私の名前は水島。

悪いが、下の名前は聞かないで欲しい。



性別は女、年齢25歳。

ごく普通の、出世願望も、結婚願望もない、本当に普通のOL。


・・・だったのだ。



そう、ついこの間までは。




…現在、私は…呪われている。


”縁切り”という名の呪いだ。



現代において


”呪い”も


”性描写のない少女マンガ”も


”今朝、道でぶつかったイイ男が、自分のクラスへ転校してくるという展開”も


現実には無いものだと…そう、思っていたのだ。


ついこの間まで。


自分が呪われている、と『確信』するまでは。


縁切りという呪いは、自分が望んでもいない縁が、どんどん自分に絡み付いて

ややこしい事態にひたすら巻き込まれていく、という恐ろしいものだ。


ああ、なんと恐ろしい呪いだろう。


人嫌いの私にとって、人と縁が出来るというだけでも、最高に嫌な呪いなのだ。


そんな呪いを解くためには…私が心から想う人間と、深い絆を結び、縁結びの儀式をしなければならないという。



・・・要するに、女性と恋をしろ、という事らしい。



…そして、ここが一番肝心な事だ。


縁結びの儀式をしないと、私は近々、死んでしまう恐れがあるらしい。

人との深い縁…できる事なら結びたくは無いが…命には代えられない。



だが、私は迷っていた。



これからの人生、恋の相手が、女性オンリーであるというこの人生…

こんな思いをしてまで、全うすべきなのかどうか、を…。






         [水島さんは仕事中。]





会社のオフィスでは、カタカタとキーボードの音が響く。

電話の応対や、外から車の騒音…耳障りなオフィス。

慣れれば、何の事は無い。


慣れは、人生の強みだ。


時間の経過は、時に苦痛を和らげてくれる。

「ちょいと〜水島くぅ〜ん」


素人が酔っ払った勢いで、ルパン○世の真似をしたような声で、私を呼びつけるこのおっさんは

私の上司、近藤係長だ。




「はい。」

「水島くぅ〜ん、コレ、企画課にまわしてもらえない?」



我が事務課の近藤係長は、メタボリックを気にする40代のおっさんだ。


彼を見ると、私は、無性にトンカツ等の『高カロリー食品』を口にしたくなる。


…それ以外に、私は彼に対して、特に関心は無い。



「はい、この資料全部ですね?」

(今日のお昼、久々にフライドチキン食べようかな…)



「お願いね、あそこの企画課長、怖いんだよ。どんだけ〜って感じでさ、だから早めにねー」



彼のこの"人懐っこい喋り方(ルパン喋り)"は、事務課の女子社員に、とても不評だ。

”昔はモテた”という彼の過去の栄光話も、誰一人確かめる事は無いし、興味も無い。



「はい。」

(ピザでも良いな…サラミいっぱいのったヤツ。)


