「オーフェン、どこに行くのよ」
闇の中、いや、光の中だろうか。
・・・そんな事はどうでもいい。
今、自分がこうしてオーフェンの名を呼んだ理由が、分かりさえすれば。
オーフェンはどこにもいない。
どこにも、いない。
「オーフェン、どこ行ったのよ」
言い方が変わった。意味合いも変わる。彼女が小さく顔をしかめる。
小さく胸中で舌打ちしながら柔らかな金髪を羽のように揺らして、少女は周囲を見回した。
この闇の中で。いや、光なのかもしれないが、とにかくこの場所で。
たった一人。彼女一人。それでも。
彼女が目を閉じる事は、決してない。透き通るような蒼緑の目を、歪める事無く前へ向けて。
「オーフェン」
呟く。理由など分からないずっしりと重たい存在感を、胸の中で確かめながら。
例え闇の中でたった一人でも。例え光の中でたった一人だったとしても。
それが長く続く事はない。決してない。例え、オーフェンが自らここを去っていたとしても。
オーフェンは必ず戻ってくる。・・・それは分かっているのだけど。
それでも、自分がここでじっとしている事に意味は無い。この二本の足は、飾りなどでは決してないのだから。
再び糸が交わった時に、彼が頭に手を乗せて苦笑しようとも。困ったように怒鳴りちらされても。
オーフェンの隣に、再び並ぶ為に。彼と全てを、共有するために。
理由などない。そうしたいからそうするだけ。その為の理由など、ただくだらないだけだ。
だがあえて理由をこじつけるなら、『パートナー』と言う言葉が、役に立ってくれるかもしれない。
どちらにせよ、彼女にとってはどうでもいい事だった。
「オーフェーン? ・・・もーう、勝手なんだから」
とん、とん、とかかとを踏み鳴らしながら準備運動代わりのように伸びをする。
手も動く。足も動く。痛いところなんてどこにもない。
大丈夫。いける。
自信たっぷりに一歩目を踏み出す。その根拠なんてどこにもないけれど。
それこそくだらない。邪魔なだけだ。
歩きながら考える。彼の隣に行く為の方法。ただ、それだけを。
彼女の名前は、クリーオウ・エバーラスティン。
――サクセサー・オブ・レザーエッジ――
『鋼の後継』と呼称され、間違いなく大陸最強の黒魔術士の一人である男の隣に肩を並べられる、 唯一の少女である―――――。
DAY AFTER DAY 前編
穏やかな光の中で、いつも通り賑やかな街の商店街。
小さな喧騒の中に紛れ込みながらも、そこから妙に浮くように連れ立っていた三人組が、周囲の人間を半ば押しのけるようにして歩いている。
「・・・いちっ! マジク、お前もうちょっと優しく貼れよ」
「僕だって怪我してるんですからね、これくらい我慢してください」
師の腕に大きなばんそうこうをぺたりぺたりと貼り付けながら、まだまだ華奢でどこか中性的なな少年、マジクがぶーたれたように言う。
いつものようにまったく似合わない黒ティーシャツ、黒ズボン、黒マントは、何故かあちらこちら焼け焦げている。
そして同じように、ジャケットやズボンのあちらこちらを焼け焦げさせている男。
黒髪、黒目、黒ずくめの二十歳程の青年である。周囲の人間をその一睨みで一蹴する事の出来そうな程凶悪な目つきをした皮肉げな造作のその男は、黒魔術士の最高峰、『牙の塔』最高の黒魔術士の証しである、一本足のドラゴンを象ったペンダントを、適当にぶらぶらと揺らしながらしきりにぶつぶつと文句を呟いていた。
「そんなに痛いんだったら魔術で治しちゃえばいいのに。やせ我慢なんてみっともないわよ。ね、レキ」
「・・・どこのどちら様のせいでこんな目にあったのか、いまいち自覚が足りないようだな・・・あだっ!」
