その静寂を破ったのはオーフェンの声だった。
「ここで待ってろ……」
 クリーオウにそう言ってから、オーフェンはゆっくりと倒れたままのカタルシアに近づいた。いつでも魔術で反撃できるように構成を頭に描きながら、一歩一歩、彼女のほうへと歩を進める。
 暗殺者は勝機が無い限り行動を起こさない。
 師に聞かされ、嫌と言うほど体験してきた定義。この言葉が無ければ今までの人生、何度死を迎えていただろうか。暗殺者と対峙して気の抜いていい時間などありえないのだ。そして
「おい、起きろよ。まさか本気でくたばったわけじゃないだろ?」
 オーフェンの言葉にも、カタルシアはなんに反応も示さない……否、よく見ると彼女の肩が動いている。それも不自然に上下しているのだ。
 彼女の顔が向いている、つまり目を開いていればおのずと視界に入ってくる場所を、なんとは無しにオーフェンは眺めた。
 砕けた盾の破片がレンガの上に散らばり、雨にぬれたそのレンガ自体も今までの激しい戦いのせいでえぐられ、砕かれ、原形を留める物ではなくなっていた。そして、さらにその上にばら撒かれている糸状の物質……彼女の髪の毛だった。
 恐らく盾が砕けたときに飛んだ破片で、ばっさりと切られてしまったのだろう。彼女の視線はそんな地面に横たわるように散った栗色の髪へと注がれていた。と、
「――っ!!!」
 オーフェンは猛烈なプレッシャーを感じ、大きくその場から飛びのいた。そして、その後を通過する銀の閃光。
 もう戦闘中に何度も見た……彼女、カタルシアの放つ殺意の刃である。
「我は放つ光の白刃!!」
 地面に降り立った瞬間、オーフェンは高らかと呪文を叫んでいた。本気で彼女を沈黙させるには魔術でなんとかするしかない。
 そして、彼の放った魔術によって再びレンガが砕け、新たな砂煙が舞い上がる。衝撃で近くにあった建物の壁もパラパラと崩れ、オーフェンの視界はほとんど塞がれた。
「これなら……」
 安堵の表情を浮かべ、しかし警戒を解かぬままオーフェンは砂煙を凝視していた。すると、その警戒を促す本能が、新たな警告の警鐘を打ち鳴らし……銀の刃が砂煙を切り裂いた。
「なっ!?」
 構えていたおかげもあってか何とかその刃をかわすオーフェン。だが、その斬撃は止まらず、きらめく刃は確実にオーフェンの間合いを潰していく。
 そんな状況で魔術を放てるわけも無く、オーフェンはただ攻撃をかわすことしかできなかった。そして……彼の肩を、鋭い刃が切り裂いた
「――!」
 声にならない悲鳴を上げて、オーフェンはまた大きく飛んだ。だが、カタルシアもそれを予想していたかのように、跳躍して剣を掲げた。
 自分のさらに上を飛ぶ彼女とその手に握られる剣。そして、オーフェンは彼女と目があった。
「我指先に琥珀の盾!」
 いつのまにか叫んでいた呪文によって、オーフェンの指先に出現した盾が彼女の刀を止める。金属音が鳴り響き、先ほどと同じ……いや、それ以上の力が剣と接する部分にかかる。
 オーフェンは手を大きく突き出し、彼女との距離を取った。そして、生物が地上で生きる限り無視することの出来ない重力に引かれ、地面へと降り立った。ほぼ同時に彼女も少し離れたところへ着地する。
「えらく殺気だったじゃねえか。今までとは別人みたいだぜ?」
