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「・・・で、どうするんだ?」

「どうするんだって・・・それは、私達の方が聞いてるんだけど?」


「優貴に懐いているんだろ?」

「そうだよ。・・・さっき説明したじゃない、お父さん・・・聞いてた?」


「・・・うーん・・・生き物を飼うってのはな、案外難しいんだぞ?躾とか・・・」

「子供じゃないんだから、そのくらい知ってるよ。」


「・・・父さんだって小さかった頃、犬を飼った事はあるが、死んだ時はそりゃあ・・・」

「やだ・・・飼う前から、死んだ時の話なんかしないでよ、縁起悪い・・・。」


「何言ってるんだ。生き物の定めだぞ?」

「・・・最後まで面倒みます。」


帰って来たお父さんは猫を見るなり顔をしかめて、玄関で靴を脱がずに、その場で腕組みをして私に生き物を飼う事の難しさを話した。

お父さんの視線の先には、私の腕からさっきから逃げようともがく子猫の姿があった。


「・・・にゃー・・・にゃー・・・」


それにしてもコイツ、優貴さんの腕の中だと大人しかったのに、なんで私には懐かないんだろう・・・。


「・・・悠理、その猫・・・お前の事、嫌がってんじゃないのか?」

「そ・・・そんな事ないもん。」


ムキになればなるほど、猫はもぞもぞ動いて私の腕から逃げようとする。


「ちょっといい?悠理・・・ここをこうして・・・抱いてあげると・・・。」


見かねた優貴さんが隣から猫をひょいっと抱き上げ、背中を撫でる。

すると猫は、その動きをピタリと止め、優貴さんの腕の中で大人しくなった。


「うん・・・足を浮かせちゃうと不安がるみたいね。」

「・・・あ、そっか。」


抱き方が悪かったのか、と私が納得しようとすると


「単に優貴の方に懐いてるんだろう。」


お父さんが、今の私にとって”グサリ”とくる一言を言った。

さすがにムカッと頭にきて、私は声を大きくした。


「お父さんッ!飼って良いの!?悪いの!?どっち!?」


「・・・うーん・・・まあ、いいか・・・今年は家族が増える年なのかもなぁ・・・。」


そう言うと、お父さんは、やっと靴を脱いで玄関からリビングに移動した。


「じゃあ、飼って良いのっ!?」


私がもう一度聞き返すと、釘を刺すようにお父さんは言った。


「ああ、その代わり、父さんの部屋には絶対入れるなよ。資料や本を掻き回されちゃ、かなわんからな。」


「・・・しかと、肝に銘じておきます。」

調子良く私がそう言うと、お父さんもやっと調子を合わせてくれた。

「うむ、よろしい。」


「・・・・・・良いんですか?」

猫を抱きながら、優貴さんが聞き返す。


「ああ・・・優貴に、こんなに懐いてるんだ。今日から、コイツも我が家の一員だ。」

「・・・・・・そうですか。」


優貴さんは静かにそう言った。でも、不思議な事に優貴さんはあまり喜んでいるようには見えなかった。

拾って来たのは優貴さんなのだし、もっと喜んでも良さそうなのに。


あんまり嬉しくないのかな?・・・せっかく、新しい家族が増えたのに・・・。

私は、無邪気に鳴く新しい家族の顔を見た。


「・・・にゃー。」




[ それでも彼女は赤の他人。 ]




「・・・タマ・ミケ・トラ・タイガー・・・」


ぼそぼそと候補を口にしながら、お皿を拭いていると横にいる優貴さんが最後のお皿を洗いながら聞いてきた。


「さっきから、何それ?おまじない?」

「ううん、名前。猫の名前、考えてるんです。」


そして・・・その猫は、というと・・・さっきから、優貴さんの足元で体を擦り付けている。すごいマイペースな性格。

いや、猫っていうものは、そもそもマイペースな生き物だったっけ・・・。


(それにしても、優貴さんに懐き過ぎ・・・。)


「最後のタイガーは・・・無いんじゃない?」


苦笑しながら優貴さんがタオルで手を拭く。


「・・・・・・じゃあ・・・”タイちゃん”・・・?」

「んー・・・なんか”たい焼き”みたいね。」


笑ってそう言われると、私の心に”グサッ”と言葉が刺さる。


「ど、どうせ、私はネーミングセンスありませんよーだ・・・。」


私はお皿を不必要なまでに力を入れて拭きながら、そう言った。

すると、優貴さんが腕を組んで少し目を閉じ、何か考え込んだかと思うと、一回頷いてこう言った。


「・・・・・・うん。良いんじゃない?”タイヤキ”で。」


それは、もうあっさりと。


「え゛っ!?・・・い、今のは、適当に言っただけで・・・いや・・・やっぱ、ダメですよ!名前は、もっと慎重に選んであげないと!」


この猫の一生の名前になるかもしれないのに、『たい焼きのタイちゃん』では、ちょっとかわいそうな気がする。

大体、我が家はそんなにたい焼きだって食べないのに・・・いや、そんな問題でもないか。


「そう?この子、たい焼き好きそうな顔してるわよ?」


そう言って、優貴さんは猫を抱き上げた。

猫は相変わらず、優貴さんの腕の中では大人しくしていて、撫でられるとゴロゴロと喉を鳴らしている。


(たい焼き好きそうな顔してるからって、そんな無責任な・・・。)

