2014年1月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

教師としての漱石と賢治

原発は忍者屋敷!

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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「賢治先生がやってきた」には、 こちらからどうぞ



今年の年賀状です。

謹賀新年
旧年中は「うずのしゅげ通信」をご愛読いただき
ありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。
還暦を過ぎて五年、世間の雲行きが少々怪しいよ
うな気がしています。歴史は巡るものなのでしょ
うか。六十年ではなく、百年ぐらいの周期で。
それはそれとして、私は、第二の人生を楽しんで
おります。散歩も楽し、家庭菜園も楽し、俳句も
また楽し、……

 折り鶴をせがまれて、

折り鶴の折り目もたたず去年今年

            2014.1.1

2014.1.1
教師としての漱石と賢治

宮沢賢治につぎのような詩があるのはよく知られています。(「詩ノート」付録)

〈生徒諸君に寄せる〉
(断章一)
この四ヶ年が
    わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
    鳥のやうに教室でうたってくらした
誓って云ふが
    わたくしはこの仕事で
    疲れをおぼえたことはない

賢治が、教師を辞するにあたっての感慨をのべたものだと思われます。
彼の教師生活がどのようなものであったかは、詳しい証言が 佐藤成著「証言 宮澤賢治先生 −イーハトーブ農学校の1580日−」(農文協)に集められています。 それを読むかぎり、この詩は彼の真実の思いを吐露したものであることは明らかです。
賢治は、1921年(大正10年)11月に稗貫農学校(現花巻農業高等学校)の先生になっています。
そして、1926年(大正15年)3月末に辞めています。
妹のトシさんを失うという悲しいできごともありましたが、彼の四年半ばかりの教師生活は、 彼には楽しいものだったようです。

一方、夏目漱石もまた十年足らずですが、教師生活を経験しています。
漱石は、1895年(明治28年)松山中学の教師になっています。
そして、一年後の1896年(明治29年)には、熊本の第五高等学校の講師に転じ、7月には教授に 昇進します。
1900年(明治33年)にはイギリスに留学していますから、熊本での 教師生活は四年ほどです。
もっとも英国から帰国後数年は第一高等学校や東京帝大で教えていますし、 その後も明治大学の講師を兼任したり して、1907年朝日新聞に入社して職業作家になるまで教師を続けていたので、 合計すると九年ばかり教職にあったことになります。
その漱石にもまた自身の教師生活の感慨をしたためた手紙が残されています。
和辻哲郎に宛てた大正2年十月五日のものです。

「私は進んで人になついたり又人をなつけたりする性の人間ではないやうです。(中略)然し今の 私だつて冷淡な人間ではありません。あなたに冷淡に見えたのはあなたが私の方に積極的に 進んで来なかつたからであります。
私が高等学校にゐた時分は世間全体が癪に障ってたまりませんでした。その為にからだを滅茶苦茶に 破壊して仕舞ひました。だれからも好かれて貰ひたく思ひませんでした。私は高等学校で教へて ゐる間たゞの一時間も学生から敬愛を受けて然るべき教師の態度を有(も)つてゐたといふ自覚は ありませんでした。従つてあなたのやうな人が校内にゐやうとは何(ど)うしても思へなかつたのです。 けれどもあなたのいふ様に冷淡な人間では決してなかつたのです。冷淡な人間なら、 あゝ肝癪は起しません。
私は今道に入らうと心掛けてゐます。たとひ漠然たる言葉にせよ道に入らうと 心掛けるものは冷淡ではありません。冷淡で道に入れるものはありません。」

肝癪持ちを自認しているところなど、いかにも漱石らしさが見て取れます。
しかし、彼は、手紙にあるように決して冷淡な性格ではなかった。 癇癪は起こすし、生徒に歩み寄るようなこともしなかったけれど、生徒を拒否していたわけではないのです。 だから、もちろん教師として不向きであったわけではありません。
私の出会った教師の中にも、とくに大学で、こんな先生がたしかにおられたように思います。

上に見たように、賢治、漱石、二人とも一定期間教師をしていて、それを辞した時点で自分の 教師生活をふり返った感慨を残しているのです。かなり対照的な感慨を。
賢治は「わたくしは毎日を/鳥のやうに教室でうたってくらした」と書き、 一方で、漱石は、「たゞの一時間も学生から敬愛を受けて然るべき教師の態度を有(も)つてゐたといふ自覚は ありませんでした。」と断じているのです。