「よろしくぅ〜」


前は女性と話す方が多かったのに…今は、男性と話している時が、多い。


私は、先日の出来事で出来る限り、女性とは接さない事を決めた。

どうにも、私の意思とは無関係に、女性を惹きつけてしまうからだ。


いつまた”ややこしい縁”が私に絡みつくか、わからない。

社内恋愛にでも発展したら、それこそ、最もややこしい人間関係だ。


会社の人間ほど、深く付き合いたくない者はいない。


毎日毎日会うからこそ、慎重に付き合わなくてはいけない嫌な人間関係。

それが、会社の人間だ。



ずっと、付き合うからこそ…良い人間関係を築かなくてはいけないのだ。


学生時代に好き勝手に、友達を選べる選択権は、社会に出れば無いのだ。



誰かの悪口につき合わされても、ニコニコ笑って、そうなんですか?と誤魔化す。

決して、ノリで悪口を言ってはいけないし、悪口を言った人物を否定してもいけない。

前者は、「水島、お前の事、こーんな風に言ってたよ」などと言いふらされ、評判が落ち…

後者は、「水島って、いい人ぶってんなぁ?」などと因縁つけられ、評判が落ち…という事になる。


どのみち、誰かを、敵に回す事を意味する。


…何が大人の付き合いだ。

大人になるに従って、染み付いた知識とやらでコーティングされた分、余計に大人の人間関係の方がややこしい。


こうなると…もう、ただの”化かし合い”だ。

そんな狸な彼らと誰が、縁を結べるというのか…。


だから、休日や会社以外の場所で、狸と時間を共有するなんて私は、固く遠慮している。

勿論、付き合いが悪いといわれるのは、承知の上だ。

それに、私がいなくても、飲み会の類は、固定メンバーで勝手に盛り上がるだろう事は、分かりきっている。


適度に相槌をうち、仕事をこなし、始めと終わりの挨拶を欠かさなければ、狸の目は誤魔化せる。


…まあ、こんな本音、誰にも言えないのだが。


それに、こんな呪いを受けている状態で、社内の女と話すなんて出来るわけがない。


…万が一、好きになられでもしたら…困る。


ややこしい女関係は、出来るだけ…避けねば。




  ”ピンポーン”



エレベーターに乗り込み、14階を押す。運よく、一人だった。


…出来る限り、女性と2人きりになる状態は避けねばならない。


密室であるエレベーターは、私にとって結構、危険な場所である。



(こういう時に限って、女が乗ってきて…2人きりのまま、エレベーターが止まったりしたら、最悪ね…)


”ピンポーン”



・・・14階のランプが点灯し、扉が開く。

フン、そうそうそんな事あってたまるか…。

私は、小さな幸福を感じつつ、開くドアから一歩足を踏み出した。



「…どうして、この程度のミスを繰り返すのっ!?」


耳に入ってきたのは、近藤係長ゴリ押しの”怖い女課長”の怒号だった。


ああ、嫌だなぁ…とばっちりとか喰らったら、嫌だなぁ…

と小心者の私は、心の中で手を擦り合わせながら、企画課(正確には企画営業課)の扉を開けた。


「…失礼します、事務課です。」


雑然とした事務課のオフィスと違って、企画課はドラマのオフィスのようだ…まず、照明が違う。


明る過ぎる蛍光灯じゃない…ちゃんと、自然色の優しい蛍光灯だ…

机の上に積まれた書類も、パソコンに添付されたメモも、綺麗にみえるから不思議だ。


しかし。

今の企画課の状況は、羨ましくもなんとも無い。

緊迫し過ぎた空気に、響く怒号。

窓辺には、怒号を浴びる男性社員と、怒号を浴びせる女課長の姿があった。


周囲の社員はというと、もう慣れたもの、といった具合で、カタカタとパソコンのキーボードを叩き、電話をかけている。

同僚が怒られている横で、する仕事は…あまり気分の良いものではないだろうに。


・・・これも、慣れなのだろうか。


ああそうだ、私も仕事をしなければ。


私は近くにいた男性社員に、資料を見せながら言葉をかけた。



「あの、事務課ですけど、この資料はどこに?」


「…ん…ああ…それ、花崎(かざき)課長だね。」



男性社員は、資料を見るなり苦笑しながらそう言った。…運が悪かったね、と言わんばかりに。

はあ…そうですね、という表情を浮かべて私も苦笑した。



「どうしてこんな事になったのか、自分で反省点をあげられる?」

花崎 翔子(かざき しょうこ)課長は、出来る仕事人間だ。

長く黒い髪を上げ、Yシャツの袖を捲り上げて、仕事に取り組む姿には、同性ながら感心してしまう。

・・・今は、説教中だから、眼光が鋭くて、感心よりも”恐怖”が先立つ。

私の予想だが、多分、彼女は普段から、眼光が鋭いのだろう。

しかし、彼女という人は、キリッとした真剣な表情しか、会社では見せないらしい。

隙もなく、毅然とした雰囲気をまとった彼女独特の気迫に、殆どの人間は圧倒され、その空気に耐えられないという。

その雰囲気のせいで、彼女には浮いた話が一つもないという話である。


「…すいませんでした…」


「そうやって”すいませんでした”で済むミスだと思い込んでいるから、いつまでも小さいミスを繰り返すのよ!

