2009年8月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

短篇戯曲「人の目、鳥の目、宇宙の目」

石原吉郎

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2009.8.1
短篇戯曲「人の目、鳥の目、宇宙の目」

季刊の「せりふの時代」(2009年夏号)が、短篇戯曲の特集をしています。
掲載されている23編の短篇戯曲を楽しみながら読みました。
生田萬・作「パンでミック」、平田オリザ・作「働く私」など興味深いものもありましたが、 中には私には理解できない作品もありました。もっとも意味は分からなくても、 それなりに楽しいといった趣のものもあり、評価はむずかしいところです。 この特集からいろんな収穫を得たことはたしかです。
第一の収穫は、刺激を受けて短篇戯曲を書いてみたいという気持になったことです。
テーマは原爆。
「えっ、原爆をテーマに短篇戯曲を書くの?」
と、驚かれるむきもあるかと思いますが、これまでにも長短いくつかの原爆をテーマにした脚本を 書いているのです。ただ短篇というのはありません。
原爆が落とされてから今年で64年、 原爆の悲惨は悲惨として、一度そこから飛躍して、違った切り口で原爆というものを捉え直してみたいと いう思いを暖めてきたのです。新鮮な切り口によって、 原爆の現代的な意味合いを浮き上がらせることができないか。 短篇なればこその切り口で、それを際だたせることができないか、 というのがひそかな狙いです。
私の構想はつぎのようなものです。
三場構成で、【一場】は原民喜の詩の朗読。ここでは人の目から見た原爆を表現します。
【二場】にはよだかカブトムシが登場して、鳥の目から見た原爆を、 【三場】は宮沢賢治に 登場してもらって、銀河鉄道から見た原爆を描くという心づもりです。
最初は、サッと切り口も鮮やかに問題の核心を抉った ほんとうに短い脚本に仕上げるつもりだったのですが、 いつものことで、書いている内におのずから発展をとげて、ちょっとした長さになってしまいました。 単に夾雑物が増えただけで、肝心の核心を十分捉えきれていないのかもしれません。
羊頭狗肉の怖れはありますが、軽佻浮薄なものばかりがもてはやされる時代に、 これくらいの重さ、長さの脚本もいいのではないかと 考えて載せることにしました。
「うずのしゅげ通信」の中に組み込むと、その長さに嫌気がさしてどこかに飛んでいかれそうなので、 脚本のページに置いて、リンクできる ようにしました。
この脚本に興味のある方は、下のリンクをクリックしてお読みいただけたらと思います。

短篇戯曲「人の目、鳥の目、宇宙の目」−原爆三景−


追補
1、これを書いている最中、朝日新聞(2009.7.28)夕刊につぎのような記事を見つけました。
「検証 昭和報道」「終戦への秒読み」という連載の「爆弾の正体」

「45年8月6日。午前8時15分、広島に原爆が投下された。午後、新聞各社の編集局長が 情報局に集まり、会議を開いた。……その席で、陸軍の担当者が言った。
「今度の爆弾は、いつものものとは違うようにも思うが……情報が集まった上で大本営から発表しましょう。 それまではごく小さく普通の都市爆撃と同じように取り扱ってもらいましょう。」」

この要請を受けて、朝日新聞は「焼夷弾爆弾」により「若干の損害」と報じました。
ところが、7日に、「英首相アトリーが、広島に投下されたのは原爆と発表」、それを受けて、 再び編集局長会議が持たれます。ところが「軍部は大本営発表で『新型爆弾』と呼ぶとい」って譲らないのです。 情報局と、外務省は「原子爆弾」と呼ぶことを認めるのですが、軍部は応じなかった。
結局、11日「トルーマン・対日戦放送演説」の外電で始めて「原子爆弾」という言葉が使われたというのです。

何という姑息、なんたる愚弄、……
国民に対して責任を負うべき軍隊によるこの姑息、 国民をどれだけ愚弄すればすむのかと、あまりのことに失笑してしまいそうです。 この事実、今になってもそれだけの愚弄の力を残しているのです。
もちろん、その愚弄はヒロシマの被爆者に対する愚弄でもあります。 いや愚弄は被爆者に対して極まると言ってもいいように思います。 彼らは当時、そのことを思いを致す余裕がなかったのか。 ヒロシマの惨劇を、姑息にも、言い換えの報道規制で糊塗することができると考えていたのでしょうか。