これらの文章からは、二人のまったく異なった教師生活が浮かび上がってきます。
生徒と向き合う姿勢がそもそも違っています。

私の教師生活は、最初高等学校からはじまり、途中から養護学校に転じて、そこで定年を迎えました。

高等学校には、漱石とまではいかなくても、授業をしっかりすることが基本 といったタイプの教師もおられました。
養護学校の教師に転じたとき、教科の指導だけで生徒に向き合う、 というだけではすまないことがすぐに分かりました。 教壇に立つと、自分がまるごと生徒の目にさらされているという感じに気おされました。
もっとも冷静に考えれば、高校でも同様の圧力はあったはずなのですが、 自分がさらされる比重がまったく違うのです。
最初に赴任したのがろう学校であったために余計そう感じたのかもしれません。 ろう学校では、教師の話を聞くということはつまり手話なり読唇のために教師を見つめる ということにほかならないからです。 授業時間中、ずっと見つめられているということは、かなり苦痛に近いものがありました。 最初は手話を覚えるのに一所懸命でそんなに窮屈さを感じていなかったのですが、慣れてくると かなりしんどいことだと感じるようになりました。そのしんどさの中に、自分自身をさらけ出すしんどさも ふくまれていたことが、今になって分かります。
養護学校に移ってからは、また様相が異なりました。教科を教える比率はますます小さくなっています。 知識そのものは何ものでもなく、生徒の生きる力を養うというのが本来の授業の目的なのです。 それだけにより強く生徒の視線に自分自身が曝されているという不安に苛まれました。 こんな自分が、えらそうに教師面をして教えていていいのか、教壇に立ってもいいのか、いや、 教室にいることが許されているのか、そんな思いが萌すこともたまにはあったのです。

そんな中で、養護学校の教師にもっとも向いているのはどんな人物だろうと考えるようになりました。 考えに考えたあげく、私の結論は、宮沢賢治しかいない、というところに落ち着いたのです。
このことについては、以前にも何度か「うずのしゅげ通信」に書いたことがあります。
そんなふうに思い定めてからは、様々な場面で賢治先生が登場することになりました。
授業のテキストにも賢治先生が登場して、生徒とコントを演じて、その日の単元の導入をしたりもしました。
文化祭で「賢治先生がやってきた」という劇を、生徒たちとともに上演したこともあります。

一方、夏目漱石は、どうでしょうか。
漱石もまた、ある意味ではおもしろい教師であるように思います。 ただ、彼が教えるのは、大学や予備校、あるいは高校であることは確かです。 彼の授業を受けて見たかったという思いはありますが、私の教師の理想とはちょっとちがう気がするのです。

賢治と漱石、これら二つの教師像を両極端に据えて、私が養護学校で感じていた引け目を分析すれば つぎのようになります。
自分を漱石や賢治に擬するわけではありませんが、私の中にも両者の要素が少しながらあって、 高校では漱石的要素で教師然としておられたのが、 そのままでは養護学校では通じなくて、賢治的要素を前面に立てなくては、教壇にも立てなくなったということでは ないでしょうか。
しかし、宮沢賢治の本を詠み込んで、ちょっとでも賢治先生に近づこうと努力したにもかかわらず、 賢治的要素をどれだけ身につけることができたのか、と自身を顧みるとなんとも心もとないところがあります。 それは、生徒に向き合うときの心苦しさは、退職するまで消えることがなかったということからあきらかです。 今にしてなお自分が養護学校の教師に向いていたのかどうかを顧みて、途方に暮れるときがあるのです。


2014.1.1
原発は忍者屋敷!

