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朝。


起きて、自分の部屋のドアを開けると、まず優貴さんの部屋のドアに目が行く。


(・・・優貴さん、もう・・・起きちゃったかな・・・。)


そうっと優貴さんの部屋へと近付く。・・・物音はしない。


(今日は、私が朝食を作る番だし・・・まだ、寝てるよね。)


そう思って階段を降りる。


(・・・考えてみたら、好きな人と一緒の家に住んでるなんて・・・結構、すごい状況だよね。)


今更、そんな事を考える。

・・・しかもその人は、私と父親が一緒の”姉”なのだ。




[ それでも彼女は赤の他人 ]



「・・・ぷはっ。」


洗面所へ行き、洗顔と歯磨きと終えて、顔をあげるとといつの間にか、優貴さんが鏡の中に映りこんでいた。


「・・・あ、優貴さん?」

「・・・おはよう。」


鏡の中の優貴さんは、いつも通り微笑み、挨拶をした。


「お、おはよう・・・今、起きてきたんですか?優貴さん。」


私がタオルで顔を拭きながらそう言うと


「ううん。朝食の用意、あらかた私がやっておいたから。・・・はい。」


そう言って、優貴さんは慣れた手つきで私の化粧水を棚からとり、私に手渡してくれた。


「え?今日、私の番なのに・・・良いんですか?」


私は化粧水を受け取って、聞き返した。


「ええ・・・なんだか、妙に早く目が覚めて、冴えちゃって二度寝も出来なかったのよ。だから、用意しちゃった。」


・・・ちょっと残念な気もする。だって今日は、優貴さんの好きな黄身が固めの目玉焼きにしようかと思ってたのに。


(・・・あれ?なんか・・・)


・・・少し、疲れているのか優貴さんの声が、いつもより元気がないように聞こえた。

やっぱりあの部屋にクーラーないから、あまり、よく眠れてないのかな・・・。


「もしかして、よく眠れてないんじゃないですか?」


そう聞くと、優貴さんはまたフッと笑って首を横に振った。


「・・・ん?別に、そういう訳じゃないのよ。」

「でも・・・なんか、元気無い気が・・・」


私がそう言うと、優貴さんは私の後ろにぴたりとくっついて鏡の中の自分の顔をみた。

背中から伝わる優貴さんの体温と匂いに、朝からドキリとする。


「・・・そう?」


しかも、パジャマ姿の私に対し、優貴さんはすっかり着替え終わっている。

私の肩の上に顎を置くように優貴さんは立っている。


「・・・なんか・・・元気、ないように見え、ますよ・・・。」


私は、優貴さんとのこの近距離に・・・まだ、慣れてない。


「・・・そう?」


優貴さんは同じ返事をして、後ろから私の腰に両腕を回した。その途端、私はかあっと顔が熱くなった。


「ちょ、ちょっと・・・優貴さん・・・」


朝っぱらから、後ろから抱きつかれて・・・慌てない筈もない。


「・・・お父さん、まだ寝てるよ・・・。」


ダメ押しの一言を耳元で囁かれて、私は優貴さんの方へと顔を向け、目を閉じる。


・・・私の歯磨き粉の匂いと味がする。優貴さんの柔らかい唇が触れては、離れ、そしてそっと優しく上唇を挟む。


「・・・これで元気、分けてもらえたわ。」


そう言って、優貴さんは唇を離し、笑った。


「・・・もう、優貴さん・・・。」


とはいうものの、私はそれ以上、抗議の声は、あげられずにいた。私も、こういう、朝から・・・というものが嫌いじゃなかったから。


その後、お父さんが起きてくるまで、リビングでゆったりと2人でTVを見ていた。

お目当ての占いコーナーを時間を気にせずゆったりと見られるなんて、夏休みの特権だ。


「・・・優貴さん、今日どこか出かけるんですか?」

ふと私はそう聞いた。


「どうして?」

「いや、外出着だな、って思ったから・・・。」


それに優貴さんは出かける時、いつも時計をしているし。


「・・・ええ、出かけるわよ。大学の方にね。夏期特別講義だけど。」

「大学生も大変なんですね・・・・・・あ・・・その指輪・・・」


優貴さんの右手の薬指には指輪があった。飾り気もなにもない、シンプルなその指輪は初めて見る。


・・・なんだか、優貴さんらしくないような印象も受ける指輪だった。


サイズもあまり合ってないのか、指輪は右の薬指から外れそうだった。


「これは・・・母の形見よ。」


ぽつりと優貴さんが言った。

なんだか、悪いコトを聞いてしまった気がしたので、私はすぐに謝った。


「あ、ごめんなさい・・・」

「ん?ああ、いいのよ、別に・・・。サイズが合ってないから、不思議に思ったんでしょう?」

そう言って笑いながら、指から指輪を外し、自分のペンダントのチェーンを外し、その指輪をチェーンに通し、また付け直した。確かにそうすれば失くさないだろう。


「・・・時々は、こうしてつけてあげないとね・・・・・・忘れないように。」

そう言って、大事そうに服の上から自分の胸をトントンと手でおさえた。


「・・・そう、ですね・・・。」

(お母さん想いなんだなあ・・・優貴さん・・・)

