事態は逼迫しているだろうに、慌てた素振りも見せぬまま、この館の主――最接近領の領主は自分たちを抜け穴へと案内した。
 「抜け穴」というのだからどこか外へと通ずる脱出口なのだろう。しかし領主はこのまま外へ出るのは危険だと言い、ここで身を隠すよう指示した。
 反対するような理由も余裕もなく、素直に従う旨を伝える。二人で首肯したのを見て彼は満足そうに微笑んだ。
 最後に、こちらを安心させようとでもいうのか、「わたしが死ねば暗殺者は帰っていく」などとよけいに心配になるような言葉を残して、領主は館へ戻っていった。
 
 そうしてどれくらい時間が経ったのか。
 
 ここは安全だ――そう言った領主が信ずるに値する人物なのかはさておき。
 無力な自分たちは全てが終わるまでこの穴倉でじっとしているのが正解だろう。それが、あの領主を見殺しにすることになっても。
 第一、彼を狙う敵がどんなものかも、どれくらいいるのかもわからない。武器もない。何より、こういう時にとかく心強い相棒志願先と、あともう一人――正確には一匹――もいないのだ、ここには。
(レキがまだここにいたら……)
 今日何度目かになる「もしも」を、クリーオウは考えた。
 さすがに誰もが無傷でというのは難しいだろうが、致命傷を血の痕だけにできたかもしれない。暗殺者は消し飛ぶかもしれないが、知り合いが命を落とす確率は格段に減ったはずだ。
 瞬間、胸の奥が締め付けられる感覚に顔を歪める。これは受け入れるべき刺激なのだ、と頭の中で誰かが囁く。それは他でもない自分の声だった。
 息を吐き出して、耐える。少し落ち着くと、一時停止していた思考が再開した。
(領主様は実はものすごい剣の使い手だとか格闘の達人だとか……無理よね)
 夢を見るにも程があるわ、と苦笑した。わずかに緩んだ顔は力なく、元の無表情へと戻っていく。
(……それに)
 心配いらないと言う領主にはあの嫌な奴筆頭――先日認定したばかりだ――のダミアンがついている。だから、怪我することはあっても殺されることはないかもしれない。いや、ないに違いない。
 だから心配はいらないのだ。きっと。クリーオウは心中で繰り返した。
「……」
 膝を抱えて唇を噛み締める自分の向かいに、こちらも膝を抱えたマジクが居た。襲撃される前にした僅かな会話によると、彼も領主と何らかの話をしたらしい。
 それでなのか、幼なじみは酷く気落ちしているように見えた。自分が気落ちしているから、そう見えたのかもしれない。よくわからない。
 今は、人のことまで気が回らなかった。
(レキ……わたし、行かないでって言ったじゃない。何で行っちゃうのよ)
 それは自分を助けるためだ――嫌と言うほどわかっている、そんなことは。だから自分はその助力に従って、前に進んでいかねばならない。
 あのあと領主に何度聞いても、「頼みごと」の内容を教えてはくれなかった。行き先すらも、曖昧な言葉を笑顔で返すだけ。
 助力とは、犠牲かもしれなかった。
「……」
 唇を噛むのを止めて、息を吐き出す。代わりに両の拳を強く握った。
(どうしてみんなそうまでして、わたしに何か与えようとするの?)
 ライアンは「絶望」を。
 レキからはその「絶望」からの救済を――それはきっとこう言うのだ――「希望」への足掛かりを。
 与えられたからには、何かを返すべきなのだ。
 何かを期待して彼らは自分に渡してくれた。その身を犠牲にして。
(頑張らなくちゃ、ダメなのよ。……何があっても)
 それがどんなに辛いことでも。
 それがどんなに苦しいことでも。
 自分にその役割が与えられたのだから、それは全うしなければならない。

 けれどそのプレッシャーに一人で立ち向かえるほど、彼女は強くなかった。
 両膝に顔を埋める。ただでさえ暗い穴倉の中、彼女の視界はゼロになった。目を開けている意味を感じられず、そっと目を閉じる。
 そうして唇をきつく噛み締めた――涙がにじまないように。

 やがて、震える全身にその努力を散失させられながら、彼女は決して変わることのない、信ずるべき唯一縋れるものの名を、呼んだ。


「……オーフェン」



*****



 これをきっと「絶望」と言うのだ。
 「希望」の存在を確信しているにも関わらず、それは掴めないことがわかってしまっている。
 それでも、自分は前に進んで行かねばならない――「希望」を目指して。

 決して辿り着けない、「希望」を目指して。