 軽い口調でオーフェンはそう言った。心の中では冷や汗をかいている自分がいるのだが、そんなものを表に出すわけには行かない。ここは、戦いの場なのだから。
「…………」
 結局、彼女は何も答えない。ただ、さきほどまで浮かんでいた怒りの表情も、オーフェンが感じた悲しみの表情も、彼女の顔には存在していなかった。ただ、能面のように表情の、感情の無い顔。それが逆にオーフェンに威圧感を与えていた。
 それ以上にオーフェンを圧倒するのは、さきほどよりさらに増した殺気。突き刺さるような感触は変わらないのだが、まるで突き刺さったナイフをえぐりこまれるような、そんな痛みすら覚える殺気である。
 そして、その殺気が動いた。
 風をまとったかのように、カタルシアは一瞬にしてオーフェンとの間合いを無くした。そして、改めて剣を振るう。
 身体をひねり、それをかわすオーフェンだったが、さきほど切り裂かれた肩からは出血が始まっており、断続的に襲う痛みに集中力が少しづつそがれていった。
 それによってかわせない斬撃。さらに増える傷口。死への悪循環が始まろうとしていた……そのとき。
「あああぁぁぁ!!」
 立会いを演じるオーフェン達の間に、一つの影が横切った。
 厚い雲の隙間から差し込む陽光を浴びて輝く金髪。なによりも固い意志を秘めた瞳。強さを表す何かを放つ表情。その全てが構成する彼女……クリーオウの姿に、オーフェンは何も言うことが出来なくなってしまった。
 レキに作ってもらったらしき、石造りの剣。それがカタルシアのそれとぶつかり、鋭い金属音を周り一杯に響き渡らせる。
「いい加減諦めなさいよ! 運命なんて勝手な理由でレキを傷付けさせないんだから!!」
 そう言ってクリーオウは剣を振りかぶった。そして、振り下ろす。
 だが、その動作の一瞬の隙をついてカタルシアの凶器の剣が、クリーオウの空を切った刀を弾き飛ばした。
「なっ!!」
「させない。私は……あなた達を殺すのよ! それが運命よ!!」
 驚愕に目を見開くクリーオウに、カタルシアは容赦なく刀を振るう。クリーオウも必死になってその刀をかわすのだが、彼女のスピードはクリーオウのそれを大きく凌駕していた。
「――あっ!」
 小さな悲鳴と共に、ぬかるみに脚を取られてクリーオウが体制を崩し、そのまま地面へと横転する。そして……
「終わりよ!」
 彼女の鋭い声と同時に剣が振り下ろされ――る事は無かった。


「ぐっ……」
 苦しげな声と同時に彼女はクリーオウから一歩飛びのいた。よく見ると彼女の腕に一本の短剣が突き刺さっている。
「運命だと? お前はたったそれだけの理由で人を殺すのかよ」
 クリーオウの後ろから、ゆっくりとオーフェンが現われた。短剣を投げ、肩の傷を魔術で塞いだ後で。
「運命ね。俺も確かに信じてたことはあったよ。運命には逆らえないってな」
「そうよ。だから私は……」
「でもな、運命は一つだけじゃねえんだよ。探そうと思えばいくらだって選択肢は有る。それを運命とは違うって言うんなら、この世に運命なんて存在しねえんだよ!」
「私に何を選択できたというの!? あなたに分かるの!?」
 今まで無表情だった彼女の顔に激しい感情が湧きあがる。怒り、憎しみ、恨み……そして、悲しみ。彼女とて、運命に縛られることを望んだはずがない。
(俺が運命に従ってたんなら……ここにはいないさ!)