そういう面でも、優貴さんは優しい人なんだと改めて思う。


「悠理は?」

「あ・・・私も一応、持ってます。お母さんの指輪・・・でも、実は、まだつけた事がないんです。私の事だから・・・失くしちゃうんじゃないかって、心配で。」

私がそう言って笑うと、優貴さんは目を伏せた。

「そう・・・。」


優貴さんのその横顔はどこか・・・暗く、寂しそうにも、見えた。

いつも微笑んでいる優貴さんが・・・そんな顔をするなんて。


「・・・私も、チェーン買って来ようかな・・・。」


私が話題を少し変えようかとそう言うと、優貴さんはこちらを向いた。


「・・・・・え?」


「いや、優貴さんみたいに、首から下げたら失くさないだろうし・・・

宝石箱に眠らせておくより・・・私も外の世界を、私の生きてる世界をお母さんに見せてあげたいんです。」


私は精一杯の笑顔でそう言うと、優貴さんはいつも通りの微笑ではなく、いつになく寂しそうに笑った。


「・・・・・・・そう・・・優しいのね、悠理は。」


そう言って、私の頭をいつもよりもずっと優しく優しく・・・撫でた。


「・・・そのまま・・・そのままの貴女でいてね。悠理。」


優貴さんは呟くように小さな声でそう言って、私の優しく頬を撫で、額にキスをした。


・・・なんだか、今日の優貴さんは何か違う・・・変だ・・・


なんとなく、私はそう感じた。

纏っている空気も、笑い方も・・・どこか違って見える。

・・・どうしてかは解らない。


私が指輪の話をしたから?いや、指輪の話をする前から、今日の優貴さんは・・・どこか・・・


そこで、ドアの開く音がして、足音がリビングに近付いてくる。

その音を聞いた優貴さんはソファから立ち上がり、台所へと向かってしまった。


「・・・おはよう、悠理、優貴。」


「あ、おはよう。お父さん。」


「おはようございます。朝食、すぐ用意出来ますけど、どうします?」

台所から優貴さんがコーヒーを持ってきて、椅子に座ったお父さんの目の前に置いた。


「ああ、頼むよ。まあ・・・夏休みなんだし、ゆっくりでいいさ。・・・ん?今日は悠理の当番じゃなかったか?」

そう言って、お父さんがソファに座っている私の方をじっと見た。


「良いんですよ、やれる人がやれば。今日は、ホントにたまたま私が早く起きただけですし。」

と優貴さんが、いつも通り笑って再び台所へ向かっていった。


「・・・そうか?悪いな。・・・悠理、夏休み中だからって、あまり優貴に頼るなよ?」

「わかってるわよっ。」


お父さんに言われなくたってわかってる、と私は少しムッとしながら、席に着いた。


今朝は和食。


私とお父さんの分のほうれん草のおひたし、だし巻き卵と焼き魚が運ばれてきた。

・・・こういうのをすぐに用意出来る優貴さんを私は改めて尊敬する。

『全然。簡単なモノばかりよ』、と優貴さんはすぐに謙遜するけど・・・。


朝食当番の日の優貴さんは、必ず2品以上のおかずを作ってくる。

私なんか、簡単なおかず1品作って、後は昨日の残りとか、なめ茸とか岩のり出して終わりなのに・・・。


「「・・・いただきます。」」


私とお父さんは声を揃えてそう言って、箸をつけた。


(・・・今日も美味しいよ、優貴さん。)と心の中で呟く。


本当は台所にいる優貴さんの所まで行って、抱きついて、美味しいって伝えたいけど・・・。


・・・お父さんには、内緒だけど・・・私は優貴さんが好きだ。


こんな毎日がずっと続けばいいのに。・・・私は、そう思った。



朝食を食べ終えると、優貴さんは出かける準備を始めた。


本来の朝食当番の私は、せめて食器洗いを、と引き受けた。


洗い物が終わって、洗濯機が洗い物を終える頃、望実達からメールか何らかの形で遊びの誘いが来ると思う。

それまでに家の事は、あらかた片付けておかなければ、と私は食器を洗いながら思っていた。


そのうち、優貴さんの声で「行って来ます。」と玄関から聞こえた。


私は玄関まで届くくらいの声で「行ってらっしゃい」と言った。



そして、私が食器を洗い終える頃、お父さんが新聞を片手に台所にやってきた。


「・・・悠理、優貴は出かけたのか?」

「うん、ついさっき。」


「・・・そうか・・・」


私の答えに、お父さんまでもが、どこか寂しそうに答えた。


「何?どうしたの?お父さん・・・」


お父さんまで、今日はなんか皆、変だと私は思った。

すると、お父さんは広げかけた新聞を閉じて言った。


「・・・ああ、今日はな・・・”月命日”なんだ。・・・奈津子さん・・・優貴のお母さんのな。」


「・・・・・え・・・?」


・・・そんな事、優貴さん・・・そんな事、一言も言ってなかった・・・。


「・・・お骨がある寺までは、少し遠いが、日帰り出来る距離の場所にあるんだそうだ・・・優貴は多分、今日はそっちへ行ったんだろうな・・・。」


「・・・・・ああ、そう、なんだ・・・。」

・・・少なからず、ショックだった。



『ええ、出かけるわよ。大学の方にね。夏期特別講義だけど。』



・・・優貴さんが・・・私に初めて・・・”嘘”をついた・・・?



いや、まだそうと決まった訳じゃない。



・・・でも、だったら・・・どうして今日、お母さんの指輪をつけて出かけていったんだろう・・・


・・・今日の優貴さん・・・様子も変だったし・・・


・・・やっぱり・・・優貴さん・・・


(・・・メール、送ろうかな・・・)


どうしても気になってしまう。


一体、優貴さんは今、どこにいるのだろう・・・

私に言った通り大学にいるのか、それとも、優貴さんのお母さんのお骨があるお寺に行ったのか・・・


私と離れた場所で、優貴さんは・・・今、どこにいて、何をしてるんだろう?