とは思いつつも、優貴さんにあまりにも懐き過ぎている猫を見てると、もうそれで良いかもしれない、なんて思えてくる。


「良い子ね。後で遊んであげるからね。」

「・・・優貴さんの事、よっぽど気に入ってるんですね、その子。」


残ったお皿を拭きながら私は、そう言った。


「・・・そうかしら?元々、人懐っこいんだと思うよ。」


・・・果たして、そうだろうか?さっきは、私にはあんなに懐かず、暴れたのに。

単にさっきの私の抱き方が悪かっただけ、なら・・・と私は、もう一度猫にそっと触れてみる。


―― その瞬間。


「痛ッ!」


猫にガリッと爪を立てられ、私の手からはじわりと血が出てきた。


「・・・・・・・・・・・。」


これでハッキリした。・・・やっぱり、この猫・・・優貴さんにしか懐いてない。


「あ!こら!ダメでしょ!」

優貴さんに叱られた猫は床に降りると、優貴さんの後ろに隠れてしまった。

「悠理、ちょっとそのまま待ってて。今、救急箱持ってくるわ。」

そう言って優貴さんが慌ててリビングに救急箱を取りに行ってしまった。


台所に残された私と猫。

猫は何事も無かったかのように、顔を洗っている。

ジワジワ痛んできた自分の手を見てから、猫に視線を落とし、私はボソッと名付けた。


「・・・お前、”タイヤキ”に決定ね。」

「・・・にゃー。」


猫が返事(?)をしたので、私は心の中で決めた。今日から我が家の一員になる問題児の名前は・・・『タイヤキ』だ。


「・・・うーん・・・人懐っこい子かと思ったけど、やっぱりちゃんと躾ないといけないみたいね・・・。痛い?」

「・・・いえ、大丈夫です・・・。」


リビングでソファに座り、優貴さんに消毒をされながら、私はそう答えた。でも、やっぱりジワジワと痛みを感じる。

猫は相変わらず、優貴さんにべったりで・・・膝の上で眠たそうにあくびなんかしている。


・・・何?この差。


「・・・で、名前は決まったの?」

「・・・”タイヤキ”で。」


私はボソッとそう言うと、優貴さんはクスッと笑った。


「大丈夫よ、悠理。この子だって、悠理にすぐ懐くわ。悠理は優しいんだから。」

「・・・・・・・・。」


優貴さんの優しいその一言はまるで、今の私の気持ちを見透かして言った様にも聞こえた。

そして、私が欲しいと思っている言葉でもあった。


私は絆創膏を貼ろうとしている優貴さんに思わず尋ねた。


「・・・私って・・・やっぱり・・・解り易いんですか?」

「え?・・・どうしてそう思うの?」


優貴さんが少し驚いたような顔をして、私の目を見た。


「いや、なんか・・・優貴さんって、いつもなんか・・・その・・・なんか、上手く言えないけれど・・・私の欲しい言葉を、欲しい時に・・・くれるから・・・。」


瑞穂が言っていた言葉を借りて、自分でも不思議なほど恐る恐る、という感じで私はそう言った。


「それは、褒め言葉かなぁ?」

クスクスと笑いながら、優貴さんは絆創膏を張り終わると私の手を優しく擦った。


「いや、真面目に・・・聞いてるんですけど。」


私は前から気にしていた事だったので、この際、ハッキリと聞いてみる事にした。

優貴さんは、私の気持ちなんかお見通し状態で・・・その上で、私に優しい言葉をかけてくれているのか、どうか。

例え、そうだったとしても、優貴さんは元から優しいんだから、別に構わないのだけど・・・。


・・・問題なのは、皆が言う通り、周囲の人間からみて、特に優貴さんから見て、私の心の中が解り易いのかどうか、だ。


「・・・確かに、ちょっと解りやすいかもね、悠理は、表に感情が出やすいのかもね。」


それを聞いて、思わず溜息が出た。


「はあ・・・やっぱり・・・なんか、ちょっとショック。」

「そうでもないわよ?素直な良い子って事で・・・良い事じゃない。」


優貴さんは笑顔でそう言う。けれど、当の本人である私にとっては、とても良い事だとは思えない。


「良くないですよ・・・私、皆から”解り易い”って言われてて、すっごい気にしてるんですよ・・・これでも。」

「うーん・・・でも解りやすいとは言っても、なんとなくだし・・・。後は・・・単なる”姉の勘”よ?」


ふーん、と思いながら、私は言った。


「・・・それだけ?」