「あー・・・もう。だから言ってるじゃないですか、あんまり動かないで下さいよ、お師様」
疲れたようにマジクがうめく。その後ろを今までとことこと大人しくついて来ていたクリーオウは、真っ黒い小さな子犬を頭に戴いたまま、きらきらと太陽に輝く金髪をはためかせて、一気に二人を追い抜いた。
そしてそのままこちらを振り返ると、べーっと小さな舌を出す。
「オーフェンがいけないのよ。私だけ置いてけぼりにして買い物に行こうなんてするから」
「過去にお前を連れていって財布の中身が残った実例がまったくなかったんでな。当然の処置だとは思うが」
「オーフェンもう少し真剣に働いた方がいいわよ。生活必需品を買い込んだだけで財布の中身がなくなっちゃうなんて情けないもの」
「ああ・・・もうなんて言うかひたすらに会話になってない・・・」
だらだらと涙を流しながら諦めたように肩をすくめるオーフェンを、マジクがためらうように見つめる。
「あ、あの・・・でもお師様。あれ、どうするんです?」
マジクが指し示すままに視線で追うと、そこには爆発でも起こしたかのように黒煙をもうもうと舞い上げた、小さな宿がある。
それは見まごう事なく、この街でオーフェン達が拠点としていた宿であった。
「いい修行になりそうだな、マジク」
「・・・なんとなく分かってはいましたけど、面と向かって言われると何だか悲しみ二割増って感じです」
弟子の恨み言は決然と無視して、オーフェンは小さな街の小さな商店街をぐるりと見回した。
狭い道にあふれんばかりに並ぶ色とりどりの商店達。盛大に呼び込みをしている八百屋に子供相手に見世物をしている大道芸人。
フルーツパーラーでくつろぐ学生らしき少女達を横目に、オーフェンは少しでも安い食料品の店を求めてひたすらに目を動かしていた。
「あっ! ねえオーフェンッ! オーフェンオーフェーン!!」
クリーオウが、なんとも甲高い声でオーフェンの名前を呼んだ。この様子では、またろくでもないものでも見つけたに違いない。
そしておそらくこう言うのだ。
「見て見て! すっごいの見つけちゃったのよ私!!」
完全に予想通りの展開にげっそりと俯きながら、オーフェンは怪我をした腕をしきりに引っ張ってくるクリーオウをうざったそうに追い払った。
「ダメだダメだ! 何をどう言おうと俺は絶っっ対に買わないからな! 財布だって今日はしっかり服に縫い付けて、ひたすら迷惑少女の財布すり取りアタック完全無効化仕様を実現してるんだっ! 何度頼まれようと何と脅されようと、俺は決して黒い悪魔の最悪魔術になんぞ屈しないぞ!! 屈してたまるかっ!!」
「・・・何言ってるのよオーフェン」
クリーオウがきょとん、と小首をかしげてこちらを見ている。
盛り上がっていた気合を唐突に削がれたオーフェンは、へ?と間抜けな声を出しながら、クリーオウを見つめた。
見るとクリーオウは、いつの間にかオーフェンの腕から離れて、商店街の一角を指差している。
「警察、ですか?」
マジクの声に我に帰ると、クリーオウが指差している方向を目で追う。
クリーオウが指差していたものは、商店街の中にでかでかと陣取っている悪趣味を形にしたような豪邸だった。あちらこちらに並ぶ商店のおよそ三倍ぐらいの土地を占領しながら、どでん、と重々しくその腰をすえている。その脇に雑然と散らかっている木材を見る限りでは、建築業者か何かの家なのだろうか。そのわりに建物そのものに個性的な特徴を感じさせなかったが、とても趣味がいいとは言いがたい金色の屋根と壁だけは、金持ち特有のセンスのなさと悪趣味加減を、あます事無く発揮していると言えた。