そこまで考えて、私はソファの上に寝そべったまま、また頭を振った。


普段は鳴れば鳴ったでうるさいなと思うほどの携帯電話が、今日は鳴らない。

黙り込んだままの携帯電話の液晶画面の時間を見つめては、ぱたんと閉じて、また開けて時間を見る・・・それを繰り返す。


優貴さんからのメールは、まだ無い。

自分から出そうかと思ったが、迷った。


(・・・優貴さんには優貴さんの時間があるのに・・・私のメールなんて、ただ迷惑なだけかも・・・)


グジグジ考えているこの時間も、自分も大嫌いだった。

だけど、考えてしまう。



(・・・どうして・・・)



私は頭を振って、頭の中に浮かんだ嫌な考えを追い出した。

それは他の人からすれば、どうって事はない出来事かもしれない。


だけど・・・私にとってはショックだった。


好きな人が、自分に何所に行こうと・・・内容なんかどうだって良かったのだ。


・・・ただ・・・




『・・・でも、私好きよ?”秘密”って。』


前に言っていた、優貴さんの言葉を思い浮かべる。


『”秘密好き”って感じしますよ。優貴さん、私の事分かりやすいって言ってたじゃないですか。

でも、そんな私なんかとは反対に、優貴さんって、ホント、全然、何考えてるか見えないんだもん。秘密ばっかりな気がする。』


ちょっとだけ抗議の意味も込めて、あの時の私はそう言った。


『・・・ふふっ・・・そうね・・そういうの見えないんじゃなくて、見せないようにしてるの、私は。だから秘密好きに見えるのかしらね。』


笑顔で優貴さんはそう言った。


(・・・優貴さん・・・。)



『本当に大事な事は、そう易々と出しちゃダメなのよ、悠理。・・・わかる?』



(わかんない・・・わかんないよ・・・優貴さん・・・)


嘘・秘密・真実・・・そんな単語達が浮かんでは消えて、私の頭は優貴さんの言葉にぐるぐると振り回されていた。


もしかしたら、嘘をつかれているかもしれない・・・

もしかしたら、優貴さんに”秘密”を作られているかもしれない・・・


そんな嫌な言葉ばかりが、頭の中をぐるぐると回る。



(ねえ、優貴さん・・・私にまで、秘密を作っているの?)



もしも、それが聞けたなら、私の心はもっと楽になっていたのかもしれない。




洗い物を終えた洗濯機が”ぴーっ”と終了の合図の音を出した。


「・・・はあ・・・。」


溜息をついて、私は洗濯物を持って外へ出た。

今日も青い空が広がっていて、きっと洗濯物もよく乾くだろうな、と思う。



・・・同じ空の下でも、優貴さんはどうしているんだろう。なんて事をやっぱり考えてしまう。



そんな時、電話の着信音が鳴った。

着信音で大体予想出来ていたとはいえ、携帯電話を開いて液晶画面を見て、私はやっぱり少しだけがっかりした。


「・・・なんだ・・・やっぱり、望実か。」


とはいえ、無視する訳にもいかないし、相手にも失礼なので、とりあえず電話に出てみる。


「・・・はーい。」


『・・・あれ?悠理、寝起き?』


明るい望実の声を聞きながら、私は携帯電話を肩と首に挟み、バスタオルを物干し竿に掛けながら答えた。


「起きてる。・・・ていうかね、今、洗濯物干してんの。」


『へえ家庭的だね〜。あのさ、今日なんだけど・・・』


優貴さんの事が気がかりで、私は望実の誘いにどうしても乗り気には、なれなかった。


「・・・ごめん、明日なら付き合えるけど、今日はゴメン。」


理由は上手く言えなかった。けど、望実は何も聞かずに明るく答えてくれた。


『あ、ダメっぽい?じゃあ、明日また連絡するわ。』

「・・・うん、ゴメン・・・。」


本当なら、遊んでも別に支障は無い日なのに、こんな自分のこんな気分で、友達の誘いを断るのは、やはり心苦しかった。

でも、この気持ちのまま、一緒に遊んでも盛り上がるなんて事ないだろうな、と簡単に予想は出来たから。


『そんな沈んだ声で謝らないでいいってば!遊びって、気分も大事なんだしさ・・・その・・・。』

「・・・ん?」

『・・・また悩みあったら、遠慮も空気も読まなくていいからさ、言ってみ?

あたしさ、そういうの・・・そういう、役目っつーか・・・そういう位置にいたいっつーか。あ・・・何言ってるんだろね?あははは、ゴメン!』


(望実・・・)

きっと、望実なりに私を心配してくれているんだろう。

明るい声で、私に語り掛ける望実の声に私は手を止めて、携帯電話をちゃんと手にとった。


”・・・望実・・・私さ・・・好きな人がいるんだ。

その人は、私のお姉さんの優貴さんで・・・その人は私の知らない秘密をいっぱい抱えていて・・・

今、どこにいるのかわからなくて、それで・・・自分でも嫌になるくらい、色々考えちゃうんだ・・・。

秘密を作られて、それをグジグジ考えちゃう・・・私って・・・嫌な子かなって・・・。”


・・・勿論、そんな事、望実には言えない。

2人の事は、誰にも言わないって優貴さんと約束したんだもの。


だけど。


私の悩みは、その2人の、優貴さんの事で・・・。


優貴さんが死んだお母さんのお骨のあるお寺に行く事は、別に普通の事なのに。


私に気を遣って、あえて言わなかっただけかもしれないのに。


でも、優貴さんは・・・私にそれを言ってくれなかった。


・・・これは、私の単なるわがままかもしれない。


秘密の一つや二つ、誰だって持っていてもおかしくはない。だけど、こんな形で優貴さんの事を知らないままは嫌だ。


でも、それはやっぱり、私の我侭なのかな・・・考えれば考える程、辛くなる・・・。



だけど、口に出す事は出来なかった。



『・・・ともかく、さ・・・何か吐き出したい時は、吐いちゃいなよ。ホラ、悠理には、優貴お姉さんだっているじゃん!』


優貴さんの名前が聞こえて、私は思わず言ってしまった。


「・・・・・・でも・・・そんな、なんでもかんでも・・・聞いたり、頼ったりしちゃ・・・迷惑だよ・・・。」




『わかんねーじゃん?そんなの。』




「・・・え・・・。」


望実のあっさりとした答えに、私は間の抜けた声を出した。



『だってさ・・・一人で色々考えてる時間って、まあ悪いって訳じゃないけどさー・・・悩みの類はさ、溜め込んでも良いってシロモノじゃないじゃん?