表情はあくまでも変えない、感情も表に出さない・・・ように、そう聞いた・・・つもりだった。


「後は・・・これまでの生活で、貴女の事をよく知ったから?」

「・・・それだけ?」


私のその問いに、優貴さんは意味有り気に目を細めて笑った。

その視線に思わず、ドキリとする。


「・・・ふふっ・・・後は・・・私が”貴女の秘密の恋人だから解る”、かな?」


そう言い終わると同時に絆創膏の上にそっと唇をつけて、優貴さんは笑っていた。


「もしくは・・・これが、心が通じ合ってるって事かもよ?」


”本当に・・・この人は・・・!”とつくづく思う。

そして、その言葉、行動には・・・もう、私の心臓が、もたないような気さえしてくる。


確か・・・前に瑞穂が言っていた、優貴さんは『欲しい言葉を欲しい時にくれる。』というのは、あながち間違いじゃないらしい・・・。


「・・・・・・い、今・・・そういう事、言って欲しいって顔してました?私・・・。」


視線を逸らして、試しにそう聞いてみる。


「・・・さあ?」


ニッコリ笑顔で優貴さんはそう言った。


「さあ?って・・・私だけ、私の気持ちが優貴さんにモロバレなのは、なんか・・・ズルい気がするんですけど・・・。」


「あら、やっぱり言って欲しかったんだ?」


「あ・・・。」


ああ、墓穴掘った。と思っても、もう遅い。

いや、ていうか、そういう問題じゃなくて・・・。


「いや・・・あの・・・」


実を言うと、私の予想より上の言葉が飛んできて、私は恥ずかしさで耳まで真っ赤になっているのを嫌というほど感じていた。

自分の気持ちがモロバレなのは恥ずかしいけれど・・・優貴さんの口から、優貴さんなりの言葉が聞けて、私は嬉しかった。


「・・・でもね、悠理。」

「え?」


急に優貴さんの声のトーンが下がった。


「・・・前にも言ったけど、本当の事はそう易々と口に出さない方がいいのよ。」

「ええと・・・つまり・・・本音はそう簡単に出すなって・・・事ですか?」


私の答えに優貴さんはゆっくり頷いた。


「そういう事ね。」

「どうして?」


「・・・そうね・・・悠理も、時期が来れば、解るわ。・・・時期に、解るから・・・。」


優貴さんはそう言って、私の頭を撫でた。

その時、見せた微笑みはいつもみたいなものとは違っていて・・・なんだか、不思議な感じがした。


・・・そして、その言葉の意味は・・・今の私には理解出来ない、という事だろうか?


「・・・・・・・。」

優貴さんに頭を撫でられるのは好きなんだけど、なんだか・・・子ども扱いされているみたいで、私は少しムッとした顔をしてしまった。

(あ・・・!)

・・・けれど、こういう所が周囲から”解りやすい”って言われる原因なんだと気付いて、慌ててを顔を少し逸らして表情を直してみる。


その様子を見て、優貴さんは”ゴメン”と呟くように言って笑って、また頭を撫でた。


(・・・私だって、素直でイイコなだけのキャラは、そろそろ卒業したいかな・・・。)


いつまでも子供じゃないんだし。

ていうか、子供扱いされるのも嫌だし。


すると、リビングのドアが開く音がして、お風呂上りのお父さんが入ってきた。


「おい、2人共、風呂空いたぞ。・・・なんだ?悠理・・・早速やられたのか?」

私の絆創膏をみて、お父さんは笑った。

「・・・まあね。」

私は力なく、そう返事した。


「しかし、本当に優貴に懐いているんだな。膝の上で大人しく寝てるじゃないか。」

「・・・時期に悠理にだって懐きますよ。」


優貴さんはそう言って猫の背中を撫でた。タイヤキは気持ち良さそうに耳をピクピクと動かした。


「ははは。しかし、それは、一体いつになるかなぁ?」


そう言って、お父さんは冷蔵庫に向かって行く。ビールを取り出して、プルトップを開けて、美味しそうにビールを飲んでいる。



お父さんは・・・何も知らない。

私達の本当の関係を。

私達の本当の関係を知ったら、きっとショックを受けるだろう・・・。



そうか、優貴さんの言う、”本当の事を易々と言ってはいけない”っていうのは、そういう意味だろうか。

私は、なんとなく、わかった気がした。


・・・正確には、解った気になっていただけ、だったけれど。



(にしても・・・コイツ・・・。)