そしてその家から、これまた一目見て金持ちの家主と判断出来そうな程、肥え太って脂ぎった五十代程の男が、その両脇を地元の警察官らしき人物二人に抱きかかえられながら連行されていく。男はしきりに違う、違う、と叫びながら、その周りを面白おかしく取り囲んでいるやじうま達に向かって、届く事のない悲鳴をあげつづけていた。
「違うんだ! 待ってくれ! 俺だって努力はしたんだ! だけどこれが・・・!!」
「言い逃れは警察でしろ。あの二人に借金があったんだろうがお前」
「だからそれは・・・・・・!!」
オーフェンは、連行されていく男の様子を特に何も思わずに見まもりながら、無表情のままクリーオウに問いかけた。
「・・・面白いものってあれか、クリーオウ」
「うん」
「とどのつまり、やじうまに加わりたいと」
「うん」
「くだらん」
「えーっ? オーフェーン?」
くるりときびすを返して再び商店を物色し始めたオーフェンにクリーオウが抗議の声をあげる。
「どうしてオーフェンどうしてどうして私がいったい何したって言うのなんか最近全然私の意見聞いてくれないって言うか全然構ってくないし別に高いもの買ってくれって言ってる訳じゃなくてただちょっと大人の社会について勉強してみようって思っただけなのにその大人の模範となるべきオーフェンが無関心だからいつまでたっても生活安定しないし顔つきにも貧乏がにじみ出ちゃうんだと思うしそれに」
「どぁぁっ! ったくどやかましいいいいいっ!!」
周囲にいる人間が、果てはやじうま達もがいっせいにオーフェンの方を振り返る。一瞬凍りついた空気をどことなく気まずく感じながら――。
次の瞬間には、既にがやがやといつも通りの雰囲気を取り戻していた。先ほどまで驚いた顔で見ていた周囲の人間達が、今ではまるで何もなかったかのように普段の生活に、あるいはやじうまへと立ち戻っている。
「・・・恥かしいです、お師様」
「俺が恥かしくないとでも思ってるのか、お前」
その雰囲気に溶け込む事が出来ず、その場で固まるようにして立ちすくむオーフェンとマジク。
と、ふと気付いたようにオーフェンが声をあげた。
「ん? 俺の恥の総元凶。突発暴走特攻娘は?」
「あれ、ホントだ。クリーオウどこ行っちゃったんだろ・・・」
くるくると周囲を見回していたマジクが突然、あっ!?と言う悲鳴をあげる。
それを聞いてオーフェンはくるりときびすを返した。
「あっ!? どこ行くんですかお師様っ!!」
「引っ張んな、よその小僧っ! 俺は至って正常な人格者なんだっ!! こんなくだらない事で人生二度も三度も踏み外してたまるか!」
「前触れもなく他人にならないでくださいよ! 僕だって何度人生達観させられたと思ってるんですかっ!?」
「オーフェーン! マジーク!!」
やじうまの内堀、つまり丁度連行されている男がいる辺りから、クリーオウの声がする。
恐る恐る振り返った二人は、ほぼ予想通りの展開に、同時に溜め息を付いた。
クリーオウが連行途中の犯人の隣で笑っている。何故かその片手に緑色の置物を握り締めながら。
もうその理由すら知りたくもない、とオーフェンは疲れたように肩を落とした。
「ただいまー!!」
丁度夕飯を済ませた頃。
機嫌よく大声をはりあげたクリーオウが、ばたん、とオーフェンとマジクの部屋のドアを開けた。
部屋でベッドに寝転がりながらくつろいでいた二人は、彼女の登場にも特に何の反応も示さずに、相変わらずごろごろとベッドに転がっている。
クリーオウは、派手に開いたドアを自分でしめながら、余りにも淡白な二人をぼやくように言った。
「もー。あんまりごろごろしてると、カビ生えちゃうわよ二人とも」
オーフェンがごろり、とクリーオウの方を向く。
「お前こそ、こんな時間までどこ行ってた」
「それって商店街のど真ん中に堂々と私を置いていったオーフェンの言えるセリフじゃないわよ」
