にあった感覚が消える。
 自然、下に落とした視線の先に、音もなく掻き消える黒い毛並みが見えた。手を伸ばす――が。
「レキ、待っ……」
 意味がなかった。力なく、けれど慌てて伸ばした自分の手は、ただ何もない空間を通り過ぎただけだった。
 さらに意味がないと知りながら窓際に駆け寄る。だだっ広い荒野には何もなく、黒い点すら存在していなかった。
「なん、何で……レキ、わたし、まだ何も」
「彼は非常に友達思いだ。それは君が一番わかっているのではないかな?」
 クリーオウは唐突に、これはいつもと同じなのだ、と理解した。
 あの寡黙な友達は、いつだって自分が危ないと思った瞬間には攻撃を防いでいてくれた。危険が迫った時点で自分を守るべく行動に移る。自分からお願いする間もなく。
 だから彼は、ずっと苦しんでいた自分を救済するために、その方法が見つかるや否や実行に移したわけだ。いつものように。
「で、でも! まだわたしがそうしてって言ってない! 契約は成立したわけじゃないんだから、つ、連れ戻さなきゃ」
「契約をしたのは彼とだよ。君とじゃない……こちらが出した条件に、君の今後が関わっていただけの話でね」
 小さく肩を竦めて、穏やかに男は言う。
「君の了解を得る、というのは些か語弊があったかもしれない。君の意思を確認したかったのだよ。彼は君の本心を読み取ることができる――だから、一緒に話を聞いてもらったのだ」
「そんな……」
 わなわなと震える両手は、何に震えているのか。怯えているのか。
 漠然と、自身の中のそれが広がってゆく。それは錯覚ではなく、実感だった。
 否定できない事実を噛み締めながら、続く言葉を見つけられずクリーオウはぱくぱくと口だけを動かす。
「契約は成立した。これで君は救われるチャンスを得たわけだ……どうしたのかな、顔色が良くない」
 心底不思議そうな顔で、男はこちらをのぞきこんできた。
「もっと喜ぶべきだ。友達のためにも。決意を新たに、前向きに行くべきではないのかな」
「で、でも、こんなの、何か違う……」
「彼は君の友達なんだろう? 友達の厚意を無駄にするのは関心しないな」
 確かにそうだ。反論の余地も見当たらない。
 けれど、本当にこれでいいのか? 自分はまた何か――致命的な何か、間違いを犯したのではないのか?
 不定形の不安が徐々に形を成すような。
 それは完成したら、きっと自分を覆い尽くすに違いない。クリーオウは根拠なくそれを確信した。
 ぽふ、と両肩を叩かれる。男の両手は数回バウンドして、動かなくなった。
「君は――誰かが君を助けたいと思う気持ちを、裏切ったりはしないはずだね?」
「――!」
 クリーオウは顔が引きつるのを自覚した。弾かれたように顔を上げると、爽やかに笑う男と目が合う。
「そう。君はこれから罪を贖う……それは決して楽なことではない。しかし、不可能ではない。再びこの地に降り立った憐れなライアン・キルマークドを、君が救い、彼が「絶望」した事実を覆すのだよ」
「わたしが、ライアンを……救う」
「そうだ。君にしかできない」
「わたしにしか……?」
「そのために、君の友達は旅立った。クリーオウ・エバーラスティン。君がすべきことが何だか、わかるね?」



 頷く以外に、術は見つからなかった。