 解ってんの?」


淡々と、そして、的確に弱点を突き、追い詰めてる説教だ…うわー…怖…!

・・・私の上司、近藤係長で良かった・・・。


「す…すいませんでした…」


「それしか、いえないの?…自分でも情けないと思わないの?この状況が。」


こうなると、男性社員が可愛そうに思えてくる。


一体何をしでかしたのやら…まあ、それは良く知らないし、知らなくてもいいだろう。

私は、私の仕事をするまでだ。

しかし、私が戦場…いや、花崎課長の机に向かうと、事態は意外な展開を見せた。



「るせーよ…」



…ボソリ、しかし確実に企画課に響く声だった。


怒られている筈の男性社員Aさんの口から、まさかの逆ギレ発言「るせーよ」が出たのだ。


私は、その瞬間

足を止め、斜め前方にある観葉植物に方向転換をして、見たくも無い埃をかぶった葉をしげしげと見つめた。


視界に入れたくない、あの修羅場に一歩でも、足を踏み込むなどしたくない。



「なん、ですって…?」



あー課長、ごもっともなご意見ですが、今は遠慮して…私がいるから…



「うるせーから、うるせーって言ったんだよッ!偉そうに、グチャグチャ言いやがって!!」



だから、私がいない時にやってくれぇ…



「自分が何言ってるか、わかってるの!?木村君!」



・・・そうよ、ヒートアップしないでぇ…木村ー!



「ああ〜!!うるせえうるせえ!!辞めてやるよ、お前みたいな上司いる会社なんかなッ!」


ああ、辞めてくれ…後で思う存分、辞めてくれ…!私がいない場所で!



…どうやら、木村君はかなり前から、こういう風な扱いを受けていたのだろう。

そして、かなり前から花崎課長に対しストレスを溜めていたようだ。


…ああ…だからって、今やんなくったって…


「何言ってるのよ!自分のミスでしょ!?どこ行くの!?待ちなさい!」


「やってらんねえよ!」


…ああ、ややこしそうな現場…関わりたくな


「オイ、聞いてたろ?アンタ…どう思うよ?」


(げ…。)


木村君は、よりにもよって植物鑑賞中の私に、話を振ってきた。


どうって…。


「何が、ですか?」


「アンタだって、こんな上司願い下げだよな?」


逆ギレ木村のせいで、私に視線が集まる。

花崎課長も、黙って私と木村を見ている。


・・・・・はあ。


「…私は、事務課の人間ですから、他の課の仕事についてはちょっと…。」



無難な答えだ。それしかないだろう。


しかし、木村君の気は納まらなかったらしい。


「仕事の話じゃねえよ。事務課の水島さんよォ!見てただろォ?

この女はなぁ!いつもいつも、偉そうに小さいミスをグチグチ叱るしか、能が無い女なんだよ!
 
アンタなら、こんな女、上司だって胸張って言えるかぁ?」


「お、おい!木村…!」


私は、木村に油を注いでしまったようだ。


さすがに周囲の人間も『コイツやっべぇ』と思ったのだろう、木村を止めに立ち上がり始めた。

私は、チラリと花崎課長をみた。

こんな状況にもかかわらず、彼女の表情は変わらず、毅然としていた。


・・・私がもし彼女なら、あまりの面倒さと苛立ちで泣いているだろう。


花崎課長は、強い人だ。時に強さは、人を惹きつけ…人に憎まれる。


彼女は損をしている、と私は思う。


…彼女なら、私よりもっと、人と上手く付き合う方法が、あるだろう…


だけど、それはあくまで、私の感覚で考えたモノの見方だ。

他人から損に見えようと、あれが、彼女のスタイルなのだろう…



・・・・ふー・・・・。



…どうも最近の私は、おかしい。

こんな状況で、話を振られても、前の私なら口は開かなかった。


ややこしい状況を避ける専門だった以前の私は

ややこしい状況を避けられない呪いをかけられたのだ。


どうあがいても、ややこしい状況と人間に、私は巻き込まれる。

ならば、いっそ自分の思う通りの行動をして、悔いの無い一日を過ごそうではないか。


…どうせ私は、事務課の人間だ。出世とは縁遠いし、仕事は手にしている資料を渡すだけ。




・・・こうなりゃ、ヤケじゃ、ちくしょう(本音)




