●チュニジアの旅6日目=12月4日
この日の行動は、実は、出発前から悩んでいた。カルタゴなど行きたいところから順に日程を埋めていくとチュニジア5泊だと、最後のこの1日が中途半端に余ってしまうのだった。人気がある、南部のサハラ砂漠地帯に行って、ベルベル人の穴居住宅や大塩湖を巡るのは、仕事の合間の、このつかの間の休暇では到底無理。チュニスから日帰りで行けるところを条件に、どこか適当なところを探していたのだが、出発までには決めることができないでいた。
ドゥガは、行ってみたいところのひとつではあった。出発前に見た資料によれば、ローマ期の遺跡がたくさん残っているとのことだった。ところがここは交通手段に乏しく、観光地としては比較的未開なところ。最寄りの街テブルスークからでも6キロ離れているとのこと。果たしてどうやって行けばいいのか、どれくらい時間がかかるのか、もし迷った場合帰って来る担保があるのかどうか、不安なため踏み切れないでいた。しかし、いよいよ行動を決めなくてはならない段になって、行きたいという気持ちが募って来ていた。
さて、まだ薄暗い朝7時前、宿を引き払う。2泊で32ディナール。荷物を持っての移動となる。前日にドゥガに行き、この日カルタゴに行くことにしておけば、より楽だったわけだが仕方あるまい。路面電車に乗って前日確認しておいた北方面行きのルアージュ・バス乗り場へ。バスに乗ろうにも行き先を文字で読めるわけでなし、下りる場所も分からないだろうから、とりあえず行きは安全策でルアージュにする。すでにたくさんたむろしている運転手らの間をテブルスーク行きの車を求め歩く。車はすぐに見つかった。「ドゥガに行くのか?」。青い毛糸の帽子をかぶった男がそう聞いてきた(おそらく)。「そうだ」とこたえると、男はいろいろ説明を始めた。何を言っているのか分からなかったが、男は線を1本宙に引き、そこから枝分かれさせてその先端がドゥガだといっている。回りの男たちも一緒になって「トロワ、キロメートル、トロワ、ディナール」といっているから、車はドゥガへは直接は行かないが、途中で降りてそこから3キロ歩くか別の車に乗ってドゥガに行け、車なら別に3ディナールが必要だという意味と理解した。毛糸の男はしばらく「ボルテガ、ボルテガ(と聞こえた)」といいながら客を集めていた。彼の車はそこへ行くのだろう。だが一向に客は集まらない。彼は出発をあきらめたのか、私を乗り場の外れの方に連れていき、別の車に乗れという。若干不安が走るが、同じ方面に行く車にあてがわれたというのが、おそらく正解なのだろう。この辺のシステムはよく分からないが、信じるしかない。
車はライトバン。乗る時のタイミングで最後部に私1人、その前に現地の人3人ということになった。朝のラッシュをかき分けて西へと向かう。やがて郊外を抜け、農村部へ。はるか遠くに山を見渡し、ところどころぽつりぽつりと人家が見える。特に何か作物が植わっているという感じでもないが、かといって、不毛という感じでもない。結構上ったり下ったり、高低もある。砂漠地帯であればもっと景色は壮大かも知れないが、それでも、ここはやっぱりアフリカの大地の一角なんだと実感できた。さて、前に座ったうち、ひとりの若者が運転手に、後ろの席、つまり私の隣に替わりたいと言い出した。先ほどから窓を開けてみたり、しんどそうにしていたから、窮屈なうえに上り下りするコースに、どうやら車酔いしたようだ。席を替わってすぐ、ついに戻し始めた。「おいおい、大丈夫かよ」と持ち合わせのティシュを渡すが、運転手は車を汚されたことになんか文句を言っている。若者の方も顔は青いのに(本当のところは浅黒いので、顔色はなんとも言えません)何か言い返している。それだけ元気ならと思うが、それ以降はずっと<伸びた>状態。ほんとこのあと大丈夫かいな。
車は1時間半ほど走って、小高い丘の上の町に止まり、ここで小休憩(といっても運転手だけだが)。後で分かったのだが、ここがテブルスーク。荷物をいくらか積み込んで(ルアージュは荷物輸送便の役割も当然ながら果たしているようだ)再出発。ほどなく走って民家もまばらなところで再び止まり、私に下りるように言う。ここがドゥガへの入り口らしい。ここまで6ディナールだっただろうか。車を下りて、さてここから3キロ歩かなくてはならないのか、まあそれでも1時間あればつくだろうと考えていると、目の前に随分くたびれた小型車が1台待ち構えていた。あちこちへこみドアはいったいちゃんと閉まるのかいな、といった感じ。日本ならとうの昔に廃車になっているだろう。車の傍らにはひとりの若い男がおり、村(ここは新ドゥガ村というらしい)でたった1台のタクシーだという。それもなかなかいいかなと思い乗ることにする。座席はぼろぼろで中身のウレタンもむき出し。車はかなり急勾配で蛇行した道を登って行く。距離は3キロかも知れないが、これを歩いていたら、結構疲れていたと思われる。それでも10分も走らぬうちに遺跡入り口についた。チュニス出発時にいわれた通り3ディナール。距離を考えたら、かなり高額な「観光料金」ではあるが仕方なかろう。