私の視線の先には猫がいた。


「・・・・・・・・・。」


・・・猫にジェラシーなんて、どうかしてる、と思いつつ・・・。


お父さんの目の前でこんなにも堂々と優貴さんに甘えられる猫の”タイヤキ”が羨ましくて、たまらなかった。


そう、私は・・・お父さんの前でも、優貴さんの妹ではなく、恋人として優貴さんを見ていた。恋人として隣に座っていた。


優貴さんの横顔はいつも通り。

”わかりやすい”と周囲から言われる私も、出来るだけいつも通りに振舞う。


私達はあくまでも異母姉妹。


一番知られてはいけない”秘密”を守る為に。


本当の事は、易々と言ってはいけないんだと・・・私は、そう考えていた。


もしかしたら、いつか気付かれるかもしれない。でも、きっと大丈夫と自分に言い聞かせる。

・・・でも、それらを心のどこかで”スリル”として楽しんでいる自分がいた。







学校が始まった。

暑さがまだ残っていて、まだ夏は終わっていない、と感じずにはいられない。

真昼間から家でクーラーを浴びながらテレビを見ていた時間が恋しい。

それに・・・優貴さんとも一緒にいられる時間があったし。


「瀬田・・・どうしたの?その傷。」


窓際で風を浴びている私に、瑞穂が私の手の絆創膏を指差して聞いた。


「・・・ん?ああ、猫にね・・・引っかかれちゃったの。」

「瀬田の家って、猫なんか飼ってたっけ?」

「飼い始めたの。・・・だけど、私には全然慣れてくれなくってね・・・。」


瑞穂に愚痴ってしまうほど、タイヤキは相変わらず、私に懐いてくれない。

優貴さんがいる時は、猫らしく無邪気にじゃれているのに。勿論、その時だって私には懐いていない。

おかげで生傷が増えていくこと・・・。


「ふうん、でも、まあ・・・良かった。」

瑞穂がなにやら笑ってそう言うので、私は思わず「何が良かったのよ?」と聞き返した。


「いや、瀬田はいつも通り楽しそうだから。」


楽しそう、という表現は正しいのかどうなのか。私の心境は複雑になった・・・けど。

瑞穂がそう言うのなら、そうなんだろうな、と思える。


「・・・藤宮さんには敵わない、か・・・やっぱ。」

ぼそっと瑞穂がそう言って、空を見上げた。私はそれに対してどう返して良いのか解らず、風を浴びていた。


「あ、ゴメン。」

「ん?何が?」

「・・・いや、いいんだ。なんでもない。」


私が聞き返すと、瑞穂が笑ってそう言った。

その表情が少しだけ寂しそうにも見えたが、私はあえて追及する事はしなかった。


『……瀬田は、きっと……その…好きな人が、いるんだろうけど…

私が勝手に、好きなだけ、だから…別にどうして欲しいって訳じゃないから。』


瑞穂は、まだ・・・私の事を好きなんだろうか。

私だったら、断られたからってスッパリと割り切って次に進もうって、前向きにすぐには動けないだろうな、と想像してしまう。

なんだか、瑞穂に悪い事をしているような気分になる。

黙って風を浴びていると、教室に元気な声が響いた。


「おはよー!!皆の衆!!」


・・・望実だ。まだ少しだけ歩き方が不自然だけど、なんとか登校できるようになったらしい。

望実の夏休みの事情は、クラス中、いや、学校中の噂だ。


「望実!!久しぶり!マジ、大丈夫!?」

「大〜丈夫!大〜丈夫!この通〜り!」


望実は余裕でクラスメートに笑顔を振り撒いている。・・・オマケに大サービスでお腹の傷まで見せている。


「・・・野原も相変わらず、か・・・。」


瑞穂が望実を見ながら笑ってボソッと呟いた。その笑顔には、さっきの笑顔と違って心の底から笑っているようにも見えた。

望実が自分の武勇伝をクラスメートに語り出すと同時に、瑞穂が窓の外に向かってボソッとまた呟いた。


「いつまで、こういう日々が続いてくれるんだろうなぁ・・・。」

「・・・そうだね・・・。」


本当に。

いつまで、この日々は続いてくれるのだろう。


楽しい普通の学校生活。

家の中での姉との内緒の関係。


夏休みのように、あっという間に過ぎてしまうような楽しい時間。

一体、いつまでこの状態が続いてくれるのだろう。



「・・・ずっとこのままだったら良いのに。」



今度は私がボソッと空に呟いた。



瑞穂は、一緒に空を見つめながら、随分と間を置いて言った。


「・・・それは無理じゃないか?それに、変化があるからこそ、楽しかったり、色々成長したりするんじゃないのか。」


うん、瑞穂の言う通りだと思う。


だけど。


口にしたのは、心の底の小さな願いだった。叶っても叶わなくても良かった。

言い訳がましいけど、単に口に出してみたかっただけだった。


そう・・・いつかは、優貴さんとの関係も変わってしまうのだろうか。


「・・・うん、そうだね。」


私は、心の端に生まれた不安を押し殺しながら、そう言った。

「おはよっ!その節はどうもお世話になりましたわ〜」

望実がわざとらしく敬語で挨拶する。その節は〜というのは、望実の部屋を掃除して食事まで作ってあげた事だ。


「感謝の気持ちが今ひとつ足りないなぁ〜」と瑞穂が笑って言った

「そうそう!今度何か奢ってくれるなら、嬉しいんだけど〜」と私も笑って言う。

「友人の純粋な親切心をモノやお金に変えちゃ〜ダメだと思うね!」と言って望実が笑った。


「瀬田さー・・・最近、なんかさ、雰囲気変わった?」

望実がそう言って、窓の近くの椅子に座った。

「・・・え?そう?」

「恋でもしちゃったかー?」

聞き返す私に、望実はニヤニヤしながらそう言った。

確かにしている。


・・・けれど、相手が相手だけに、言えない。


その瞬間、友達に言えないのが少しだけ辛い、と思った。

だけど、そういう道を選んでしまったのは、自分だから。

(・・・こんなの平気、平気。)

そう、心の中でで呟いて「いないよー」ととぼけた。


学校はいつも通りだった。賑やかな教室に、先生の時々怒る声。

眠気が襲ってくる授業や、なんでもない事で笑ってしまう休み時間。


それから・・・。



「ただいま。」

「・・・おかえり。」


家に帰ると、優貴さんが迎えてくれる事。


「・・・それで、どうだった?皆、変わってた?」

「いえ、それが全っ然・・・」


『いつまで、こういう日々が続いてくれるんだろうなぁ・・・。』


いつかは終わってしまう日々。

洗濯物をたたんでいる優貴さんの背中を見ていると、急に学校でのあの小さな不安が湧いてきた。


いつまで、このままでいられる?

いつかはこの日々が終わってしまう?


私達はいつまで・・・



「・・・優貴さん・・・!」

「えっ・・・どうしたの?悠理。」


私は後ろから勢いよく抱きつく。それに驚きつつ、振り向いた優貴さんの笑顔は、いつも通りだった。

私の頭を撫でてくれる優しさも、いつも通りだった。


いつも通り、だよね・・・?

・・・変わらないよね?