私は、定年までの十数年間、高等養護学校(現在の高等特別支援学校)で理科を教えていました。
そこで一番苦慮したことは、理科の分野で、目に見えないものをいかに教えるかということでした。
「適切な比喩」で教えるというしか方法がありませんでした。
高等養護学校の生徒は、ほとんどが卒業後すぐに社会に出て行きます。だから、彼らにとっては、大袈裟に言えば、 人生で最後の理科の授業 ということになります。卒業してからも、健康に、安全に、社会生活が送れるようにということで、 授業内容を精選していたのですが、これがなかなかにむずかしいことでした。

私は、すでに教職を退いているので、とやかく言う資格はないのですが、東日本大震災が起きた後、 高等養護学校の理科の授業内容に何が加わったのか、大変興味があるところです。 そのことについて、自分なりに、考えをめぐらしているときがあります。
地震については、阪神・淡路大震災を教材にして教えていました。津波は内容に含まれていませんでしたが、 付け加えなければならないでしょう。
しかし、津波のことはまだしも教えやすいはずです。発生のメカニズムも、被害も目に見えるものだからです。
もし私が現役だったら、一番苦慮するのが原発事故についてです。何を、どのように教えればいいか、 かなり悩むのではないかと想像しています。
原発の仕組みもむずかしいし、放射線やその危険性を教えるのはさらにむずかしい。どちらも本質的に 目に見えないものを教えなければならないからです。
それに、いまだに原発から排出されている放射性物質の危害をどう伝えればいいのでしょうか。 また、彼らに、食品の危険性、安全性ということをどう指導すれば分かってもらえるのか、 むずかしいことばかりです。
そんなことを漫然と考えていて、最近、ふと一つの比喩を思いついたのです。
私は、授業のはじめに、その日の教材への導入を兼ねて、賢治先生が登場する短いコントを 生徒に演じてもらう(読み合わせをする)ことがよくありました。
放射能について、そんなコントを一つ思いついたのです。コントというより落語、また、 導入というには少し長めになってしまいました。
登場人物は二人、上方落語でおなじみのご隠居喜六と言いたいところですが、今回は 賢治先生のご隠居喜六の子ども時代の喜ぃ坊ということにしました。