2、8月ともなると戦争を振り返る新聞記事が増えます。今日(8月1日)の朝日朝刊にも、 「被爆直後 苦悩の10年」と題して、 「広島の被爆者71人の手記を集めた「『空白の十年』被爆者の苦闘」という資料集が 出版された、という記事が載っています。 こういう記事を読むと、被爆者でもなく、身近に被爆者がいるわけでもない私が、原爆をテーマに脚本を 書くことの恐れで身もすくむ思いです。戦後64年を経てなお癒えないものがたしかにあるのです。 それは、事実として尊重したい。 しかし、また64年がたった、ということも現実。だからというわけでもないのですが、 原爆というものに対して、違う角度からの照射が なされてもいいのではないか、という気もするのです。

2009.8.1
石原吉郎

2009.7.24朝日新聞朝刊の一面に「シベリア抑留 カード名簿 ロシアに70万人分」 という記事が掲載されていました。
「第2次世界大戦後、シベリアなど旧ソ連に抑留された日本の軍人や軍属、民間人ら約70万人分を 記録した新資料が、モスクワのロシア国立軍事公文書館に保管されていることが確認された。」
「厚労省は、モンゴルを除くシベリア抑留者を約56万1千人、うち死亡者を約5万千人と推定。 新資料を通じて、埋葬地や死亡時期などがあらたに判明することが期待されている。」

シベリアに抑留された人々の中には、誰がどこで死亡したのか分からない場合がかなりの数にのぼっている ようなのです。
〈人間は決してあのように死んではならない〉
〈死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人間は死において、ひとりひとり その名を呼ばれなければならないものなのだ。〉
自身、シベリアに抑留されていた詩人・石原吉郎の言葉です。
最近、畑谷史代著「シベリア抑留とは何だったのか −詩人・石原吉郎のみちのり−」(岩波ジュニア新書) を読みました。たいへん考えさせられることが多かったので、紹介したいと思います。
著者も書いておられるように詩人・石原吉郎をご存じない方が多いかもしれません。
1960、70年代には、畏敬をもって読まれていた詩人だったのですが、何しろ詩が難解な こともあって現在はあまり読まれなくなったのでしょうか。
難解な詩は私も苦手で、比較的意味の分かりやすい詩を二つばかり引用してみます。
まずは、この本の最後の付録に添えられている三篇の詩の一つ

フェルナンデス

フェルナンデスと
呼ぶのはただしい
寺院の壁の しずかな
くぼみをそう名づけた
ひとりの男が壁にもたれ
あたたかなくぼみを
のこして去った
  (フェルナンデス)
しかられたこどもが
目を伏せてたつほどの
しずかなくぼみは
いまもそう呼ばれる
ある日やさしく壁にもたれ
男は口を 閉じて去った
  (フェルナンデス)
しかられたこどもよ
空をめぐり
墓標をめぐり終えたとき
私をそう呼べ
私はそこに立ったのだ

フェルナンデスというのは、寺院の壁のくぼみにもたれていた男の名前。
しかし、いまやそのくぼみ自体がフェルナンデス。そして、私もまた そのくぼみに立っていたゆえに、私が去ったあと、フェルナンデスと呼べというのです。
人と名前との結びつきの危うさ、たよりなさ。 しかし、それでもなお、名前を特定されることなく死んでいくむなしさ といったものが浮かび上がってきます。
石原吉郎は、1945年、「ハルビンの満州電電調査局」にいて、ソ連軍に連行され、 8年にわたりシベリアに抑留され、1953年に帰国といった経歴の持ち主です。
この詩にも、抑留体験が深く影響しています。
フェルナンデスという男が去って、彼がもたれていたくぼみがフェルナンデスと呼ばれるようになり、 そこに立った私もまた、もし消えることがあったら、フェルナンデスと呼んでくれというのです。 死と名前の関係がつきつめて捉えられています。本来の唯一の名前をもって悼まれなければならない死が、 ここでは亡くなった男からくぼみに引き継がれた名前でもって 「私」を呼んでくれ、というのです。何という皮肉な 考え方でしょうか。
この本の中で、抑留者の死について、石原は〈人間は決してあのように死んではならない〉ということを 繰り返し言っています。
〈死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人間は死において、ひとりひとり その名を呼ばれなければならないものなのだ。〉
一人の男から引き継がれた呼び名、くぼみそのものの名となったフェルナンデス、 そんな名前で呼ばれていいわけはないのです。