「ねえ、どうしたの?悠理・・・今にも泣きそうな顔して・・・。」


優貴さんは子供をあやすように頭を撫でる。

そうだ・・・私が変わらなければ、きっと、この日々は続く筈だ・・・私は、そう思った。


「・・・私、変わらない。」

「ん?」


「私の気持ちは、変わらないから!ずっと、優貴さんの事、好きだから!」

「・・・ちょ、ちょっと・・・急にどうしたの?」


「あ・・・いや・・・なんか・・・」


変に勢いがついてしまった私は、ぽつりぽつりと学校での出来事を話した。


「瑞穂らしいなぁ・・・そういう考え方。」


優貴さんは、のん気に感心していた。


「確かに、変化の無い生活は無いわね。悠理だってこの先、大学に進んだり、いつかは就職して、一人暮らしとかしたい、なんて思うかもしれないし。

一人暮らしになったら、大変よ、家事全部自分でやらなくちゃいけないし・・・あ、でもそれが楽しいってのもあるか。

それに、なんでも独り占めできちゃうわね。時間も一人で自由に過ごせるようにもなるし・・・」


優貴さんは、いやにペラペラと明るく喋った。

・・・だけど、優貴さんの言う私の未来には、一つ欠けているものがあった。


「・・・優貴さんは?」

「ん?」

「私のこれから先の未来にも、優貴さんは、いてくれますよね?」


これから先も、優貴さんと一緒にいたい。

なのに、優貴さんの話の中には優貴さん自身がまったく出てこないのだ。


「・・・・・・。」

「・・・優貴さん?」


私の不安が大きくなっていく。


「あの・・・家を出るなんて、言いませんよね?これからも一緒、ですよね?」


私の問いに、優貴さんは困ったような笑顔で答えた。


「・・・私は、元々この家の人間じゃないわ。いつまでもって訳には・・・いつかは出なくちゃ。」


「そんなの気にする事・・・!」


「私が嫌なの。」

間髪入れず、ハッキリと優貴さんはそう言った。


「そんな・・・私達、もう家族なのに!」

「・・・家族、ね・・・」


そう言うと、優貴さんの目つきが少しだけ変わった。

腰をグイッと引き寄せられ、強引に唇が重ねられる。舌が少しからまり、音を立てて吸われる。

「――っ!?」

急激に襲ってくる恥ずかしさで、私が慌てて離れようとしても優貴さんは離してくれない。


「・・・こんな事、家族がする?」


やっと離れたのは唇だけ。囁くような声が近くで聞こえる。かあっと熱くなった頬に唇がそっとつけられる。


「ちょっと・・・り、理由になってないよ・・・。」


優貴さんが、いつかこの家を出て行ってしまう理由になっていない。

これでは、キスで誤魔化されたようなものだ。



「ホラ、やっぱり、なんだかんだ言っても、私達って・・・」


優貴さんは指で私の唇をなぞりながら、笑顔で言った。


「結局は・・・赤の他人じゃない?」

「・・・・・・・・・。」


それは改めて、というか、解りきっている事実を突きつけられたようなものだったが、私にとっては少なからずショックだった。

その解りきっている事実を優貴さんの口から聞くなんて。

確かに、育った場所は違う。だけど、お父さんが一緒というだけの異母姉妹で・・・。

でも、一番大事な事は・・・私にとってはかけがえのない人に変わりは無いという事だ。

だから、”結局は赤の他人”だなんて優貴さんから言われると、寂しさを感じずにはいられない。


「・・・私は、いつか、この家を出て行くわ。でも、まあ・・・死ぬ訳じゃないんだから。」

そう言って、私をなだめるように頭を撫でる。


「じゃあ・・・一人暮らし、するんですか?」

「・・・そうね、いつかは・・・。」

そう言って、優貴さんは洗濯物にじゃれようとするタイヤキを摘み上げ、”めっ”と叱った。


「あの・・・」

「ん?」




”優貴さんの未来に、私はいますか?”



「あの・・・」



・・・そう言おうとしたが、再び唇を塞がれる。


「・・・・・・ゴメンね、不安にさせちゃったね・・・。」

そう言うと、優貴さんは私をソファに座らせ、私の制服のボタンに手を掛けた。


「あ・・・。」


いつも通り、優貴さんは私の胸の中央に唇をつけ、キスマークをつける。

温かい吐息が身体にかかる度に、私はやっぱりびくりと反応する。








「・・・お前達、何をしてる?」





その声の方向には、お父さんが立っていた。

私は、目を見開いた。




―― バレた。終わりだ。



さあっと血の気が引いていくのを感じる。グラグラと視界が揺らぐ。

・・・最も恐れていた事態が、起きてしまった。


どうしよう。

どうしよう。

どうしよう。



その時。



深い溜息が、近くで聞こえた。



「・・・見て解りません?”お父さん”。」


私の近くで、落ち着いた冷たい声が聞こえた。


視線を前に戻すと、優貴さんが見た事も無い顔で・・・冷たく笑っていた。

目が、ちっとも笑っていない。冷たい怒りを秘めた、笑み。

こんな状態なのに、優貴さんは不思議なくらい落ち着いているようにも見えた。


・・・目の前の人は、一体誰だろう・・・と思うくらい別人に見えた。



優貴さん・・・らしき人は、目を細めて笑ってこう言った。



「・・・私達、こういう関係なんです。貴方の知らない間に、こうなってたんです。」



どこか、面白がっているように喉でくっくっと笑いながら優貴さんらしき人は、そう言った。


(優貴さん・・・?)