「仕方ねーだろ。いきなり、もう何て言うか予告なく突然に、太陽に当たると体が砂と化す体質になっちまったんだから」
「これだけ時間が空いたって言うのにその程度の言い訳しか出来ない訳ね、オーフェン」
「いいからさっさと答えろよ」
「あ、うん。あのね・・・・・・」
下を向こうとして頭を下げると、レキのしっぽがふさふさと彼女の顔をくすぐる。それが嫌だったのか一旦レキを地面に下ろしてから、再びクリーオウは下を向き、いつもの白ブラウスの胸元から、何かをごそごそと取り出した。
「見て見て! さっきのおじさんからこれもらっちゃったの!!」
「? なんだそりゃ」
さっきのおじさん、オーフェンは瞬時に先ほど連行されていった小心者っぽい男を思い浮かべた。
その男からもらった、と言う品物を両手で大事そうに抱えながら、クリーオウはうきうきと楽しそうに笑っている。
「・・・・・・女神像?」
マジクがぽつりと呟く。
クリーオウの手で鈍い輝きを発していたそれは、空を見上げて何かを祈る、真緑色の女神像だった。見上げていると言うわりには、その目はしっかりと閉じており、まるで崇高すぎる何かを直視出来ない、とでも言わんばかりだ。
オーフェンは馬鹿馬鹿しい、とふるふる左右に首を振ると、呆れたように肩を落とした。
「アホか。んな腹の足しにもなんないようなゴミ。興味無し」
「あ! ひどいオーフェン! いくら本能的な欲求にしか反応できないからってそれは言っちゃいけないと思うわよ!?」
「あーはいはい、どうでもいいです俺は」
ぞんざいに返事をするオーフェンの隣のベッドで、マジクが不思議そうにクリーオウに聞いた。
「もらってきたって・・・クリーオウ。どこでそんなの見つけたのさ」
「何言ってるのよ。さっきあの人が逮捕される時に手に持ってたじゃない。見てなかったの?」
「まぁ・・・それどころじゃなかったし・・・」
疲れたようにマジクが溜め息をつく。その一方で嬉しそうにクリーオウが語りつづける。
「だからそれ見て『わぁ綺麗!』って思わず言っちゃったんだけど、そしたらなんかその人、その置物私にくれるって差し出してくれたのよ。なんか必死になって」
「・・・・・・なんか段々嫌な感じの話になってきたな・・・・・・」
「そうですね・・・」
二人の言葉も全然届いていないのか、クリーオウの機嫌は相変わらずいい。
「だから、くれるんだったらもらっておこうかなって思って。でもそしたら警察の人が、『凶器の可能性もあるからダメだ』って」
「・・・ちょっと待て。その男、何の容疑者だったんだ?」
半眼で冷や汗を流しながら、オーフェンがクリーオウの一人語りを止めに入る。しかし彼女はあっけらかんと、
「うん、なんか二人くらい人殺しちゃったみたいよ」
と答えた。
マジクが顔面蒼白にしてうめくような声をあげる。
「ク、クリーオウ・・・」
それをどう言う風に受け取ったのか、クリーオウはうん、と頷き、
「私もね。凶器だったら嫌だなーって思ったんだけど、警察の人が夕方くらいまでには調べ終わるって言ってて、それで何も出なかったら好きにしていいよって言うから、私今の今までずっと警察で待ってたの。面白いわよね警察って。なんか机の上にあご骨砕き機とか自動髪染め機とかあるのよ」
最後のセリフに妙にひっかかるものはあったが、・・・まさかな、とオーフェンは一人納得する。
「それでもさ、クリーオウ。殺人の容疑者みたいな人から物もらうなんてなんかさ・・・気持ち悪くない?」
「そんな事ないわよ。凶器じゃないって警察の人も言ってたし、なんか小心者っぽかったからホントに人を殺したのかどうかも怪しいくらいだわ」
