上尾は既に戦国期に郷村名として見え、元亀・天正のころ(1570~92)のものと推定される
旦那引付注文写(熊野那智大社文書)に「足立郷あけをの郷原宿」と記されています。
当初の鎮座地はこの辺りでは一番の高台で、かつての上尾三か村の中心地にあり、小字名を二ツ宮といいました。
その創建は、当地一帯を上尾郷と称していた中世までさかのぼることが推測され、
『風土記稿』上尾村の項には「氷川社 上尾三か村の鎮守なり、男体女体(なんたいにょたい)の両社にて、間に道をへだてならびたてり、村内遍照院の持」と記されています。これに見えるように、当社は元来男体・女体の両社からなり、 小字名を二ツ宮の由来ともなりました。
明治初年の神仏分離を経て、男体・女体の両社は、いずれも氷川社と称し、明治6年に村社に列しました。しかし、明治42年に女体社を継承した氷川社の方が隣村の上尾宿の鍬神社に合祀される事態となり、鍬神社は社名を氷川鍬神社に改め、村社に列しました。 一方、当地では男体社を継承した氷川社が一社だけとなり、武蔵一宮(むさしいちのみや)の大宮氷川神社に倣った古くからの祭祀形態は変更を余儀なくされたのです。
当社の『明細帳』によると、いつのころか字二ツ宮の神明社と末社八雲社・稲荷社が合祀され、明治40年には、上尾下字上原の無格社天神社、字下原の無格社稲荷社、字榎戸の無格社稲荷社・厳島社、翌四十一年には上尾村字北本村の無格社稲荷社がいずれも合祀されました。