口に出した方が、良い時だってある筈だよ?それに、そういうの考える前に、言ってみないとわかんねーし伝わんないじゃん。


・・・優貴姉さんだって、そのくらいの事、ちゃんと理解してくれるって。

とはいえ、その話し相手は悠理が選んで良いからさ・・・なんか辛い事とかあったら、あたしにでも、なんでも言いなよ。ね?』



電話の向こう側の雑踏や人の声を割って望実の声は、いつに無く柔らかく優しく私の耳にしっかりと届いた。

今の私にとって、これほど嬉しい言葉があるだろうか。

それは・・・凄く、ありがたかった。


本当は・・・好きな人に、自分の目の前で隠し事をされたりするのが・・・私、嫌なんだ。


・・・そうだ、私・・・それが、嫌なんだ。


そして、それを確かめようともしない今の自分が一番・・・嫌なんだ。



・・・さっきまで、心の中でグチャグチャになっていた言葉たちが頭の中で、パズルのように組み合わさっていった。



「・・・・・・うん・・・ありがと、望実。」


私は素直に望実にお礼を言った。



夏の太陽の光が差し込む庭で私は、携帯電話と洗濯物を片手に、なんだか、ちょっとだけ・・・泣けてきた。


涙声を堪えて、私は望実と話をして、明日遊ぶ約束をした。電話を切ると、私は顔を上げた。

真夏の太陽が、洗濯物の白いシーツを照らした。



私は洗濯物を全て物干し竿にかけると、携帯電話でメールを打った。



 『優貴さん、電話下さい。』




そのシンプルなメールを送信した約30分後に、私の携帯電話が鳴った。



その着信音は、私が優貴さん用に設定した音だった。


通話ボタンを押し、携帯電話を耳に押し当てた。一体、今・・・優貴さんの声は、どんな声なのかな、と一瞬考えた。

もし、声が少しでも沈んでいたら・・・やっぱり、お寺に行ったのかも、などと考えてしまう。

それが、わからないから、そのままにしておけないから、電話で聞こうとしているのに。ここまで来てまで、私は何かに怯えていた。


「・・・私。メール見たわ・・・どうしたの?悠理。何かあった?」


・・・優貴さんの声は、普段と変わらなかった。いつも通り、落ち着いていて、少しだけ低い声。


私に”今日は大学に行く”と言った時と同じような声だった。



「・・・あの・・・今・・・」



 ”どこですか?”



・・・言葉が出ない。


「今は、別に大丈夫よ。そうじゃないと電話しないし・・・・・・・悠理?」


優貴さんは外を歩きながら、電話をしているようだった。車の音が時折聞こえる。


「・・・あ・・・そうですよね・・・」


相槌を打って、私はリビングの真ん中に座り込んだ。



 ”貴女は、今、どこにいるんですか?”



「で、どうしたの?」


電話から聞こえる優しい声に私は、この人にこんな事を聞く事なんて馬鹿なんじゃないか、と思った。


「あの・・・今・・・」


だけど。

わからないから。


貴女がどこにいるのか、知りたいから。


私に秘密にしてる事があるんじゃないか、って疑いなんか早く消し去ってしまいたいから。


それを確かめようともしない今の自分が一番・・・嫌だから。



「・・・優貴さん・・・今、どこに、いるんですか?」


「・・・・・・。」


私の質問に優貴さんは、すぐに答えてはくれず、黙り込んだ。


やっぱり、聞くべきじゃなかった、と私は思った。

優貴さんには優貴さんの時間がある、頭の片隅にあった・・・その事よりも、私は・・・自分の疑問を解消する方を選んだのだ。


 ”ごめんなさい。”


そう、私が更に口を開こうとするより先に、優貴さんの声が電話から届いた。



「・・・お寺。」


「・・・・・・え?」



私の考えている事を見透かしたように、優貴さんは静かに答えた。





「・・・今ね・・・母の・・・お骨のある、お寺に行って来たの。」


私は、なんと言葉を発しようか、わからなくなった。

やっぱり、そうだったんだ、と思った。


「・・・お父さんに聞いたんでしょう?・・・・・・悠理にまで、言わなくたっていいのに・・・」

「・・・・・・・・・・・。」


優貴さんの居場所がわかった途端、私は心の中で優貴さんの背中を見つけたような気がした。

・・・それでも、見つけたのは”こちらに背中を向けたままの彼女”で。


すぐ傍で大好きな声は聞こえるのに、その人との距離は、遠く、遠く、ずっと遠くに感じた。


「ごめんね、私・・・貴女に・・・・・・嘘、ついた・・・。」


そこで、優貴さんの声は沈んで聞こえた。

小さな声で、二度目の「ごめんね。」が車の音に混じって聞こえた。


それは他の人からすれば、どうって事はない出来事かもしれない。

優貴さんには優貴さんの時間が、行くべき場所がある事も、知っている。

私は、好きな人が、自分に何所に行こうと・・・内容なんかどうだって良かったのだ。


「・・・どうして、ですか・・・?」


ただ・・・こんな形で優貴さんの事を知らないままは嫌だった。

好きな人に、自分の目の前で隠し事をされたりするのが・・・嫌だった。


「・・・悠理のお母さんの事を思うと・・・貴女に、堂々と・・・ここへ行くなんて事、言えなかった。」



・・・どうして?それは、私が・・・異母姉妹の”妹”だから?



「・・・・・・でも、・・・・って・・・さい・・・。」

「・・・え?何?」



「それでも!私には言ってくださいっ!秘密なんか作らないで、私にはちゃんと言って・・・!

