2012年1月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

賀状の句

詩を読むたのしみ

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

ご意見、ご感想は 掲示板に、あるいは メールで。
「賢治先生がやってきた」には、 こちらからどうぞ


迎春
旧年中は「賢治先生がやってきた」をご愛顧いただきありがとうございました。
本年も相変わりませずよろしくお願いいたします。

自然が荒々しくなってきた感のある今日このごろ
平穏無事のありがたさが身に染みます。
今年が穏やかな年でありますように
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

今年ばかりは祈りもて聞く冬の波
              2012年 元旦

2012.1.1
賀状の句

去年今年(こぞことし)という季語が俳句にはあります。新年の季語で、 去年が去り、今年がやってくるといった時の過ぎ行きを表すことばです。
虚子

去年今年貫く棒の如きもの

という名句があります。
日本的な時間感覚でいうと、昨年が有象無象のできごととともに去り、 年があらたまって、新年がやってくるといったイメージがあります。 直線的な時間というよりも螺旋を描く時の流れです。
その螺旋の継ぎ目、年のあらたまる瞬間の時の過ぎ行きを強調したのが去年今年という季語のようです。

去年12月の「古墳群」句会、兼題の一つに「冬の波」がありました。

今年ばかりは祈りもて聞く冬の波

句会にだしたのがこの句です。未曾有の震災で記憶されるだろう2011年が去ってゆこうとしている今、 こういった句でこの年を詠みとどめたいと思ったのです。
で、賀状の句をどうするか。
上の句でゆきたいのですが、句会のあとで読み返してみると、 「今年ばかりは」というのは、字余りでもたついている感があります。
やはりこれでは拙劣にすぎるかと推敲する過程でいくつかの候補句が並びました。

去年今年祈りもて聞く冬の波

ここに去年今年が登場するわけです。 しかし、そうなると「去年今年」と「冬の波」という二つの季語が入ることになります。いわゆる季重なりです。

去年今年祈りもて聞くさざれ波

初発の句よりも、こちらの方が字数が合っていて、おさまりもいいようです。
しかし、だからといって、最初に浮かんだ句を捨てられるかというと、そうもいきません。 去年今年に置き換えたことにより、2011年が吹っ飛んでしまったような気がするのです。 この句、虚心に読めば、新年の祈りの句になってしまいそうです。 肝心の昨年の大震災の衝撃と悲しみがどこかにいってしまったようです。
やはり2011年をどうにかして詠みとどめたいという思いが勝って、 たとえあざとくて字余りでもたついているようでも、 「今年ばかりは」にしようと決めたのです。
そういった迷いをくぐり抜けたあげく、初発の形にもどり、それを年賀状にも添えることにしました。


2012.1.1
詩を読むたのしみ

当たり前のことですが、広場の植生が年々変化してゆくように、読書もまた年齢とともに移ろってゆくようです。
退職して四年、読書の傾向が、詩歌に傾きつつあります。
いまさら難解な詩はハナから敬遠です。私が好んで読むのはすっきりと意味のわかる詩です。
書棚には詩歌の本が増えつつあります。
詩には、もちろん俳句や短歌も含まれます。
この厳しい時節に何をふやけたことを言っているのかと叱られそうですが、 詩歌の持つ力を侮ってはいけないと思います。
私は、賢治の詩に救われた過去があるのです。
(たとえば、賢治の詩「永訣の朝」「オホーツク挽歌」「青森挽歌」等々)

「上り坂の儒家、下り坂の老荘」という言い方があるようですが、それに習えば 「上り坂の小説、下り坂の詩歌」と言ってもいいかもしれません。
人生の下り坂ともなると、様々な悲哀を経験することも多いはず。 また、思わず己を顧みざるをえないこともあるでしょう。 そんなとき、詩歌が役に立ちます。ちょっと探す努力さえすれば、 人生のどんな事例でも、それを詠んだ詩歌を見いだすことができすはずです。

