◇2008年9月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
[見出し]
今月号の特集

文庫本「賢治先生がやってきた」

原民喜の詩碑

脚本「パンプキン爆弾」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2008.9.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。


2008.9.1
原民喜の詩碑

原民喜について、考えあぐねていることがあります。
原民喜という私のもっとも敬愛する小説家、詩人は、現在どのくらい読まれているのでしょうか。
1905年広島に生まれ、戦争末期東京から生地に疎開して被爆、小説「夏の花」や原爆の詩を残して、 1951年46歳で自殺。ヒロシマを描いた彼の作品はその正確さ、リアルさで、 他の作家の追随をゆるさない秀逸なものです。
原子爆弾の被害というのがいかなるものかを、彼は知力をつくして描ききりました。
彼の小説や詩は、概ねそんなに難解ではありません。詩にしても、読めば意味が分かるものがほとんどです。 そんな中でどうしてもすっきりと分からない詩があるのです。
友人丸岡明氏に選ばれ、ヒロシマの地で詩碑に刻まれている詩です。

 遠き日の石に刻み
      砂に影おち
 崩れ堕つ 天地のまなか
 一輪の花の幻


すぐれた詩であるにはちがいありません。その証拠に一読、忘れることができない感銘をあたえられます。 それでいて、詩の意味が充分に腑に落ちてこないのです。分かったという手応えがないのです。 特に最初の二行の意味が分かりにくい。
まず最初の「遠き日」というのは、どういう意味なのでしょうか。
遠くなってしまった原爆の落とされた日、ということなのでしょうか。 あるいは、遠い日々という意味でしょうか。
原爆のことを詠んでいるのはまちがいないのですから、 「遠き日」を、遠くなってしまったが、原爆の落とされた日というふうに解釈します。
その日を「石に刻み」というのは、どういうことでしょうか。 原爆の閃光が石に焼きつけられるということかもしれません。つぎの行にもつながっていきます。 砂には閃光の影がおちる。ピカドンのピカの部分です。
そして、つぎにドンで、天地が崩れます。そのまなかに、「一輪の花の幻」を見たということでしょうか。
原爆の惨禍を詠んだ詩として、これがもっとも無難な解釈のように思われます。
しかし、この解釈では「一輪の花の幻」が何を表しているかはわかりにくい。
言葉だけで解するなら、輝く火の玉に花の幻影を見たのかもしれません。
あるいは、亡くした彼の妻、貞恵を指すという説もあるようですが、あまりに唐突すぎるように思われます。

「一輪の花の幻」が何を象徴しているかを考えていて、ふと思いあたったことがあります。
彼の「原爆被災時のノート」につぎのような記述が見られるのです。

我ハ奇蹟的ニ無傷ナリシモ コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ

ここにいう「天ノ命」、これが彼の「一輪の花の幻」ではなかったのか。
原爆の悲惨のまなかで、彼は、自分に課せられた書くという天ノ命を知ったのです。
そうすると、この詩は、被爆の状況を描写しただけではなく、つぎのような意味を二重映像のように重ねているのではないか、 ということが考えられます。

 あの遠き日のことを石に刻むように文学に表す
 砂に影がおちるように、詳細に陰影をつける
 崩れ堕ちる天地のまなか
 コノ有様ヲツタヘヨという自分に与えられた天命、それが一輪の花の幻

このように、おのれの文学のかぎりをつくして原爆を描こうと志した原民喜は、この詩に、その 心構えを重ねていたと読むことはできないでしょうか。

こういう難解な詩について論じようとすれば、恥をかく覚悟をしなければなりません。 具眼の人からみれば、まったく的はずれのご託をならべている、と見えるに違いないからです。 それでも勇気を出して、ひそかに考えていたことを書いたものの、自分自身、とても納得にはほど遠いのです。
お気に入りの詩というのは、そんなふうであってもいいのかもしれません。 すっきり分からないところを反芻しながら楽しむ、それが本来の詩の鑑賞法とも言えそうです。 ほんとうにすばらしい詩というのは、そんな形で読者を長く楽しませてくれるのだとでも考えておきましょうか。
この詩について、何かこれぞという解釈がありましたら、ご教示をお願いします。


2008.9.1
脚本「パンプキン爆弾」

「その時歴史が動いた」2008.8.27(水)で、 「模擬原爆パンプキン 〜秘められた原爆投下訓練〜」という興味深いテーマが取り上げられていました。
戦争末期、アメリカはすでにマンハッタン計画によって原爆開発に成功していました。 二種類の原爆がすでに実験で試されていました。一つはヒロシマに落とされたウラン型のリトルボーイ、 さらに一つはナガサキのプルトニウム型ファットマン。どちらも名は体を表すのとおり、リトルボーイは細身で小柄、 ファットマンはずんぐりむっくり、しかしアメリカとしては、後者が本名だったようです。 原爆の実験に成功した米軍は、 つぎに投下の実践訓練をするために、ファットマンと同じ形、重さの大型爆弾を作ります。それが模擬原爆パンプキン。 このファットマンの模擬原爆は、パンプキンという名ににあわず、 並の大型爆弾を凌ぐ破壊力をもっていました。 ヒロシマ、ナガサキに原爆が投下されるまでに、日本各地に落とされた模擬原爆パンプキンは49発、 犠牲者は400人以上、負傷者もまた1200人を超えています。
米軍の極秘資料を収集、研究して、模擬原爆パンプキンの事実を暴いたのは、愛知県、山口県の学校の先生たち (徳山工業高等専門学校の工藤洋三さんや 「春日井の戦争を記録する会」の方々)だそうです。
はじめて聞くことばかりで、模擬原爆の事実に引きこまれました。また、内容もさることながら、 米軍の資料を博捜してこの事実を掘り起こした一群の教師達の真摯な研究にも頭が下がる思いです。
その事実を踏まえて、自分たちの体験を後世につたえようという動きもあるかに説明されていました。 先生方の地道な努力が、歴史を書き換え、真実を後世に残すきっかけとなる、そんなこともあるのだと 心を強くしたところもあります。
日本とアメリカでは原爆の投下に対する評価に、かなりの隔たりがあるようです。 六十年を経てなお埋めることのできない隔たり、その根っこの一つが、 この模擬原爆パンプキンのあたりに露出しているような気もします。 被爆という日本人の経験は、これからも世代を越えて考え続けていかなければならない大切な問題ですが、 そのとき、模擬原爆パンプキンの存在もまた忘れてはならないものの一つだと思います。

付録
番組に触発されて、脚本を一つ書いてみました。
演者としては、小学校の五、六年生を想定しています。登場人物は二十人ほど。
まだ、完成してはいません。未完成品です。だから、この「うずのしゅげ通信」に掲載しています。
上演する場合は、必要に応じて臨機応変に書き加えたり、書き直したりしてもらえばいいのです。
四場構成で、大筋だけができています。セリフは充分には書き込まれてはいません。 細部もまだまだ荒削りです。大筋もこれで決まり、ということではなく、 いいアイデアがあれば変更もできます。こんな筋もあるといった案をお寄せください。
この脚本(案)を、適宜改変されて、学習発表とかに利用していただければ幸せです。

脚本はこちらから
「パンプキンが降ってきた」
−原爆の予行演習って、ほんとうにあったの?−

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