●チュニジアの旅5日目=12月3日

旅行の間ずっとひげをそらずにいたが、やっぱりドジョウひげぐらいにしかならず、現地のアラブの人たちに比べるとあまりにも貧相なので伸ばすのはやめる。

それはさておき、この日はカルタゴへ。この旅行のハイライトといえるかも知れない。荷物をホテルに置いて(初めて荷物から解放されました)、市街地の東の方から発着している郊外電車TGMに乗る。この電車は1等、2等の区別があった。2等の切符を買い乗り込む。1等の車両を見る限り別に上等という感じはなかったし、いかにも通勤電車という感じで立ち客が多いので、わざわざ1等切符を買うほどの必然性はないと思われる。線路は遠浅の湾を横切る形で埋め立てて伸びており、電車は<海の中>を進んでいく。京都・天橋立を列車が通っている感じと理解してもらえたらいいでしょうか(あるのは線路のみですが)。海を渡りきると、短い間隔で駅がある。またもや例えると、関西でいえば叡電、関東で言えば江の電といった感じでしょう。カルタゴを観光するには、4つの駅のどこで下りてもいいのですが、一番手前のカルタージュ・サランボ駅で下りる。ここまで約20分、0.56ディナール。

チュニジアの電車の切符。上が市内を走る普通の電車のもので、下がカルタゴを通るマリンライナーの分。●ひとつが乗車1区間分を表す

駅前の喫茶店でカフェオーレをいただいた後、フェニキア人の墓地トフェを目指す。カルタゴ共通観光券(4.2ディナール)を売っている場所のひとつだ。地図の通り向かい、それらしいところに来ているような気がするのだが、どうも見当たらない。近くで街路樹の手入れをしていたにいちゃんに聞いてみると、もっと東だという。そのとおり歩いていると、学生風の若い男が私を追い抜いて行った。私がきょろきょろしていたからだろう、その男がどこに行くつもりか訪ねてきたのでトフェというと「どっちに行ってる。トフェはあっちだ」ともと来た方を指差す。やれやれ、さっきのにいちゃんの指示はなんだったんだ。仕方なく引き返すが、やはり目指すトフェは見つからない。実際カルタゴの海岸沿いは高級住宅街で、一軒当たりの家構えも大きく、白く高い壁が巡らされていて当然ながら庭の様子も覗くことはできない。なおもうろついていると、さきほどの学生風の男が用事を済ませたのか戻ってきた。そして迷っている私を見つけ「ついてこい。トフェまで連れていってやる」という。彼は、自分はガイドの勉強をしているといったか、資格を持っているといったか、とにかくそういう話をしていた。フンフンと何気なく聞いていると、「道案内に5ディナールくれ」と言い出した。5ディナールといえば500円以上、だんだん分かってきたこの国の物価でレストランなどでなければ十分1回分の食事ができる額だ。冗談じゃあない。道案内でそんなに巻き上げられてどうする。きっぱり断り、それでも道を聞いたことは事実だから1ディナールだけはチップとして払うと彼は「そこの角を曲がってもう一回曲がったらいい」と言って去っていった。あとから思うと、トフェの真ん前まで私を連れていっても、彼にとっては何の造作もないことだと思うが、払う金でそんなに態度が違うのかと思うと少し悲しい。しかしこうなったらどうやっても自力でたどり着かねば。その辺の住民や守衛さんに聞いて何とかたどりつくと、トフェははじめににいちゃんに道を聞いたところからほんの十メートルも離れていないところではないか。そしてその時はおそらく開いていなかったトフェの門が、今はしっかりと開いている!(最初行った時に開門してあれば、きっと気づいたはずだ)、そして何より、そのにいちゃんが相変わらず街路樹の手入れの作業をしていて、今度は「ハンニバル(カルタゴの勇将)の硬貨は要らないか」と話し掛けてきたのには、さすがにあきれてしまった。

苦労してたどり着いたトフェは、そうと知らなければ変哲もないところで、実際、外国人観光客を乗せた観光バスが通り過ぎるところを見るとそれほど名所という訳ではないのであろう。住宅街を歩きながら海沿いに出て、古代のカルタゴ港へ。今度は老人が話し掛けてきて、やはりハンニバルの硬貨を売りつけてくる。ちらりと見ると、火事場で出てきた10円玉のように汚くて、彼が言うには「表にハンニバルの肖像、裏に(戦に使った)象の絵がある」ということだった。価値など当然分からないので断るが、彼は自転車でついてくる。しつこい。やがてあきらめて去っていったが。レストランネプチューンで昼食。この日は風が強く波が高かったが、これが穏やかであれば、地中海を望むテラスなどがあり、いい雰囲気の店ではないかと思う。客席から見ていると海岸でカップルが熱烈な抱擁。うーん、もっと季節のいい時に来られたら、これこそ地中海の休日という感じですなあ。