クリーオウはそのままうーんと伸びをして、ことん、とすぐ隣にあったマジクのベッド脇へとその銅像を置いた。そしてくぅ、と鳴るお腹を押さえながら、ちょこん、と小首を傾げてオーフェンの方をむく。
「私の夕ご飯は? オーフェン」
オーフェンは、自分のベッドのすぐ脇をちょいちょい、と指差しながら、適当に答えた。
「ここだ。お前があんまり遅いから、宿の女将さんに包んでもらった。・・・後でちゃんとお礼言ってこいよ」
「うん!」
それを聞いてクリーオウはその場でぴょんと飛び跳ねると、嬉しそうにぱたぱた近づいて来た。
マジクはそのクリーオウの様子を見守りながら、自分のベッド脇へ大事そうに置かれた銅像をその手に取ってみる。
「大事に扱いなさいよ、マジク」
「う、うん・・・」
鈍く輝く緑色の銅像は、何も言わずに何かに向けて静かに祈りつづけている。あんまりタイプじゃないな、とクリーオウに聞かれたらそれこそまた吹き飛ばされそうな事を考えながら、マジクはその銅像の顔に手を伸ばした。冷たい頬の感触は、どことなく死を感じさせる。
・・・銅像なのだからそれも当たり前だが。
ほぅ、と何とも無しに溜め息をつくと、オーフェンのベッドの方から、何気ない会話が聞こえてくる。
「ほら、なにやってんだよ、そこだって。俺のバッグの中の・・・」
「あー!? オーフェン、どうしてこういう入れ方するのよー!! これじゃ中身がぐちゃぐちゃになっちゃうじゃないっ!」
一通り口論をした後、とりあえず落ち着いたクリーオウは、とにかくお腹を満たそうと包みへと手を伸ばした。
がさがさと中身をあけると、簡単に食べられるようにと配慮してくれたのか、分厚い肉を間に挟んだハンバーガーが、食欲を誘う匂いをさせながら、彼女の目の前に現われた。さっそくかぶりつこうとして、その横に小さなケチャップの容器がついているのに気づく。
最初から塗りたくっておくとパンと具がべちゃべちゃになってしまうからなのだろう。
よく気のつく女将に感謝しながら、ケチャップの蓋を開けようとしたその時。
ひゅ、と小さな音をさせて、そよ風のような気配が彼女の首筋をくすぐった。柔らかそうな金色の髪が、一瞬ふわりと舞い上がる。
「? なんだ?」
オーフェンもそれに気がついたのか、包みを開けようとしていたクリーオウから目を放し、がば、とベッドから起き上がり窓を見た。
窓は開いていない。いや、そもそもこれは窓の方向から吹いてきた風じゃない。
しかしドアならさっきクリーオウが閉めたはずだ・・・とオーフェンはくるりとマジクがいるドアの方へと振り向いた。
そして次の瞬間、目を丸くする。
「お、お、お、お師様っ!!」
緑色の銅像を胸に抱き上げたまま鈍い悲鳴をあげるマジクの髪が、そこが風の発信地とでも言いたげにざわざわと跳ね回っている。
しかしその悲鳴が指し示すものはどうやらそこではないらしい。
オーフェンもそれに気がついてはいた。・・・が、出来る事なら気にしたくはなかった。
「マジクッ!? お前何したっ!?」
徐々に強くなってきた風に抵抗するように、オーフェンが大声をあげる。
「こっちが聞きたいですよ!? まぶた触ったらいきなり目が開いたんですーっ!!」
そう叫ぶマジクの胸元には、今まで静かに祈っていた様子など微塵も感じさせない女神像が、かっと両目を見開いて、輝かんばかりの緑色の瞳でこちらを見て微笑んでいた。
オーフェンは風に吸い込まれそうになる感覚を覚えながら、なんとか抵抗しようと構成を編み始める。しかし更にグレードアップした強風に、そのスイッチとなる声が、声となる前に消えてしまう。
クリーオウがあっけにとられたようにケチャップ片手にマジクを見ていた時。
その体がずっ、と前に引きずられた。
(! 吸い込まれる!?)