訳が解らなかった。頭が、思考が、追いついていかない。

まるで理解する事を拒否しているように、頭は真っ白になっていた。



「お前達、一体どういうつもりなんだッ!?自分達のしている事がわかっているのかッ!?」


お父さんが頭をかきむしりながら、怒鳴る。


「・・・解ってますよ。解った上で、してるんです。こういう事・・・。」

優貴さんがそう言って、まるでお父さんに見せ付けるように私の太腿に舌を軽く這わせる。


「優貴さ・・・!」


違う・・・!優貴さんは・・・いつもの優貴さんは・・・


「止めろッ!優貴!!」


お父さんは大声を出しながら、優貴さんの襟を掴むと、頬を思い切り、引っ叩いた。

バシンっという音の後、優貴さんは床に倒れた。


家の中はしんと静まり返った。

その静寂の中・・・。



「フフフ・・・・・・アハハハハハっ!!」


突然、優貴さんが狂ったように大声で笑い出した。

その声に驚いたタイヤキが、リビングから慌てて出て行く。



「アハハハハハハハハハハハハっ!!」



(優貴、さん・・・!?)



私の知っている優貴さんは・・・そこには、もう、いなかった。



「・・・何が可笑しい!!優貴!お前は妹に何をしたのか解っているのか!?・・・折角、私は、お前の事を・・・!」


「・・・・・・・・・・・・・・。」


私は、絶句したまま動けないでいた。

目の前で一体何が起きているのか、その状況を整理するので精一杯だった。



「アハハハ・・・”折角、わざわざ引き取ってやったのに”?・・・なーんて恩を着せる気ですか?

お生憎様。・・・そもそも貴方がこの家に、私を呼ばなければ、こーんな事になんか、なりませんでしたよ。絶対に。

こうなるべくして、こうなったんです。貴方に呼ばれた時から、私は・・・この家をぶっ壊すって決めてたんです。どんな手段を使ってでも。」



そう言いながら、起き上がった優貴さんは切れた唇の端を舌でぺろりと舐めて、ニヤッと笑った。



・・・この家を、壊す・・・?



「・・・どんな気持ちですか?自分が善意のつもりで家に置いた腹違いの自分の娘が、本妻の自分の娘とこんな事してるのを見て。」



『・・・ずっとこのままだったら良いのに。』


・・・嘘だ・・・。



「・・・どんな気持ちですか?自分だけが知らない間に、娘同士が愛し合っていた事実を今、知って。」



『・・・ずっとこのままだったら良いのに。』

『・・・それは無理じゃないか?それに、変化があるからこそ、楽しかったり、色々成長したりするんじゃないのか。』



これは、嘘だ・・・。



「・・・ねえ、お父さん・・・どんな気持ちですか?”家族”に裏切られるっていうのは・・・。」



こんなの、嘘だ・・・!


「優貴・・・まさか、お前は・・・その為だけに、悠理に手を出したのか・・・!?そうなのかッ!?」


嘘だ・・・。

嘘だと言って・・・優貴さん・・・。



「・・・そうですよ。」



冷たい声は、残酷に私の耳にハッキリと届いた。


嘘だ・・・。

・・・私は、優貴さんに・・・利用された・・・?



優貴さんを見つめる私に対して、優貴さんは、一度も私を見てはくれなかった。お父さんを見て、ただ冷たく笑っていた。



・・・違う。

こんなの違う!!



気が付くと、私は家を飛び出していた。

・・・とにかく私は、この場から逃げ出したかった。


私は走り続けていた。

どこをどう走ったのか・・・わからない。


頭の中は相変わらずグチャグチャのままで。

ただ、涙を制服で拭きながら走り続けた。今は、少しでも家から遠い所へ行きたかった。


『お前達、一体どういうつもりなんだッ!?自分達のしている事がわかっているのかッ!?』


・・・お父さんに2人の関係がバレたら、こうなるって事は理解していたつもりだった。

でも、実は全然解ってなんかいなかった。どうしよう、という恐怖だけが私を支配して、弁解も何も思い浮かばなかった。

ただ、お父さんに、周囲にバレなければ良いんだ、という軽い気持ちでいたのだ。


それに・・・私がショックだったのは・・・。


『解ってますよ。解った上で、してるんです。こういう事・・・。』


優貴さんが見た事もないような、冷たい笑みを浮かべて、お父さんと・・・私までを笑って見ていた事だった。

そして、優貴さんの口から冷たい言葉も飛んできた。


『アハハハ・・・”折角、わざわざ引き取ってやったのに”?・・・なーんて恩を着せる気ですか?