生まれて、名前を与えられ、その名前をもって生き、その名前をもって死を迎え、やがて名前は忘れられ、 ご先祖さまにまぎれていく、こういった生にともなう人間にとっての名前の意味というものは もっと考えられてもいいように思います。

名前をもって悼まれることのない死、そういった死をもたらす抑留生活はどんなものだったのでしょうか。
抑留者はつねに飢餓にさらされていました。
「兵士用の飯盒を所持していた人が少なく、食事は二人分が一つの飯盒で配られた。収容者は 二人ずつの〈食罐組〉を組み、一人が飯盒に入った食事を同じ大きさの空き缶二つに分ける。その間、 もう一人はまばたきもせ相手の手元をにらみつけている。豆が沈んだ薄いスープも、雑穀の三分がゆも、 完全に「公平」に分けなければならない。互いの生死がそれにかかっていた。
(食事を分け終わると、途端に食罐組は解消する。)
「もはやそこにあるのものは、相手にたいする完全な無関心であり、……私たちは 完全に相手を黙殺したまま、「一人だけの」食事を終るのである。」
このような状況下で、多くの仲間が飢餓のために死んでいきます。

石原吉郎は、しかし、自分の抑留体験を告発に使おうとは考えません。
そのあたりの機微を著者はつぎのように書いています。

「石原吉郎はエッセー「沈黙するための言葉」(一九七○年)に、
〈告発しないという決意によって私は文学にたどりつくことができたし、詩にたどりつくことができた〉 と書いた。その決意は、シベリア抑留から帰国後間もない時期に読んだ、V・E・フランクルの 『夜と霧』に拠る。ナチスのアウシュビッツ強制収容所から生還したフランクルが、〈告発しない〉 ことで、問題を〈政治的な次元〉から切り離し、収容体験を〈純粋に、人間的に〉見つめたことに 〈感動〉したと、石原は述べている(『一期一会の海』一九七八年)。」

石原吉郎は、告発はしなかったけれど、抑留体験に深くもぐっていきました。
そして、そこからつぎのような言葉が吐かれます。

「私にとって人間と自由とは、ただシベリアにしか存在しない」

「《人間》はつねに加害者の中から生まれる」という言葉もあります。。生きのびるためには人に 加害者であるしかない、という状況の中ではじめて、人間は生まれてくると言うのです。 石原には、その「《人間》の側に踏みとどまることができなかった自分自身への絶望」があり、 「人間存在への不信」があるようです。
また、「どんな状況でも、ものを言う自由も、考える自由もある。どんなに苦しいところにも人間の 自由はある」という認識もまたそこから生まれてきたにちがいありません。

そんな苛酷な状況を生きのびて、帰国したとき、日本社会はどんなふうに彼を迎えたのでしょうか。
それもまた大変興味深い問題ですが、詳しくは読んでいただくしかありません。

最後に、この本からではありませんが、石原吉郎の詩をもう一編引用します。

片側

ある事実のかたわらを
とおりすぎることは
そんなはずでは
ないようにたやすい
だが、その
熱い片側には
かがんで手を
ふれて行け
事実は不意に
かつねんごろに
熱い片側をもつ

シベリア抑留の体験のほんの一部しか、石原吉郎は書きませんでした。書けなかったのです。
われわれは、しかし、その事実が、「熱い片側をもつ」ことを知っておく必要があります。
そこに手を触れて行けと。しかし、その熱さにやけどすることだってあるかもしれません。
やけどをしてしまうのかもしれません。しかし、ふれなければ、熱いこともわからないのです。


2009.8.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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