   小咄「原発は忍者屋敷!」
       −放射能って何ですねん?−

喜ぃ坊 「賢治先生、いてはりますか?」
賢治先生 「あー、喜ぃ坊やなないか、まあ、入って、しばらくぶりやな。どうしたんや?」
喜ぃ坊 「お父ちゃんがね、賢治先生は何でも知ったはるちゅうさかい、 ちょっと教えてもらお思うて来ました……」
賢治先生 「そりゃまたよう来てくれた、まあ、どんなことでも分かるいうわけやないが、 知ってることやったら、なんでも教えさしてもらうけどな……。」
喜ぃ坊 「ちょっとむずかしいんですわ。……」
賢治先生 「それやったら、わからんかもしれんけど、まあ言うてみたらええがな。」
喜ぃ坊 「ほんなら言わしてもらいますけど、 この前の大地震のとき、福島の原子力発電所が爆発したんですやろ。」
賢治先生 「ああ、爆発してたいへんやったな。テレビで水をかけてる様子をやってたが、 お前さんは見てたかいな?」
喜ぃ坊 「自衛隊のヘリコプターとか、首のながーい消防車みたいなやつで水飛ばして……、 見てたけど何がどうなってるのやら、さっぱりわかりません。放射能たらちゅうもんも、怖い怖いて言わはるけど、 どんだけ怖いんか、そこらあたりを教えてほしいな思うて来たんですけど……」
賢治先生 「ほー、これはまあなかなかにむずかしい話やな。どう言うたらええんか……」
喜ぃ坊 「ボクにも分かるように、やさしゅう説明したってください。」
賢治先生 「そうやな。やさしゅうな。……まず、原子力発電所が難物やな。」
喜ぃ坊 「電気を作るところでっしゃろ。」
賢治先生 「まあ、かんたんに言うたらそうやな。」
喜ぃ坊 「どないして電気を作るんかはわからんけども、電気を作ってるちゅうことはわかります。」
賢治先生 「かんたんに言うたら、原子力で湯う沸かして電気をつくってる。 ヤカンで湯う沸かしたら湯気がシューとでてくるやろ。 その力で大きな羽をまわして、自転車の発電みたいにして電気を作ってるんやな。」
喜ぃ坊 「そうなんや、湯気で自転車のタイヤを回して電気を起こすんですな。…… ということは、何ていうんか、部屋の中で自転車こいでるあれと同じでんな。」
賢治先生 「ああ、やせるための自転車な、まあまあ、そういうことやな。」
喜ぃ坊 「原子力が自転車こいで電気を起こしとる、それは分かりましたけど、賢治先生、 放射能ちゅうやつが分かりませんねん。 原発で仕事してはる人のあのカッコウは何ですか、白いペラペラの服とか、マスクとか? それに 何を食べたらあかんやら、原発の近くには住まれへんやら、……、みんなあの放射能とかいうもんのせいらしいけど、 あれはいったい何ですねん?」
賢治先生 「放射能な、これはなかなかむずかしいな。……まあ、こう考えようか?」
喜ぃ坊 「そうしまひょか……。」
賢治先生 「まだ、何にも言うてへんがな。……原発の建物な、 あれが仮にやで、仮に忍者屋敷やったと考えてみる。」
喜ぃ坊 「ええっ、忍者屋敷ですか? あの四角い建家がねぇ、 ちょっとかけ離れすぎてて、なかなかむずかしいですね。」
賢治先生 「それを承知してくれたら、話が進めやすいのでな、ムリムリにでも……」
喜ぃ坊 「ちょっと待ってください、うーんときばったら、 セメントの壁に隠し扉が見えてきたような……」
賢治先生 「そうかそうか。意外と思うかもしれんが、もともと似ているもんじゃからな。 敵から攻められたときに防げるように造ってある。 扉は今風の隠し扉、中は思わぬところに梯子や窓があって、 通路はパイプの迷路で当たり曲がりになっておるな。」
喜ぃ坊 「当て曲げて何なんですか?」
賢治先生 「突き当たる、曲がる、当たる、曲がる、道がそんなふうに迷路になっとるな。」
喜ぃ坊 「へー、原発の中はそんなもんですか……、賢治先生にそんなふうに言われると、 だんだんその気になってきました。 分かりました。原発は忍者屋敷ということにします。中で湯ぅが沸いてて、自転車こいでるんでしょう。 それでどうなるんですか?」
賢治先生 「忍者屋敷というからには、忍者がいっぱいおって、手裏剣もいっぱいあるな。」
喜ぃ坊 「そりゃ、あたりまえやわ。忍者屋敷やったら、忍者もおるし、 手裏剣もいっぱいたくわえとるで。」
賢治先生 「屋敷の中で手裏剣の稽古をしとるけども、屋敷の壁が頑丈やから、 手裏剣が外に飛んで出るというような不始末はないわな。」
喜ぃ坊 「ほんまにそうですわ。忍者屋敷の外歩いてたら、 突然手裏剣が飛んできたらびっくりしますもんな。」
賢治先生 「まあ、めったにそんなことはない。……ところが、 今回の地震で屋敷が爆発してしもうたからな。……」
喜ぃ坊 「手裏剣が飛び出てきたんですか?」
賢治先生 「そうや。手裏剣も飛び出てくるし、 中に閉じこめられとった悪い忍者が外に出てきよったな。」
喜ぃ坊 「悪い忍者??? それはどんなやつですか?」
賢治先生 「たとえばやで、名前を毒の雲えもんという。」
喜ぃ坊 「毒の雲えもん、いかにも悪そうな名前ですね。」
賢治先生 「壊れた建物から雲みたいにモクモクと立ちのぼりよる。」
喜ぃ坊 「雲みたいて、……煙みたいちゅうことですか?」
