「 食べられないと言うこと 」
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おそらく、今の子供達は休験したことがないであろう。
しかし、昭和30年代、その日食べるものが無いなどと言うことは、当たり前の時代であった。
熊先生の家庭でも、両親は借金を返すために、二人とも外に出て働いた。男ばかりの兄弟の中で、家事は末っ子の晃に押し付けられた。料理するのは面白かった。
しかし、困ったことが一つ有った。今から思えばそれは月末に集中しているので、債権者から逃げていたのだと判るが、当時は何の事かわからなかった。
「晃ちゃんちょっと留守にするから」と大枚千円札1枚おいて、二人で出かけるのだ、始めの内は「やったー贅沢できる」と勘違いして、普段買わないものまで食卓に乗せた。 しかし3日たっても帰らない。一週間十日のこともあり、金が無くなることもしばしばであった。
いつ帰るか判らないから倹約する何て智恵が働けば良かったが、「奥の手がある以上、そんなけち臭い真似は出来ない」と言うのが、意地っ張りの本性か。兄達は中学に通っているので給食が無いから、金が無くとも二人分の弁当だけは作らなければ成らない。この分だけは何とかした。しかし「今日は飯が無い」と言うと「そうか」と言って黙って部屋に行く兄達は頼もしかった。作れないことを怒られたことは無い。誰もが我慢をしなければ生きていけない時代であった。
ここで、金が無くとも生きられる奥の手を語っておこう。
それは、魚屋さんと八百屋さんに秘密がある。当時は貧富の差のあるものが、同じ地域に住んでいたので、魚屋さんで30分も待っていると、イカの刺身を買う人が必ず来る。裕福な家庭では、ゲソと言う足の部分は持ち帰らず「捨ててください」と言うので、「捨てるなら頂戴]と言って貰って来る。しょう油に20分ほど漬け込んで、バターで炒めれば立派な食材だ。
八百屋さんでは、大根を買って、葉っぱを干切って捨ててと言う人がいるので、その葉っぱを貰ってくる。これを刻んで味噌汁の具にしたり、油炒めはピリ辛でおつな味がする。子供の智恵では、これは物乞いではなく、立派な知識による再生産だった。
しかし、度重なれば、やはり職人さんも、
立って待っている意味に気が付くようになる。頼まないのに、お客さんに「足は捨てますか?」と聞いてくれる。彼のために取っておいてくれるようになった。八百屋さんでは、お客に何も聞かずに、葉の根本をすっぱり包丁で切って、お客に新聞紙でくるんで渡し、彼のために身の付いた葉を残しておいてくれるようになった。
さすがにこの期に及んで、人に施されていることに気が付いてしまった。生来意地っ張りの彼は八百屋さん、魚屋さんの門に立てなくなった。
必然的に、何も食べ物が無い日が1週間も続くようになった。
すると今度は、隣のおばさんが「晃ちゃん、おかあさん暫く見ないけど留守なの?」と確認し、「たくさん作りすぎちゃったから」と言っては、おでんや煮物を届けてくれるようになった。
周りの大人が寄って集って助けてくれた。
どこへ行っても、どんな所に行っても、そこに人が住んでいる限り、絶対大丈夫だと言うことを、1週間食えないすきっ腹の中から知ることになった。
食べ物に不自由したことの無い子供たちには、絶対に感じられない境地であると思う。
どちらが幸せなのかは、最期までわからない。
生涯何度も転勤転居することになるのだが、その事で、迷いも不安も感じないようになったのは、この頃の体験が大きい。今はそれで良かったと思えるようになった。
どのような場合でも、味方はいる、敵を作るのは自分の心の持ちようだ。
学校の先生になった時、閉じ篭り、不登校になった生徒を見ていて、可哀想になった。
有る事が当たり前の人生では、今有るものが無くなる不安からは逃げられないだろう。無いことが当たり前になって、初めて得られる事の有難さを知る事になるのだ。
自然自然に不登校の救済が使命になった。
……
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