お生憎様。・・・そもそも貴方がこの家に、私を呼ばなければ、こーんな事になんか、なりませんでしたよ。絶対に。

こうなるべくして、こうなったんです。貴方に呼ばれた時から、私は・・・この家をぶっ壊すって決めてたんです。』


まさか、優貴さんが・・・そんな事を考えていたなんて、想像もしていなかった。

信じたくなかった。もしも、優貴さんの言葉どおりなのだとしたら。


・・・今までの事は・・・全部・・・全部・・・


『優貴・・・お前は、まさか・・・その為だけに悠理に手を出したのか・・・!?そうなのかッ!?』


今までの私達の事は、全部・・・


『・・・そうですよ。』


私の家を壊しに来た、という優貴さん。

そんな事をする為に、私の家にやって来て・・・。

私が学校から帰ってくると優しい顔でニコニコ笑って出迎えてくれた事も・・・

あの時の言葉も、行動も、何もかも・・・



・・・彼女の嘘、だったのだろうか・・・。



「・・・た・・・瀬田!瀬田ってば!!」


ガシッと手首を掴まれて、私は止まった。私の手首を掴んだのは息を切らせていた、瑞穂だった。


「・・・瑞、穂・・・?」

「今、向こうの歩道橋から、瀬田が走っていくのが・・・見えて・・・・・・どうしたの?何があったの?」


「・・・瑞穂・・・どうしよう・・・!私・・・私・・・!」


私は堪えきれずに、そのまま道の真ん中で泣いた。

車の雑音が、やけにクッキリと聞こえて、私はその雑音に自分の泣き声がかき消されるように、声を押し殺して泣いた。

瑞穂は、私の背中にそっと掌をあてた。


「とりあえず、そこの公園行こう。」

瑞穂が、そう切り出した。


[ それでも彼女は赤の他人 ]


自分自身、突然の事で頭が混乱していて、まだ上手く話せなかった。

だけど、瑞穂は黙って聞いてくれた。

少しでも落ち着くように、と買ってくれたペットボトルのジュースも蓋を開けないまま、手に水滴をつけながら、私はとにかく頭に浮かんだ事を口に出した。

それでも、どうしよう、という思いと一緒に涙が溢れ出て来た。

私が泣きながら、ぽつりぽつりと話をし終えると、瑞穂は少し考え込んで、言葉を選んでいるようだった。


「・・・そうか・・・藤宮さんとの事、お父さんにバレちゃったのか・・・。」


瑞穂は、それだけ言うとまた黙った。

私達は、いつも待ち合わせに使っている公園のベンチに座っていた。

泣いていた私が落ち着く頃には、とっくに日は落ちていて夜になっていた。

だけど、どんな時間になっても”家に帰る”という選択肢は今の私の頭には思い浮かんでは来なかった・・・。


「藤宮さんが・・・そんな事を・・・」


噛み締めるように瑞穂はそう言うと、深い溜息をついた。


「・・・ねえ、瀬田。」

「・・・なに?」


「藤宮さんの事・・・今、どう思ってる?」

「・・・・・優貴さんの事・・・?」


たとえ、優貴さんが私の家を壊しに来た、その為に私を利用した、という事実を耳にしても。

・・・こんな事になっても・・・私の気持ちは・・・


『私の気持ちは、変わらないから!ずっと、優貴さんの事、好きだから!』


・・・自分で宣言したとおり。

そんなに簡単に気持ちは変わってはくれなかった。

いっそ、簡単に優貴さんの事を嫌いになれたら、こんなに涙が出て苦しむ事はなかっただろうと思う。

そもそも、私が最初に、勝手に・・・好きになっただけだし。

私が優貴さんの事を好きにさえならなかったら、優貴さんは私を利用しようだなんて思わなかったはずだ。


「・・・優貴さんは、悪くないよ・・・私が、勝手に好きになっただけだもの。でも、優貴さんは・・・」


優貴さんは、私の気持ちを受け入れてくれた。たとえ、それが本当の目的の為の・・・嘘でも・・・。

・・・私は、単にまだ優貴さんが私の家を壊しに来たのだと信じられない、認めたくない・・・だけなのかもしれない。


やっぱり、私はまだ・・・子供なのだろうか。


現に今、こんな時にまで、会いたいと思える人は、やっぱり優貴さんだった。

会って、『嘘ですよね?』と聞きたかった。

聞きたい事はいっぱいある。

だけど、その先にある本当の事を、本当の優貴さんの気持ちを聞くのが怖いとも思った。


「瀬田・・・藤宮さんの事は・・・その・・・」


瑞穂が、何かを言いかけ、言葉を切った。そして、また深い溜息をついた。


「・・・ゴメン。なんか、私、上手く言えないけれど・・・でも、瀬田は・・・何も悪くないよ。とにかく悪くない・・・。」


瑞穂は顔を伏せたまま、そう言った。瑞穂も買ったペットボトルの蓋を開けずに、ずっと握り締めていた。


「・・・そうかな・・・。」


私がそう言うと、瑞穂は随分と間を置いてから言った。


「・・・多分、瀬田が自分が悪かったとか責めたりしても、何も解決しない問題だと私は思う・・・私は赤の他人、だけど・・・」


赤の他人。という言葉に私は反応した。

そのフレーズは、優貴さんも使っていたからだ。


『ホラ、やっぱり、なんだかんだ言っても、私達って・・・結局は・・・赤の他人じゃない?』


私の家に来た時から、私とお父さんの事は・・・優貴さんにとって、赤の他人だったのだろうか。

最初から、私は優貴さんにとって、単なる赤の他人であって・・・それ以外の何者でもなかったのだろうか。


「・・・あのさ・・・瀬田の友人として・・・一つだけ、言わせて欲しい。」

「・・・何?」


私が横目で瑞穂を見ると、瑞穂は表情を硬くしてこちらをみていた。

やがて、ペットボトルをベンチに置いて、身体ごと私の方を向いた瑞穂はこう言った。


「多分、今・・・向き合う時が来たんだと思う。瀬田のお父さんとも・・・藤宮さんとも・・・。

瀬田にとっては、辛いかもしれないけれど・・・その辛さは、私にはとても想像もできないけれど・・・

だけど、今、ちゃんと話をしないといけない気がする。そして、ちゃんと・・・事実を受け入れるしか・・・ないんだと思う。」


瑞穂はいつになく真剣な顔でそう言った。

(逃げずに・・・受け入れる・・・。)