賢治先生 「そうや、煙みたいにや。それからな、この雲えもんは手裏剣の使い手でな、 手裏剣を四方八方に飛ばしよる。手裏剣知ってるわな。」
喜ぃ坊 「ばかにせんといてや、手裏剣ぐらい、知ってますようだ。 忍たま乱太郎に出てくる星みたいなかたちしたやつですやろ。あの乱太郎は、ボクの愛読書ですねん。」
賢治先生 「忍たま乱太郎が愛読書かいな、まあ、ええけどな。その手裏剣ちゅうのは、 薄うて透きとおっとって、ものすごいはやさで飛んできよるさかい、 目に見えへん。見えへんけどもピューと飛んできて、スーっと体を通り抜けてゆきよるんや。」
喜ぃ坊 「痛うないんやろか?」
賢治先生 「いや、それが痛うも痒うもない、ないけどスーと通り抜けよるときに 体の中を傷つけていきよる。」
喜ぃ坊 「おっそろしい手裏剣ですね。それで血ぃ出るんやろか?」
賢治先生 「それそれ、体の中で血が出ることもあるな。…… それであんまりたくさんの手裏剣がいっぺんに 体をつらぬいていきよると、内臓がグサグサになって、死んでしまうこともある。」
喜ぃ坊 「怖いもんですね、その見えへん手裏剣いうやつは……」
賢治先生 「そうや、見えへんだけに、よけい怖い。……この手裏剣のことを放射線言うとるんやな。」
喜ぃ坊 「放射線ですか、やっと出てきましたね、放射線、これがよう分からんかったんやけど、 手裏剣やったんですね。それやったら、毒の雲えもんは、 手裏剣を飛ばす前に、『オレのほうしゃせん手裏剣を受けてみよ』って言うんやろうか?」
賢治先生 「雲えもんは、いんけんなやつやからな、だまって手裏剣で攻撃してきよるんや。」
喜ぃ坊 「だまって、こういうふうにサッサッサッとですか? (と、左掌の手裏剣を右手で連続して放つしぐさをする) 雲えもん、卑怯なりー。」
賢治先生 「毒の水べえというヤツもいる。これは建物に水をかけたやろう、 あの水に混じって出て来よるんや。」
喜ぃ坊 「やっぱりいんけんに手裏剣を飛ばしよるんかな?」
賢治先生 「そうやな。それで、いま原発で働いてる人は苦労してはるな。その他にもな、 原発が爆発したとき手裏剣使いの悪い忍者がいっぱい外に出てきたからたいへんなんじゃ。 世の中を恨んどるウランちゅうくノ一もいるし、手裏剣の使い方を、一子相伝、親から 伝えられとるセシウムちゅう忍者とか、 外人のプロレスラーみたいに強いストロングちゅう忍者とか、いろいろいとるんや。」
喜ぃ坊 「いやあ、ようわかりました。せやけど、まさか放射線が手裏剣やとは思わんかった。」
賢治先生 「飛んでくる手裏剣も怖いが、小さい忍者を息といっしょに吸い込んだり、 食べ物といっしょに食べたりしたら、体の中で手裏剣を飛ばしよるから、これは気をつけんといかん。」
喜ぃ坊 「そんなん危のうてやってられませんね。」
賢治先生 「せやから食べもんに気ぃ付けたり、マスクせんなあかんねん。」
喜ぃ坊 「体に入ったら怖いいうの、なるほど思いました。」
賢治先生 「もう一つ言うとくと、この手裏剣使いの忍者は、やっかいなことにどないやっても消せへんのや。 百万年も生き延びるというやつもいとって、それでみんなもてあましとる。 どないしても消せんとなったら、こりゃーやっかいやわな。」
喜ぃ坊 「百万年も生きるんですか? そりゃたいへんや。付き合いきれんわ。」
賢治先生 「そんなヤツ、誰も付き合いきれるものはおらん。」
喜ぃ坊 「そうですよね。だれがそんなことを言うてるんですか?」
賢治先生 「何ちゅう名前やったかな……目だまがクリクリでほっぺたがプルプルの子どもの忍者や。」
喜ぃ坊 「ああ、分かりました。その百万年いうのは大うそですわ。 まあ十万年くらいは生きるかもわからんけど、……」
賢治先生 「何でそんなことが分かる?」
喜ぃ坊 「目だまクリクリの忍者は、はったりくんに決まっております。チャンチャンと……。」
賢治先生 「忍者はったりくんか、あっはっは、うまいこと落としよったな。……」
喜ぃ坊 「オチが決まったところで、お後がよろしいようでと言うてさがるんやろ。賢治先生、 だいたい分かりましたさかいに、これで帰らしてもらいます。」
賢治先生 「そうか、帰るか。……まあ、私は、年中暇じゃからな、なんぞ分からんことあったら、 またいつでもお出で。」
喜ぃ坊 「おおきに、賢治先生、おおきに、ほなさいならー。」
                              【完】

【補注1】授業の前置きとしてはちょっと長すぎる小咄ですが、放射能の危険性は分かってもらえるのではないかと思います。
ご意見、ご感想をお寄せいただければ幸いです。
【補注2】上の小咄と内容は同じですが、喜六、ご隠居が登場する小咄「原発は忍者屋敷!」は、 下の入口からどうぞ。

落語小咄「原発は忍者屋敷!」
−放射能って何ですねん?−



2014.1.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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