声にならない悲鳴があがる。体重が軽い分、クリーオウはものすごい速さで銅像の方へと引きずられていった。
オーフェンのいるベッドへつかまりながら必死の抵抗をしてみるが、ぶるぶると震える手はいつベッドから離れてもおかしくはない。
オーフェンが、風の抵抗を少しでも弱めようと、這いながらクリーオウの元へ向かい始めた、その時だった。
風の勢いが、一気に強まった。
まるで、強風と微風のスイッチを入れ替えたかのように。
「きゃっ!!?」
殆ど音になってない声で、クリーオウが悲鳴をあげる。
(どわっ!? ちょっと待っ・・・!!)
オーフェンの制止の叫びなどもちろん届くはずもなく、彼の体は一気に宙に浮いた。
そしてまるで体の中身が浮き上がるような感覚に吐き気をおぼえながら、オーフェンはマジクの手元にある銅像に吸い込まれていく自分とクリーオウを、どこか客観的に感じていた。
「おい、クリーオウ、起きろ」
肩を乱暴にゆすゆすと揺さぶりながら、オーフェンはクリーオウへと声をかけた。
やがて、う~ん・・・と何とものん気にうめいた後、クリーオウがきょろきょろと周囲を見渡す。
「オーフェン? あれ、何ここ」
「俺が知りたいよ、んな事」
深く溜め息をつきながらオーフェンが独りごちる。
彼らの疑問は最もだった。
ぐるりと辺りを見渡してみても、何一つ視界に入ってこない。そう、彼らの足元に転がっているある二つのものを除けば。
それに気がついた時が恐怖だな、と何となくオーフェンは感じながらも、未だにきょろきょろと首を動かしているクリーオウを見る。
「ねぇオーフェン」
「なんだよ」
「・・・ここって明るいのかしら、それとも暗いのかしら」
オーフェンがさぁな、と言わんばかりに肩をすくめる。
見渡す限り、ここがどこなのかは皆目見当がつかなかった。オーフェンとクリーオウ、お互いの存在は認知できるのだが、それ以外のものがなぜだかとても曖昧にしか捉えられない。
空がない。大地がない。色がない。光がない。闇がない。
ないないづくしの空間で、とりあえず首をひねりながらクリーオウが口を開いた。
「私達って、マジクが抱えてた銅像に吸い込まちゃったのよね・・・」
「あぁ。物騒な銅像だぜ、いきなりぱっちり目ぇ開いたかと思いきや、あっと言う間に吸いこまれちまった」
「ほんと、あっと言う間だったわよね」
そのまま、小さな沈黙が流れる。
「・・・他に何か言う事は?」
「・・・どう言う意味よオーフェン」
「どう言う意味もこう言う意味も、そう言う意味にしかならないだろーが」
「どうこうそうじゃ何も分からないわよ」
「・・・ならはっきり言ってやろうか・・・」
途端にオーフェンは大声で怒鳴り始めた。
「辺り構わずぽんぽんぽんぽん何か拾ってきやがって! せめて安全と言う安全は確認してから持ってこい! このバカ!」
「拾ってきたのは始めてよっ!? それにどうして私のせいばっかりにするのよ! オーフェンが我関せずみたいな顔するからいけないんじゃない!!」
「我関せずも何も、あれだけひたすらに人の言う事欠片も聞かんで暴走されたら、誰だって無関心装いたくもなるわ!」
「だから声かけたじゃない! オーフェンって!」
「呼ぶタイミングを考えろ! タイミングを!」
「ちょっとそれってすっごく我がままじゃない!? 私は・・・!!」
喧々囂々と口論した挙句、ふ、とお互いに溜め息をつく。
「・・・こんな所で不毛な怒鳴りあいなんぞしてる場合じゃなかったな」
「そうね。とりあえずさっさとここから出てマジクを吹き飛ばさなくちゃ。ね、レキ・・・・あれ?」
クリーオウはつい定位置である頭に手を伸ばしてしまったが、そう言えばさっき床に下ろしたのだった、と思い出す。