・・・私・・・私は・・・!・・・優貴さんの・・・なんなんですかっ!?」


怒るつもりも、責めるつもりもないのに、私は大きな声でそんな言葉を口に出した。言い切ってから、膝の上に置いた左手の甲に涙が1滴落ちた。


―― 優貴さんの中では、やっぱり私は妹のままなんじゃないか。妹の枠を越えていないんじゃないか。


そんな思いが膨らんできて・・・それが爆発してしまった。


「・・・私は・・・まだ、優貴さんの中では・・・私、妹の・・・まま、なんですか・・・!?」


いつまでも、”妹”のままなんかじゃ、嫌だ。・・・その想いだけが、先行してしまった。


「・・・・・・貴女は、私にとって大切な人よ・・・。」


そう言われて、優貴さんの折角の気遣いも無視して、私は自分勝手な事を口にしている・・・

その事に気付いたのは、自分の感情をそのまま言葉にして、優貴さんにぶつけてしまった後、だった・・・。


「優貴さ・・・!」


すぐに、言いすぎた、と私は感じた。


「ごめん、悠理。バスが来たから・・・切るね?」

「待って、優貴さん!」


”ごめんなさい”の一言だけでも伝えるべきだ、と私は思ったが、バスの扉が開く音が聞こえ、優貴さんは私の声を遮るように言った。


「後でね。」


そして、電話が切れた。

私は、すぐに”ごめんなさい”とメールを打とうとした。・・・でも、指は止まり・・・それは・・・結局、送れなかった。


・・・待っていれば、優貴さんはこの家に帰って来る。


(・・・直接、ごめんなさいを言わなきゃ・・・。)


そう思って、私は顔を覆った。涙がポロポロと流れ出て、掌から零れていった。こんなに泣くくらいなら、始めから言わなければ良かったのかな、とさえ思った。


・・・だけど・・・私が聞かなかったら、優貴さんは私にずっと黙っていたのかな。

そう思うと、やっぱり私は聞いて良かったのだろうか・・・。


(・・・こんな風に迷っている自分が嫌だったから、聞いたんじゃない・・・)


・・・そうだ、聞いてしまった事に後悔は無いんだ。

だけど・・・あまりにも優貴さんを遠くに感じて・・・思わず発してしまった言葉に関しては、自分でもどうかしてると思った。






それから、何時間経っただろうか。私はリビングでぼうっとしていた。

TVを点けっぱなしにして、玄関の扉が開く音を待っていた。

日が落ちても、お父さんは帰ってこないのは知っていたし、夕飯の用意も何もする気にはなれなかった。


優貴さんは、私の事を考えて、私のお母さんの事を思って・・・優貴さんのお母さんのお骨のあるお寺に行った事を黙っていた。

でも、黙って・・・嘘をついて行って欲しくなかったのが、私の正直な気持ちだった。


私と優貴さんの間に・・・秘密なんか無いって・・・思っていたから。


嘘や秘密を作られると、私と優貴さんの間に壁のようなものが出来てしまったようで、嫌だった。

・・・私と優貴さんが異母姉妹でなければ、優貴さんだってそんな事しないでも良かったのに。


(・・・でも・・・優貴さんなりに、私の事考えて、そうしてくれたんだよね・・・。)


『・・・悠理のお母さんの事を思うと・・・貴女に、堂々と・・・ここへ行くなんて事、言えなかった。』


(・・・そんな気なんか、使わなくたって・・・私・・・優貴さんの事、なんにも・・・嫌いになんかならないよ・・・。)


ソファの上に座り、膝に額をつける。

いつもより、ずっと長く感じる一人の時間。


長く、長く・・・ひたすら長く感じる。


(・・・・・・優貴さん、帰って来るよね・・・?)


私は、ふとそんな不安に襲われた。


もし、優貴さんがこのまま帰って来なかったら・・・


”ガチャ”