3時間後の午後1時に迎えに来てもらう約束をして、遺跡へと向かうが、入り口らしきものはない。遺跡とはやや方向違いに小さな民家があったので、そこでチケットを扱っているのかとも思い行ってみるが、本当の民家で、犬に追いかけられそうになった。ああ怖かった。柵もないし、どうやら遺跡には勝手に入り込んでいいみたい。坂道を登って行くと右手にリビコ・プニック廟。何か古臭い時計台といった感じ。更に登っていくと、キクロプスの浴場、トリフォリウムの家など。前日のカルタゴのアントニヌスの浴場の壮大さにも驚いたが、ここの遺跡もすばらしい。山の上にある分だけ、カルタゴよりも勝っているかも知れない。本当に来てよかった、と満足。遺跡にたたずんでいると、係員らしき2人組がやってきた。ここで初めて入場料を支払う。カメラ含め3.1ディナール。観光客の姿もまばらなため、特に入り口を設けなくても、こうして巡回して新しい人影を見つける度に入場料を徴収した方が合理的なのだろうか。尾根沿いの道をたどり円形劇場へ。近くに売店や駐車場(ただしシーズンオフで営業しているようには見えなかった)などがあるからこちらが遺跡の玄関で、私は裏側から入ったことになるようだ。西へと進み、キャピトル。映画に出てきそうな壮麗な建物が、今は荒涼とした山上に忽然と建っているさまは何と表現してよいものやら。さらに進み、ここにも円形闘技場。カエレスティス神殿に行く道は、畑と境界もなく、さっきまで牛を使って耕していたおにいさんが突然、またもハンニバルの硬貨らしきものを売り付けに近寄ってくる。田舎ゆえか、英語でも仏語でもなく、まったくの身振り手振りだが、丁重にお引き取りいただいた。どうでもよいことだが、雨が多そうには思えないのに、妙にカタツムリが多い。遺跡に見取れながら歩いていると、石畳の何匹かを踏み潰してしまう。
迎えに来てもらうまでの3時間は長すぎるのではないかと思っていたが、まだまだゆっくり巡りたいぐらいで、あっという間だった。午前に下ろしてもらった遺跡<裏口>で待つが村唯一のタクシーは10分ほどたっても現れない。近くで道路工事をしていたおっちゃんたちが作業車で村まで送ってくれそうなことを言ってくる。好意なのか、どうせ車を止めていてもしょうがないので少しでも稼ごうかという営業か。話をしていたらタクシーがやってきた。午前とは違うにいちゃんだった。にいちゃんはそこらでザクロ風の果物を買って食べさせてくれた。ありがたいサービスだが、手がべとべとになったのにも困った(何という罰当たりな)。新ドゥガ村でおりてもよかったが、どうせならテブルスークの方がルアージュやバスに乗りやすいと思ったので、申し出てみると、追加料金1ディナールで行ってくれることになった。村でおばあさんら2、3人を乗せて、ほどなく到着。後で分かったが、テブルスークからチュニスまでルアージュ料金は1.5ディナール安く、結果として0.5ディナール得したことになった。路線バスに乗ろうかと思うが、どうも乗り場もダイヤも分からない。チュニス行きのルアージュに乗ることにする。なかなか人数が集まらないようで、役所や病院、学校らしきところ町の中を三巡ぐらいして出発。途中で何人か拾って結局満員になったようだが、帰りは眠っている間にすぐついたという感じ。まだ日は高く、ドゥガに行く前にちゃんと帰ってこられるかあれほど心配していたのは杞憂に終わった。チュニスから十分に日帰りできるところで、ぜひお勧めの遺跡だと思います。
さて、これでほとんどの旅程を終え、まだ明るいうちにホテルメリディアンに投宿。事前に予約しておいた、チュニジアではこれ一晩だけの高級ホテル。初めて湯船に入ることができ、すっかりくつろげました。夜、食事に出てカフェ・ド・パリに。大通り角にある大きなカフェで、チュニスにきたらやっぱりここでお茶を飲まなきゃあという雰囲気の店です。ひとり物思いにふけりながらお茶を飲んでいると、例によって「日本人か。日本人は大好きだ。うちに来ないか」と<アラブの兄弟>から声がかかるが、明日の朝は早い。<結末>も知れていることだし、丁重にお断りしてホテルに引き揚げた。