それなら、と足元の方へと視線を落としたクリーオウを見て、オーフェンはさっと手を耳に当てた。
それと同時に、ひくっと声をつまらせたクリーオウが目を見開く。
と、次の瞬間。
「きゃぁぁぁぁぁっ!?」
クリーオウがきゃあきゃあと、耳を塞いでいても伝わってくるような大声で悲鳴をあげはじめた。
「オーフェンッ!! オーフェンッ!! 死体死体ぃぃぃ!! それも一体だけじゃないのよ二体も―――っ!!」
半ば予想していたのか、クリーオウがわめきたてるなか、オーフェンはそれが静まるまで冷静に耳を塞いで待った。
時々ぶんぶんとオーフェンの腕を揺すりながら、クリーオウが言葉にならない悲鳴を上げつづけている。
やがてそれでも相手にされない事を悟ると、クリーオウはオーフェンの首元を掴んでぎゅーっと締め上げながら、更に悲鳴を上げ始めた。
「オーフェンオーフェン!! ちょっと聞いてるのオーフェン―――っ!!」
「だぁっ! 離せっ! ど苦しいわぁぁぁぁっ!!!」
クリーオウの手を振りほどいて、クリーオウに負けない勢いで叫んだオーフェンにようやく正気を取り戻したのか、クリーオウはひくっと再び声を詰まらせた。
「・・・ったく、毎度ながらいきなり暴発した上に、回避しようと試みた人間まで巻き込みやがって」
けほ、と下を向いて軽く咳き込んだ時、オーフェンの視界の隅に、黒い何かが入り込んできた。
――――――黒い何か。
見覚えはあった。だがクリーオウのものではない。そこに転がる二体の死体のものでもない。
だが、やはり見覚えがあった。それだけではない、その持ち主がいったい誰であるのかさえも。
それでも認める事が出来なかったのは。
・・・いや、そうじゃない。それでも認めようとしなかったのは。
オーフェンは、その黒い何かを視線で追うように、ゆっくりと顔を上げた。
こんな所にいる訳がない、そう思っていたのかもしれない。
いや、こんな所だからこそ、いるのかもしれなかったが。
先ほどまでわめいていたクリーオウが、不意におし黙るのを暗く感じ取りながら。
「・・・・・・・・・・・・アザリー・・・・・・・・・・・・」
喉の奥からこみ上げてくる何かを必死で押さえつけながら、オーフェンはキムラックにて再びその姿を消してしまった、姉の名を、陰鬱に呼ぶ。
色気も味気も何もない、真っ黒いバトルス―ツ。あの日の姿のままのアザリーが、からかうような笑顔でこちらを見ている。
「オーフェン・・・」
何か不安そうに声をあげるクリーオウ。
その彼女の声にかぶせるように、アザリーが口を開いた。
「キリランシェロ」
びくり、とオーフェンの体が跳ねる。ただそれだけで。何かが体の奥に立ち戻ってくるような感覚を覚えながら。
「こっちよ」
誘うように、アザリーがきびすを返す。手招きも何もしないで、その場から逃げだすように。
オーフェンがついてくるのを、まるで信じて疑わないように。
オーフェンは静かに目を閉じた。
思う事は溢れるほどあるが、それを今は無理やり押さえつけて、再びゆっくりと目を開く。
そして声をかけようかどうしようか迷っているクリーオウの頭をぽん、と軽く叩くと、彼女を追って走り出した。
「ちょっとオーフェン!?」
「すぐ戻る!!」
何かぎゃーぎゃーとわめき立てているクリーオウの声が遠ざかるのを何となく感じながら、オーフェンは逃げつづける姉の背中を追い続ける。
これは意味のないゲームだ、と胸中の何かが忠告してくる。
そんな事は分かっている、とどこか言い訳のようにそれを押さえつけながら、オーフェンはクリーオウの叫び声を決然と無視して、限りなく空虚な世界を一人、走りつづけた。