 周りの人間が見ている運命。それに従ったか従わなかったか…それが本当にどうしようもなく、それを選ぶしか選択肢が無い、本当の運命だったか……
 オーフェンは否定した。そして、彼女は肯定した。
 彼にとってその選択は悲しい事実を作り出してしまった。しかし、一方では別の希望を見出すことが出来たのも事実である。自分も、前に進むことが出来たのだから。
 だが、彼女は動けていない。自らの道を、運命というの名の茨が塞いでしまっているのだ。そして、彼女は今も茨の前に立ちすくんでいる。傷つくのが怖くて……
 だから、だからこそ……
「自分の意志も何も無い! そんな剣で何ができる!? 少なくとも俺を殺せやしない! ディープドラゴンなんてもってのほかだ!!」
「うるさい!! 私は、あなた達を殺す! ディープドラゴンを、あの死神たちを……殺す!!」
「違うだろ! お前が殺したかったのは――!!」



 彼女が殺したかったのは……
 臆病で、何も自分で決められなくて、ただ運命に従うことしか出来なかった……
 彼女自身なのかもしれない……



 勝負は一瞬でついた。
 オーフェンに向かって伸びてきた剣に、もはや生気は感じられなかった。死んだ意志と、死んだ剣が作り出すものなんて何も無い。何も出来やしない。
 難なくそれを避け、彼女の懐へと飛び込む。驚愕に目を見開くカタルシア。
 そして、オーフェンの拳が彼女の脇腹へと突き刺さっていた。
「殺しなさいよ……私は……まだ死んでないわ」
 うめくような彼女の声。致命傷を与えたわけではないのでじきに動けるようにだろう。だが、今は話すだけでも精一杯のはず。だが、彼女の声には意志がこもっていた。全てを終われせたいという意志が……
 そして、そんな彼女の言葉にオーフェンはゆっくりと首を振った。
「……運命ってのはな、やっぱり自分で決められるんだよ。あんたには死ぬ運命しか見えてねえだろうけど、俺にはそう思えねえんだよ」
 オーフェンの言葉に彼女は押し黙った。
「それでも……あんたが死にたいって言うんなら止めやしねえつもり……」
「駄目よ。オーフェン」
 突然後ろからかかった声にオーフェンは振り返った。胸にレキを抱き、ズボンや鮮やかな金髪を泥に汚しながらも、真剣な目つきで彼女――クリーオウはオーフェンを見ていた。
 そして、視線を落としてカタルシアへと向ける。彼女も自分に視線が向いていることに気が付いたのだろうが、そのままあさっての方向を向いている。
「レキは……何もしてない。悪いことなんてしてないし、絶対にさせない。それに……あなたを殺させなんてさせない」
「どうしてかしら……私は、あなたの大切なお友達を殺そうとしたのよ? 別に私を殺したところで……」
「それがイヤなの。あなたはレキを恨んでるって、レキのお母さんや仲間を恨んでるって言ったわ。もし、ここでレキがあなたをどうにかしちゃったら、結局もとに戻っちゃうじゃない。うらみあい、憎しみあい……それの繰り替えし。本当は一緒にいれるはずなのに戦いあうなんて、私はして欲しくないもの」
「……ディープドラゴンの逆らうバカなんてそうそう居ないわ。…………私以外はね」
「だから……だからこそ、あなたを死なせたくないの。本当は……ずっと悲しかったと思うから」
「…………」
「あなたにわかってほしいの。レキの良さを。ディープドラゴンとか、天人とか、私には良く分からないんだけど……でも、悲しいじゃない。お互いが誤解しあったまま死んじゃうなんて。だから、生きて欲しいの。今までの思いを、間違いをなくすために。きっと……もう何に縛られることなんて無いと思うから」
「………………そう」
 彼女の発した言葉の奥に、虚無は存在していなかった。
「もう……いいのね……。私は……もう……何にも縛られなくて……」
 そして、彼女はそのまま顔を伏せた。オーフェンも、クリーオウも、そんな彼女の様子を見ているしかなかった。彼女が自分で立ち上がる、自分の意志で歩き出すのを見守るしか……
 降り続く雨が、地面に横たわるカタルシアの顔を濡らす。それのせいかどうかはわからないが……オーフェンには、彼女の頬を伝うものが……彼女の流した涙にしか見えなかった。
 運命に縛られた今までを思う悲しみと、その束縛を離れ、自らの意志で生きることへの喜び。そんな物が入り混じった涙。
 ふと横を見るとクリーオウが天を仰いでいた。胸元に抱いたレキは、彼女の胸に顔を押し当てて安らかな表情を浮かべている。
「オーフェン……また、濡れちゃったね……」
「……そうだな」


 雨は降り続いた。
 彼女の涙が止まるまで、彼女の過去を全て洗い流すまで……雨は降り続いた。