「・・・ただいま帰りました。」


私はその声を聞くとハッとして、玄関の方へ駆け出した。


「・・・・・・・・・・。」


「・・・悠理・・・。」


おかえりなさい、と言おうとした私の左頬に、先に優貴さんの手が触れた。


「・・・悠理・・・もしかして、ずっと、泣いてたの?」


そう言われて、私は開きかけた口を閉じた。

そんなにすぐバレる程、私は泣いていたんだと、優貴さんに指摘されて気付いた。


おかえりなさい。

ごめんなさい。


どちらも早く言いたいのに、言えない。息が詰まる。


「そんなに目を真っ赤にして・・・」


私の両頬を、優しく微笑む優貴さんの両手が包み込む。

私は顔を上げて、優貴さんの顔を見る。

いつもと変わらない笑顔だった。


「・・・ごめんね・・・悠理。こんな形で貴女を傷つけるなんて・・・。私、そういうつもりじゃなかったんだけど・・・。」


私の両頬に触れる優貴さんの手を、私は手で上から触れ、首を横に振った。


「不安にさせて、ごめんね。悠理。」


その言葉を聞き、私は堪らず優貴さんの胸に飛び込んだ。


「私こそ、ごめんなさい!私・・・さっき、電話で・・・!」

「ううん・・・元はといえば、嘘ついて出かけた私が悪いんだもの・・・。」


そう言って、優貴さんは私を少し強めに抱き締めてくれた。


もっと・・・。


もっと、きつく抱き締めてくれても構わない、とさえ思った。

優貴さんは泣いている私を、頭と背中、交互に優しく撫でてくれた。


「・・・ごめんなさい・・・優貴さん、私、あんな事言って・・・」

「ううん。悠理に嘘ついたんだもの・・・私。」


「・・・そうじゃなくて・・・っ!」

「・・・え?」


「私が、勝手に・・・なんか、急に優貴さんの事、遠くに感じちゃって・・・それが嫌で・・・

私、まだ妹扱いされてるのかも・・・とか色々・・・色々、変な事いっぱい考えちゃって・・・!」

「・・・悠理・・・。」


優貴さんの体に抱きつきながら、私は言葉を吐き出した。


「私・・・優貴さんには優貴さんの時間や大切な事いっぱいあるって・・・知ってるのに・・・

なのに、私・・・自分の気持ちばっかりぶつけて・・・嫌な事、優貴さんに言っちゃったって思って・・・だから・・・私・・・・・・ごめんなさい・・・っ!」


・・・お寺から帰ってきただけあって、いつもの優貴さんの匂いに混じって、少しお線香の匂いがした。


「悠理。」


名前を呼ばれて、私はまた涙でグチャグチャになった顔を上げた。

左目から零れそうな涙を優貴さんは唇で拭ってくれた。



「・・・さっきも電話で言ったけど・・・貴女は、私にとって大切な人・・・。

・・・でも、それじゃ、言葉が足りないわよね。」


そう言うと、優貴さんは私の唇に唇をそっと重ねてきた。


「――っ!?」


突然の事に私の体は固まりそうになったが、優貴さんの手が優しく背中をなぞるので、ゆっくりと余計な力が抜けていった。

最初は触れるだけの優貴さんの唇が少しだけ開き、私の唇を優しく挟んだ。

呼吸をしようと私も唇を開くと、更に優貴さんの唇が深く私の唇に触れていった。

温かく柔らかい唇の感触が長く、長く触れている。

呼吸をする度、優貴さんの匂いがした。私は優貴さんの服の背中をぎゅっと掴んだ。そのまま、離したくなかった。


・・・長いキスだった。・・・でもちっとも、嫌じゃなくて。


そして、それは・・・私がただの妹だと見られているんじゃないか、という思いを払拭するのに、十分過ぎる答えだった。




「・・・これでも、只の妹扱いされてる、って思える?」

「・・・・・・・・・・・。」


私は、優貴さんの質問に首を横に振った。


「でも、まあ・・・あんまり・・・玄関先でする事じゃないわね。」


とは口ばっかり。優貴さんは、いつも通り笑っている。


「・・・ゆ・・・優貴さんの方から、してきたのに・・・。」


そう言う、私の涙はとっくに引っ込んでいて。

間近で微笑む優貴さんに、私は顔が急に熱くなるのを感じた。


「・・・泣いてる悠理を放っておけなくて。つい。」

「つ、つい、じゃないです・・・。」


そうは言っても、優貴さんに対し、抵抗も何もしなかった自分もいる・・・。



そして、夕食の用意も何もしていなかった私は、優貴さんと台所に立った。


「ごめんなさい・・・私、何も用意して無くって・・・」


今日は、優貴さん得意の『茄子とチーズのトマトパスタ』だった。


「いいのよ。これは割と得意料理だから、簡単簡単。」

「・・・簡単って言う割に・・・美味しいから・・・コレ、大好きです。」


優貴さんの相変わらずの手際の良さに感心してしまう。


「そういえば・・・これ・・・優貴さんのお母さんの味、なんですよね?」

「・・・ええ。」


その後、優貴さんはパスタを茹でながら、少し黙り込んで、やがて口を開いた。


「・・・・・・最初は、お父さん、悠理を連れて今度の日曜に一緒にお寺に行こうかなんて、言ってたんだけど・・・ね。」

「え・・・そんな話なんて、お父さん、してなかったですけど・・・。」


トマトソースを煮込みながら、私は焦げ付けないように鍋の中のソースをかき回していた。


「貴女を母の所に連れて行くなんて、どうかと思ったし、その場で断ったの。」

「・・・そう、だったんですか・・・でも、私の事だったら、気にしないで下さい。」


気なんか遣わないで下さい、という意味で私はそういったのだが、優貴さんの横顔は珍しく曇っていた。


「・・・正直な話をするとね、母の月命日にはね・・・私一人で行きたかったのよ。母の家族は私だけだし。

だから・・・ごめんなさい。」


真剣な表情で、鍋を見つめる優貴さんに、私も鍋に視線を戻して言った。


「・・・いや、良いんですよ。優貴さんの時間とか、都合とか色々あると思うし・・・

そこまで、私が口出しなんてする権利ないですもん・・・・・・ちょっと・・・寂しいけど・・・。」


・・・最後の方に、少しだけ本音を混ぜてみる。本当は、凄く寂しかったクセに。