詩句を探す楽しみ、というものもあります。 散文の中にも詩句は埋まっています。 心に響くことばであれば、それを詩句として切り取ればいいのです。
たとえば、歎異抄の一節に、こんな言葉があります。
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候らはず。」(歎異抄第五条)

親鸞の言葉です。父母の供養のために念仏したことはない、という激しいことばです。 私が一番苦しかったとき、この言葉を何度口ずさんだことか、 口ずさむことで親鸞さんをどれだけ身近に感じて、そのことに癒されたことか。

詩句を読むたのしみだけではなく、その応用編として詩句を組み合わせるたのしみもあります。
たとえば、上に引用した親鸞の詩句に、次の川柳を並べてみます。
昨年読んだ田辺聖子の「田辺写真館が見た”昭和”」に見つけたものです。

「昔とは父母のいませし頃を云い」(麻生路郎)

親鸞と麻生路郎、奇妙な取り合わせですが、これら二つの詩句は、程度の差こそあれ、 私を惹きつけたものです。 二つを並べてみると、麻生路郎は麻生路郎なりの、親鸞は親鸞なりの父母への向き合い方、 追慕の仕方が見えてきます。
かけ離れた詩句を二つならべるたのしみは、そんなところにもあるのですね。

詩句を二つ並べるというたのしみを拡張して、 自分に影響をもたらした詩句を全部集めたノートを作ろうと考えています。
もちろん手書きのノートです。そして、一頁に一句。
最初はハードルを高く設定して、自分が感動した詩句を書きためてゆく。 そして、書き加えるごとに、それまでに書いた詩句をもう一度読み返してみる。 これからの人生でどれだけの詩句を集めることができるか、考えると嬉しくなってしまいます。

ここまで書いてきて、ここに書き込む詩句、何も本からの引用でなくってもいいのではないか、 ということに思いあたったのです。 人がふともらしたことばでも、自分が感動したことばであれば、このノートに書き加えればいいのです。
そんなことを考えていると何だかたのしくなってきました。
これを今年の抱負とします。あかるい抱負でめでたしめでたしですが、 ところで、さて、そのノートの名前を何としましょうか……。
【追補】
ここからはたましいといったものに興味のある方のみお読みください。
伊東静雄宮沢賢治、この二人の詩句を並べることでたましいについて考える端緒を探ってみたいのです。
たましいというのは、この数年の私の拘りです。
こんなことを言い出すと、この文章自体が、あるいは「うずのしゅげ通信」までもが、 敬遠されそうですが、ちょっと待ってください。たましいについて考えたことがないという人は これまでの人生を平穏に生きてこられた幸せの証しです。しかし、世の中そんな人ばかりではない。
詩人の中にもたましいについて考えざるをえなかった人を何人も見つけることができます。
伊東静雄もその一人です。つぎの一節は、 彼の「わがひとに与ふる哀歌」の終章ちかくにある「鶯(一老人の詩)」からの引用です。
この詩は、

「(私の魂)といふことは言へない」

という一行からはじまり、最後のあたりにそのことばを受けて、

「しかも(私の魂)は記憶する」

という一行があります。つまりこの二行に挟む形で鶯にかかわる君との思い出が語られています。
伊東静雄にとってたましいというのは、 (私の魂)「といふことは言へない」もの、つまり(人の魂)とは言えるが、 (私の魂)とは言えないものだというのです。魂は常に他人のものなのだと。 しかし、(私の魂)は、「記憶する」ことができるものらしいのです。 その記憶したものは、他人のためのものなのです。
「鶯」の「しかも(私の魂)は記憶する」は、次のように結句します。

私はそれを君の老年のために
書きとめた


(私の魂)の記憶は、君のためのものなのです。

この詩と並べようとしているもう一つの詩句は、 賢治が妹とし子との別れを描いた「永訣の朝」からの引用です。

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
・・・・・・・・・・・・・・・
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまえはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから


「わたくしをいつしやうあかるくするために」という言葉が私を迷わせてきました。 死んでゆくとし子がいまわのきわに(あめゆじゅとてちてけんじゃ)と 「雪のひとわんを」頼んだことが、賢治を一生明るくするようなことなのでしょうか。 私は、永くそのことに引っかかっていたのです。
しかし、その疑問が、伊東静雄の詩と並べることによって、解けるように思うのです。 賢治はたましいということばを使っていませんが、そのことばを補うとつぎのようになります。

わたくし(の魂)をいつしやうあかるくするために
おまえはわたくしにたのんだのだ


たましいというのは、いったい何なのか? 私の考えはこうです。ある人を想ったとき、 「私の傍らに立ち現れてくるもの」、それをその人のたましいと呼びたいと思うのです。
ある人を想ったとき、私の傍らに立ち現れてくるものですから、それは、(私の魂)とは言えません。 ある人の魂です。私は、(私の魂)には言及できないのです。 しかし、(私の魂)はある人にかかわることがらを「記憶する」ことはできると、伊東静雄はいうのです。
魂は記憶することができるのですから、賢治の魂は、とし子から「雪のひとわんを」 頼まれたということを一生記憶してゆきます。そのことを賢治は、 「いつしやうあかるくする」と表現したのではないか、と思うのです。 たましいが記憶することなので、たましいは忘れずはずがありませんから、 「いつしやう」というふうな強いことばを遣ったのではないでしょうか。
その記憶によって魂があかるくなったがゆえに、 「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」という一歩を踏み出すことができるのです。
魂があかるくなったことによって、わずかですが喪失から立ち直る決意を見せているのです。

ここには、喪失体験にかかわる大切な機微が表現されているように思います。
昨年の震災でも多くの命が失われ、いまだに喪失の悲しみから立ち直れない人たちがおられます。 そこから一歩を踏み出すためには、その人にかかわる魂を明るくするような 記憶が必要なのだということではないでしょうか。 そんな記憶があれば、賢治のように「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」 と立ちあがることができるのだと。 これは、自分にも言い聞かせているのですが……。

こういうふうに伊東静雄と宮沢賢治という二人の詩人の詩を並べることで、 たましいの一つのありようが浮かび上がってきたように思うのですが、いかがでしょうか。

【資料】
(一老人の詩)
           伊東静雄
(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁(へり)に住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた
そして忘れ難いその美しい鳴き声で
私をもてなすのが常であつた
然し まもなく彼は医学枚に入るために
市(まち)に行き
山の家は見捨てられた
それからずつと――半世紀もの後に
私共は半白の人になつて
今は町医者の彼の診療所で
再会した
私はなほも覚えてゐた
あの鶯のことを彼に問うた
彼は微笑しながら
特別にはそれを思ひ出せないと答へた
それは多分
遠く消え去つた彼の幼時が
もつと多くの七面鳥や 蛇や 雀や
地虫や いろんな種類の家畜や
数へ切れない植物・気候のなかに
過ぎたからであつた
そしてあの鶯もまた
他のすべてと同じ程度に
多分 彼の日日であつたのだらう
しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために 書きとめた


永訣の朝
         宮沢賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛〔さうえん〕いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから

   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系〔にさうけい〕をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

延々ここまで読み進んで来られた方は、なぜ私がたましいのふしぎさにこだわっているのかを読み取って くださっていると思います。
じつは私の作品にたましいというものをテーマにした一風変わった脚本があるのです。 脚本とはいうものの、とても上演できるしろものでないことは承知しています。 読むための脚本と諦めていますが、 自分なりの思い入れを込めたものではあるのです。興味のあるかたは覗いて見てください。

二人の朗読劇「被災写真」
   被災の手記・朗読と一人芝居・ボランティア聞き語り


2012.1.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

「うずのしゅげ通信」にもどる

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

メニューにもどる