「そうですね…叱られる時は、見せしめのような状態ではない方が、ありがたいですね。」



私のその一言で、場の空気が凍りついた。

それもそうだろう、私の一言は、逆ギレ木村側につく事を意味していた。


だが、私は誰の味方をするつもりもない。


「だけど、貴方みたいな小さいミスで周囲に迷惑かけて、逆ギレ起こしたりする同僚を持つのもゴメンです。

 周りを良く見たらどうですか?」


私がそういうと、木村は、ハッとしたように周囲を見渡し、黙った。


「それから…人の事、こんな女って言う前に、自分でやる事出来てから言って下さい。」


・・・ああ、言っちゃったよ私・・・ますます気まずい空気に・・・


私は、小心者だし、自分は仕事が出来る、とも思っていない。

偉そうにこんな事を言う立場じゃない。だが、聞いてきたのは木村だ。

だから、正直に言っただけだ。


・・・係長に怒られたら、そう説明しよう。

さてと、仕事仕事・・・


「…花崎課長、コレ資料です。」


「あ…ありがとう。」


私が、資料を渡すと、花崎課長は少し戸惑ったような表情を浮かべて、私を見ていた。



「…失礼します。」



私は、ツカツカと靴音を立てて、静かに企画課のドアを閉めた。





   ・・・・・・・・・・・・。




私はドアを閉めた途端、壁に背中をつけて、息を一気に吐き出した。




「…っ…ハァッ…ハァッ…!!」



じゅ、寿命が…寿命が…縮むかと思った…!!

やたらめったらと、小心者がカッコつけるモンじゃない…ッ!!



私は、エレベーターのボタンを押して、乗り込んだ。


「…ふう…」


…たかが、資料を届けるだけで、このザマだ。


しかし、今日は、まだ良い方だ。


ややこしい上に、女性に好かれてしまう私にとって、この程度何の問題はない。

あの課長はしっかりとした仕事人間であり、ややこしい女性ではないから、あの程度関わっても問題はないだろう。


エレベーターのドアが閉まり、下に…

あれ?上に上がってる?…しまった…間違えたか…

現在18階を過ぎた所だ…しょうがない、一旦降りるか…


私は、20階を押した。


このビルは、全24階となっている。


”チーン”


ドアが開いて、私はエレベーターを降りた。20階は、主に会議室や、視聴覚機材置き場の集まりだ。

あまり近づかない方が、良い場所といわれている。


…ここでは、鍵がかかる上、防音性も高い事から『逢い引き』が行われている・・・との噂だ。


そんな現場、しかも上司に出くわしりしたら、出世の道はほぼ閉ざされるのだろう。


事務課の人間には、おおよそ用のない場所だ。

よし、さっさとエレベーターに乗り込むとし…


”チクン…”


・・・まただ。

また、嫌な予感。


この頭の底の奥に感じる”チクン”とした嫌な予感は、私が縁切りの呪いを確信してから、感じるようになったものだ。


・・・この予感は・・・『女難の前触れ』。



”カチカチカチカチ・・・・!!!”



私は『閉まるボタン』に”怒涛の連打”を繰り出す。

しかし、無常にもドアは開け放たれたまま、動こうという気配すらうかがえない。

…し、閉まらない…!?どうして…ッ!?