でも、優貴さんを困らせるような我侭なんか、言えない。

それに、優貴さんのたった一人の家族だったお母さんの事だし・・・。


「・・・今回みたいに、悠理に嘘はついて、どっか行ったりはしないわ。もう。」


そう言う優貴さんの表情は、少しだけ苦笑いのようにも見えた。


「けど、いつか・・・・私・・・優貴さんのお母さんに、会いに行きたいな・・・。」


そう言うと、優貴さんの鍋をかき回していた箸が、一瞬止まった。


「・・・・・・・そうね・・・。」


けれど、優貴さんはすぐにいつも通りに笑って言った。


「・・・いつか、ね。」



・・・だけど・・・優貴さんのその横顔が、どこか寂しそうにも見えた。

それが少しだけ胸にひっかかった。

何か、まだ隠している事があるんじゃないか、なんて心の片隅で考えた。


「・・・さて、もういいかな・・・ソースは?」

「あ・・・大丈夫です。焦げてもないし。」

「・・・よろしい。」


そう言って、湯気の中で微笑みながら優貴さんは私の頭を優しく撫でてくれた。


茄子とチーズのトマトパスタが出来上がり、私と優貴さんだけのささやかな夕食が始まった。



「やっぱり、好きです。・・・このパスタ。なんか、お店みたいで・・・でも、なんかほっと安心できる味がするから。」


食べ終わると、私は食器を片付けながら優貴さんにそう言った。


「・・・そう・・・それは、良かった・・・。」


・・・だけど、今日の優貴さんは、お母さんのお骨のあるお寺に行ったせいか・・・

ぼうっとしている事が多くて、食事中に話しかけても、こんな風に曖昧な返事しか、かえってこなかった。


表情も一瞬だけど、いつもの微笑みが時々消えているのを、私は見逃さなかった。


・・・それも、そうだよね・・・お母さんの所に行って来たんだもの、と私は私自身に言い聞かせた。

優貴さんのお母さんが他界したのは、今年に入ってから、らしいし。・・・今日はその月命日で。


・・・だから・・・私なんかが、気軽に”元気出して下さいよ”・・・なんて、言える筈もない。

でも・・・元気のない優貴さんを見ていると、こっちまで辛くなってきちゃうな、なんて思う。


・・・明日には、優貴さんの笑顔が見られるだろうか・・・。


「悠理、お風呂先にいいわよ。」

「え・・・優貴さんが先でも・・・」


「私、後にするわ・・・ちょっと、部屋にいるから。」

そう言って、洗い物を済ませた優貴さんは、さっさとリビングを出て2階に上がってしまった。


せっかく家に2人きりなのに、なんだかまた・・・置いてけぼりをくらったような感じだった。


・・・私は優貴さんの言う通り、先にお風呂に入る事にした。


自分の部屋に入って、パジャマと下着を用意しようとすると・・・



”カシャン”という、何かが割れるような音がした。



その音がしたのは、隣の・・・優貴さんの部屋からだった。


私は何かあったんだと思い、ノックもせずにドアを開けて、優貴さんの部屋に入った。


「優貴さん、今の音・・・!」


優貴さんは、部屋の中で立ち尽くしていた。


足元には、優貴さんと優貴さんのお母さんの写った写真が入った写真立てがあり・・・それは、割れて、ガラスが床に散乱していた。


「・・・優貴・・・さん?」


優貴さんはぼうっと突っ立ったまま・・・私に背を向け・・・私の声なんか聞こえてもいないのか、ただ立っていた。

電気はついているのに、俯いて立ったままの優貴さんの表情は髪の毛で見えない。



優貴さんは、私の声に振り向きもせず、ただ立って、床に散らばったガラス、ガラスが割れた写真立てを見つめていた。




――― いつもと、雰囲気が、違う。



・・・正直、声を掛け続けようか、迷った。


だけど、私は優貴さんが、割れたガラスの破片を握り締めているその手を見て、声を出さずにはいられなかった。


「――ッ!?」


その手からは血が出て、床にポタポタと垂れていたからだ。


「ゆ・・・優貴さん!ダメだよっ!こんなの・・・こんな事しちゃっ!!」


私はすぐに優貴さんの手を取り、強引にこじ開けた。

優貴さんの柔らかくて温かくて、すらっと指が長くて・・・私が大好きなその手は、血で真っ赤になっていた。


「どうして、こんなガラス、握り締めたりなんか・・・っ!?」


私は、優貴さんの手から血まみれのガラスの破片を取り上げた。


「・・・悠、理・・・」


やっと私を視界に入れた優貴さんは、私の名前をぽつりと呼んだ。そして、力なく、私を抱き締めた。



「・・・ごめん。」

「・・・優貴さ・・・ん?」



小さな、小さなその声は、少し震えて聞こえているようにも思えた。


「そ、そんな事より、怪我の手当てしなきゃ・・・っ!!」


私がそう言って優貴さんの腕を取ると「・・・ごめん、でも、平気。大丈夫。」と言って、優貴さんはどこか悲しそうに笑って、しゃがんで、血まみれの手で破片を拾い始めた。


「ぜ、全然、大丈夫じゃないよっ!優貴さん!破片の片付けなら私がやるから、優貴さんは先に怪我を・・・!」

「コレは、私の大事な物だから、これは私が片付けたいの。それに、本当に大丈夫だから。」


そう言って、血をポタポタ垂らしたまま、優貴さんはしゃがんで、力なく破片を集め始めた。


(優貴さん・・・)


やっぱり、今日の優貴さんは変だと思った。

大丈夫なんて言葉を聞いても、放ってなんておけなかった。


大きな破片は手で拾えても、細かい破片は手で拾うと危ない。私は自分の部屋に行くと、ミニクリーナーと救急箱を持ってきた。

・・・早く片付けて、優貴さんの手の治療をしなきゃ。

優貴さんは、大きな破片を拾い上げるとゴミ箱へ入れ、写真立てを大事そうに机の上に置いてから、やっとティッシュで自分の手の血を拭いた。

だけど、血は止まらないらしく、ティッシュがすぐに真っ赤になった。

私は床にクリーナーをかけて、他に破片が無いのを確認すると、部屋の隅に座るぼうっとしたままの優貴さんの真っ赤になった手を手当てをする為、再び開いた。


(・・・酷い・・・どうして、こんな事・・・)