私はたった今、自分の家から、優貴さんの本当の気持ちからも逃げてきてしまった。

ここで、このままぐるぐると考え続けるよりも、確かにそれが良い方法なのかもしれないが・・・

でも、やっぱり私は怖かった。

お父さんに何を言われるのか、も怖かったし・・・。

優貴さんの事を誰よりも知りたいと思っているのに、それが今は、知るのが怖くてたまらなかった。


だけど、ここで考え続けても何の解決にもならない事を、自分が一番よくわかっていた。


「・・・大丈夫。」


瑞穂は私の手を握って言った。大丈夫?という疑問ではなく、「大丈夫」と言ってくれた。


「大丈夫。何かあったら、力になる。こうやって話も聞くし・・・もしも、家にいたくなくなったら、私の家に来てもこっちは構わないから。」

「・・・ありがとう、瑞穂。瑞穂って優しいね。」

私はふっと肩の力を抜いて、そう言った。

「・・・やっと笑った。」

そう言って、瑞穂は笑った。


不思議。ほんの少し、話しただけなのに、気分はさっきよりもずっと落ち着いていた。

もしも、瑞穂に手首を掴まれなかったら、私はずっと走って、ずっと考えて・・・を繰り返して・・・一体どうなっていたかわからない。

ずっと・・・逃げ続けていたかもしれない。


「・・・帰って話してみる。私・・・逃げてきちゃったから。」


私はそう言うと、立ち上がり、ペットボトルの蓋を開けて、温くなったジュースを一口飲んだ。

それを見て、瑞穂はコクリと頷いた。


「・・・メールする。」と私が言うと

「うん、気長に待ってる。」と瑞穂が返事をした。


私は、自分の家へと歩き出した。

家に帰ったら、どうなるか、正直わからない。だけど、極力それを考えないようにした。

とにかく、私は逃げるのを止めたのだ。


私が玄関の扉を開けると、リビングの明かりがついているのが見えた。


「た・・・ただいま。」


私は小さな声でそう言った。

お父さんは、リビングのソファに座り、お酒を飲んでいた。背中が丸まっていて、少し寂しそうにも見えた。


黙り込んでお酒を飲んでいるお父さんに私は声をかけた。


「・・・優貴さんは?」


グラスを静かに置いたお父さんは低い声で言った。


「・・・優貴は、さっき出て行った。荷物は後で引き取りにくるそうだ。」

「――!!」


私はその言葉を聞いて、急いで二階へと階段を駆け上がった。

優貴さんの姿は本当にそこにはなく、猫のタイヤキが床で優貴さんの大事な写真立てで遊んでいた。

・・・洋服の殆どは、クローゼットから消えていて、小物や本の類もダンボールの中に入っていた。


・・・この家を出て行ったのは、本当、らしい・・・。


その時、”カシャン”と小さな音を立てて、写真立てが裏返しになり、その瞬間、音にビックリしたタイヤキが部屋の隅に逃げた。

優貴さんが大事にしていた筈の写真立ては、床に無造作に置かれていたらしく、タイヤキはそれで遊んでいたようだ。

私はそれを拾い上げた。以前、触った時と同じように、写真立ての中央はぷっくりとした感触がして、わずかに隙間が見えて、簡単に外せそうだった。

以前は、プライバシーの侵害かと思って見なかったのだが、私は妙にそれが気になって、中を見てみようと思った。

私は写真立ての裏側を外して、中を見てみた。


その中には、指輪が入っていた。

優貴さんが以前、首から下げていた、優貴さんのお母さんの指輪だった。

優貴さんは、どこにいったのだろう。あんなに大事にしていた指輪を、私の家(こんな所)に置いていって。


「悠理。」

「・・・お父さん。」

気が付くと少し酔ったお父さんが、部屋の入り口の所に立っていた。


「・・・どうしてなんだ?

どうして、優貴なんだ!?お前達は・・・お前達は、腹違いの姉妹だろう!?どうして・・・!」


そう言うと、お父さんはその場にしゃがみ込んでしまった。

・・・お父さんは泣いていた。

その瞬間、とてつもない罪悪感がおそってきた。


だけど、私は・・・逃げちゃ、ダメなんだ、向き合わなくちゃいけないんだ、と口を開いた。


「私にもどうして優貴さんにこんな気持ちを抱いてしまったのかは、わからない。

でも、私は優貴さんの事、一人の人として好きになったんだよ・・・後悔もしてない。それだけは確か。」


私の答えに、お父さんは何も答えなかった。

ただ、フラリと立ち上がり、階段を静かに降りていった。

お父さんの涙、階段を降りる後姿をみて、私は胸が締め付けられる思いがした。


・・・でも、それが私のした事の結果なのだ。


私とお父さんの間に、簡単には埋められない溝のような物が出来た気がした。


・・・そんな私の足元に、あれほど私に懐かなかったタイヤキが擦り寄ってきた。

私は、小さく温かいタイヤキを抱き上げると、涙を流した。彼女の匂いが少しだけ、したのだ。


・・・私は、優貴さんに聞きたかった。


『優貴さん、これが・・・貴女のしたかった事なんですか・・・?』


・・・今、一番会って、聞きたい事が・・・たくさん・・・たくさん、ある。

優貴さん、貴女は・・・今、どこにいるんですか?





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