”チクン”



…諦めろと言うように、頭の底の奥が痛む…。

私は、エレベーターから出る事にして、階段から下る事にした…。

階段は、このフロアの一番奥にある。面倒だが、移動するしかない。


そして、逢引が行われているらしい、このフロアはなるべく、早めに通り過ぎた方が得策だ。



「…っく…う…っ…」




…あーあ…もう聞こえちゃったよ、天城越えする前に、喘ぎ声…。


※注: 水島さんは最近、私生活の荒れにより、ノリでつまらない事をいう癖がつきました。ご了承下さい。



誰が何をしていようと、別に良い。

私は、会社に来てまで、自分の欲求満たしてんじゃねえよ、仕事しろよ、だなんて言わない。

不倫・社内恋愛どうぞ、ご自由に。

何度も言うが。



私さえ、巻き込まなければ、それで良い。



…腹は決まった。

例え、会議室のドアが開いていても、喘ぎ声が聞こえようと、重役のジジイが腹上死していようと、私は素通りしよう。



私は、エレベーターを降りて、サッサと歩き出していた。

競歩並みのスピードで、素早く、音を立てることもなく。


「くっ…ひっ…」


…喘ぎ声は、女性の声だ…それはどんどん近くなる。

私は、その音源を探る事はせずに、歩く事に集中した。


「…助けて…」


……!


私の足は止まっていた。

誰かに、助けを求めている、必死な声。


私が、喘ぎ声だと思い込んでいたのは、女性の泣き声だったのだ。


…いや、待て…足を止めてどうする?助けに行くのか?

私は、何をするつもりだ?私に、何が出来る?

誰が、助けを求めていようと、事務課の私に関係なんてないんだ。


「…誰か…」


自分の事は、自分でする。

自分の身は、自分で守るべきだ。


……だけど。



誰かの助けを求める声を聞いても、動けないような人間は…


私は、嫌いだ。



そして、声のする方へと私は、向かっていた。

ドアが少し開いている会議室『F−2』…ここから聞こえる。

私は、そっと覗き込み、様子を伺う。



…万が一…”そういうプレイ”だったら大変だ。


「…くっ…う…っ…うう…」


部屋の中は薄暗く、様子は伺えない。

だが、人影は一つだ。私は、ドアを引くか迷った。


しかし…”チーン”という電子音が聞こえた。エレベーターの到着する音だ…!


私は、思い切ってドアを引いて、部屋に入ると、そっとドアを閉めた。


「…誰?」


女性は、ハッとしてこちらを向いた。顔はまだ暗闇に目が慣れていないせいで、見えない。


「……あー…その、営業3課の者です。」


私は咄嗟に、嘘をついた。ついてもつかなくても良い嘘だったが、なんとなくついてしまった。

彼女の靴音が近くなると同時に、目が暗闇に慣れてきて、彼女の顔が見えた。


(秘書課の…阪野さんだ…)


彼女は、秘書課の阪野 詩織(さかの しおり)だった。


確か、近藤係長がファンだったな…まあ、それはいいや。どうでも。


美人秘書で有名な彼女は、副社長の専属の秘書だ。

私と違って、明るくて、活動的な印象を受ける…いかにも男性受けしそうな、美人だ。

・・・ただ、泣いているせいで、その明るさの欠片も、見えない。

長い髪をゆらして、こちらに向かってくる。

私の目の前で止まると、彼女は無表情で私を見つめ続けた。


「……。」

「……。」



気まずい。何と言って、話を切り出そうか。


無表情すぎて、怒ってるんだか、泣いてるんだか、解らないし…。

これじゃあ、何かあったの?と聞く訳にもいかないし…かといってこのままというのも…。


すると、阪野さんは無表情のまま、瞳から大粒の涙をこぼした。

「……。」

後から考えれば、この時、ハンカチくらい差し出せばよかったのだが
私はこういう時、自分の置かれている状況整理で精一杯になり、気が回らない。

黙って、私は彼女を見ているしかなかった。
慰める事もなく、私は…見ていた。


(…だから、私は自分が嫌いなんだよな…)


何をしたら良いのか、ベストなのか…考えても、私は動けずにいた。
誰かの助けを求める声を聞いても、動けないような人間は…私自身なのだ。
全く…私は、何をしに来たんだか…



「……ごめ…」



ごめん、と小さい声で呟いた阪野さんは、そのまま私の肩に額をつけて、泣いた。

私は、なんだか、震えているように見える彼女の背中をさすった。


・・・それしか出来ない自分が、少し情けなかった。



元から、人と関わる事を拒んできたというのに今更こんな事を考えるなんて…やはり、最近の私はおかしい。



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