余程、力を入れて破片を握ったのだろうか。優貴さんの掌の傷は深くて、痛々しかった。

破片は刺さっていない事を確認した私は、傷口に消毒液を吹きかけた。優貴さんが顔を少し歪めたが、声は出さなかった。

私はそのまま、傷口の血を丁寧に拭き、薬をつけて傷口にガーゼをあてると、決して上手いとは言えないながらも包帯を巻いて固定した。


「・・・ドジ、ね・・・大事な写真・・・落としちゃって・・・。」


優貴さんは、ぽつりとそう言った。

写真立てを落としたのは、仕方が無いとして・・・私が聞きたかったのは、どうしてガラスの破片なんかを握り締めたりなんてしたのかという事だった。


拾っている最中に指を切ってしまった、ならまだ解る。

だけど、明らかに優貴さんは拾っている内に切ってしまったのではなく・・・破片を握って、掌を切っていた。


「優貴さん、どうしちゃったの?何か・・・何かあるなら・・・私に話して。」


私がやや強めにそう聞くと、優貴さんは力なく笑った。


「・・・・・・今日は母の、月命日なのに・・・大事な写真、落としちゃった。あれが、親子で撮った最後の1枚なのに。」


そう言って、その写真を見つめる目は、とても悲しそうに見えた。


「・・・だからって・・・こんな事・・・」


こんなになるまで、ガラスの破片を握り締めなくてもいいじゃない、と私が言う前に、優貴さんは言った。


「許せなかったのよ・・・自分自身が。・・・どうかしてたわね・・・ありがとう、片付け、手伝ってくれて。」


そう言うと、優貴さんは怪我をしていない方の手で、私の頭を撫でた。


「そんなに、自分を責める事ないのに・・・」


写真立てを壊したくらいで、こんな形で自分を責めるなんて、と私は思った。

それに、写真立てなら、また買えばいい、と私は思っていた。

・・・だけど、その写真立ての中には優貴さんにとって大事な・・・大事な写真が入っている。

その写真立てが壊れてしまったのが、よりにもよってお母さんの月命日で、余程辛かったのだろう、と私は思った。


もしくは・・・


「その写真立て・・・特別、なんですか?」

「・・・ううん。単に私の手作りよ。・・・ガラスを交換すれば、すぐ直るわ。」

「そう、なんだ・・・良かった・・・。」


写真立てなら、また買えば良いなんて口に出さなくて良かった、と思った。

優貴さんの手作りなら、思い出も詰まっている筈・・・買い替えても、代わりになんて、なる筈もないだろう。


「・・・掃除手伝ってくれて・・・あと、手当てもしてくれて、ありがとう。悠理。」

「あの、一応、病院行った方が良いかもしれないですよ・・・かなり、深かったみたいですし・・・。」


「ううん、大丈夫・・・ありがとう。」


・・・優貴さんのその微笑みは”いつも通り”だった。


その、いつも通り・・・過ぎる、微笑み。


見慣れている筈のいつもの微笑み。

大好きな優貴さんの笑顔の筈なのに。




なのに、段々、私は・・・優貴さんが、”無理して笑っているんじゃないか”、と思い始めた。


いや・・・”無理して笑っている”、というよりも・・・もっと違う表現をすると・・・


でも。


・・・だとしたら・・・。





・・・普段、いつも・・・これまで、見てきた優貴さんの笑顔は、全部・・・・・・・・





「悠理・・・私は、もう大丈夫だから。お風呂入ってきなさい。」


私に向かって、優貴さんはいつも通り微笑みながら、そう言った。

その声にハッとして、私はそれ以上考えるのをやめた。


「でも・・・」


優貴さんが心配な私は、もう少しこの部屋にいたいと言おうとした。


「大丈夫だから。」


だけど、台詞を断ち切られてしまった私は、まるで、これ以上・・・この部屋にいてはいけないような・・・そう感じた。


仕方なく、私は救急箱を置いて、優貴さんの部屋を出る事にした。

ドアを閉めて、私は優貴さんの部屋のドアに額をつけた。



(・・・・・・優貴さんは、亡くなったお母さんの事で、きっと悩んだり、苦しんだりしているんだ・・・今も・・・。)



色々わからない事はあるけど・・・それだけは、ハッキリと解った。

いつも通り笑っていても、それだけは・・・それだけは、解ってしまった。


・・・私も、お母さんを亡くしたから。


・・・でも・・・それを、抱えている気持ちを、私に話してくれないのは、やっぱり私が年下で、頼りにされてない、って事なのかな・・・。


私は、幼い頃にお母さんを亡くした。


私の場合は”時間”が、その傷をゆっくり癒してくれた。


大切な家族を失ってから、すぐに元気になる方法なんて、私は知らないし、あるとも思えない。

だけど、こんな私だけど・・・少しは優貴さんの力になれるかもしれないのに、と心の底で、優貴さんに聞こえる筈もない場所で、私はそっと呟いた。

実際、私が優貴さんの力になれるかどうかはわからない。

でも、話してくれたら、優貴さんの抱えている何かが軽くなるんじゃないか、とは思う。


・・・だけど・・・今の優貴さんは・・・話してくれない・・・きっと。


・・・でも・・・。


(・・・いつか・・・いつでも、良いんです・・・本当の優貴さんの気持ち・・・いつか・・・私が、聞いて・・・受け止めます・・・。)


そう決意をしても、なかなか私は、優貴さんの部屋のドアから離れられなかった。


”いつか”なんて、聞こえはいいけれど・・・具体的に、その日はいつ来るんだろうか。


私は、優貴さんの気持ちを、本当は抱えているだろう悩みや苦しみを受け止めきれるんだろうか。

その人が好きだから、という感情だけで・・・人を想うだけで、私は・・・優貴さんの心を理解して、受け止める事なんてできるんだろうか。


・・・第一、優貴さんは、私に・・・話してくれるのかな・・・。


「・・・・・・・。」


私は、やっと額をドアから離し、浴室に向かった。






悠理が階段を降りると同時に、優貴はさっさと包帯を外し、ガーゼを外し、さっきの傷口を見ていた。

まだ血が出ている。痛みも感じる。でも、そんな事どうだって良くなっていた。

感覚が麻痺し始めているのだろうか、と自分でも苦笑してしまう。


割れた写真立てを見た。



「・・・ごめんね、母さん。・・・私、迷ったけれど、やっぱり・・・自分の為にしか、動けないみたい。」



首から下げた指輪が、鎖と一緒にユラユラと揺れた。


だけど・・・彼女の決意は、変わっていなかった。




・・・それは、最初から・・・この家に来た時から、ずっと・・・。





「・・・・・・・この家を、壊すわ・・・母さん。」








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