さて、食事の後は、マゴン・クウオーター(住居跡)を見て、アントニヌスの共同浴場へ。地中海を望んで2世紀に建てられた大浴場で、かなり広い範囲に渡って巨大な円柱や建物の後が残っている。皆さんの年賀状に印刷してあったのは、ここの写真であります。じっくりと遺跡を見て回ったが、地中海の潮騒を聞きながら、入浴を楽しむのは何と贅沢なことと思えてくる。しかしながらこの遺跡に隣接して大統領官邸があり、境界のところどころに警察か軍隊かわからないが銃を持って警備の人間が立っているのはいかにも興ざめ。現代においても大統領官邸がもうけられるほど、カルタゴが風光明媚であるということなのだろうけど。共同浴場を出て大通りを挟んで山手に進むと、今度はローマ人の住居跡。丘の上に石組みなどが残っている。ここも右側が大統領官邸の方向に当たるため、入場時に、係のおっちゃんから決してカメラをそちらに向けないようにとの注意を受ける。官邸を撮影したらフィルムを没収されるらしい。確かに遠く警備の人影が見えるが、こちらの撮影の動きなど分かるのかな。それとも双眼鏡とか持ってて、観光客の動きをいちいち監視してるのかしらん。

劇場(今も使われているらしい)を見て、坂道を15分、円形闘技場へと進む。ここの闘技場はエル・ジェムのに比べると観客席の石組みはほとんど残っておらず、大きなくぼ地という感じ。もと来た方にまた歩いて、小高い丘に登る。ここがビュルサの丘。フェニキア人の街の中心だったらしい。丘の上に荘厳な建物、サン・ルイ教会。中に入ると、博物館になっている。英語を話すガイドが近づいてきてしきりに展示物について説明するが、おあいにくさま、私はよく理解できません。ガイド料を稼ぐならほかの人にして。展示物もじっくり見て、それなりに分かった気分。丘を下りて、さて、ここまでかなり歩いたわけだが、さらに気力を振り絞って一駅分を歩き、パレオ・クリスチャン博物館へ。まだ4時半ごろで、閉館には1時間あると思っていたが、係員は帰りかけていたところだった。何とか入れてもらうが、係員はそこの庭とか門とかをいじっているおじさんに任せてほんとに帰ってしまったようだ。展示物が盗まれたりしたらどうするんだろう。まあ、それほど貴重なものがあるようにも見えなかったが。

歩き回った一日もようやく暮れ始め、カルタージュ・デルメッシュ駅から帰ることにする。電車待ちの間、中学生か高校生の集団が話し掛けてきた。スースへ向かう列車内であったことと同じように、やはり日本語の表記を聞いてくる。自分たちの名前は日本語ならどう表記するのか興味があるのだろう。こちらの名前も教えると、やめときゃいいのに20人ほどで大合唱。異国の発音で呼ばれる自分の名前に違和感。電車では、なぜかは分からないが太鼓を持った、多分チュニス中心部にこれから遊びに行くであろう若者たちと乗り合わせる。車内で太鼓をたたき歌うパフォーマンスが始まった。これはなんとなくアフリカという雰囲気だった。日本だったら「うるせえ」ということになるのかも知れないが、乗客は皆寛容で、楽しませてもらいました。

チュニスに戻ってきたころはもう、どっぷりと暮れてしまっていた。電車を乗り継いで北方面行きのバスステーションをさがす。翌日、ドゥガに行く場合に交通手段を確認しておくためだ。バス乗り場のおっちゃんにテブルスークまで行くバス便がどれだけあるか尋ねてみるが、フランス語しか通じない。見かねた女子学生が私の英語?を通訳してくれたところ、1時間に1本の割合であるようだ。ドゥガ行きのことに関してはまた明日の項で詳述するが、果たして行くべきか、迷いは続く。中心部に戻り、カルカッソンというレストランで食事、確かに安かったです。街を歩いていると、例によってまた「親戚の○○の、そのまた○○が日本人」「友達、友達、お茶をおごってやろう」と声をかけてくる輩。「その日本人の名前は何て言うの」と尋ねて返ってきた答えに失笑せざるを得ないが、こちらのホテルの名をいうと立ち去っていくのはどういうことかいな。まあとにかく、翌日の早起きに備えて早めに寝ることにする。

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