2014年5月号
【近つ飛鳥博物館、河南町、太子町百景】
今月の特集

短い劇

忖度社会

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー
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「賢治先生がやってきた」には、 こちらからどうぞ


2014.5.1
短い劇

学校劇の上演時間を短く切り詰めていって、どのくらいまで学校劇の体を保つことが可能だろうか、 という疑問がありました。
短くても学校劇と言うからには、それだけの品格と、それに何らかのメッセージを持っていなくては 意味がありません。どたばたコントの独りよがりで終わった、というのでは 学校劇とは言えないのではないでしょうか。
どうしてそんな疑問が浮かんだかというと、最近学校では、教科の時間確保のために行事が削減されたりしている、ということを耳にしたからです。 私のところに来る上演依頼にも、15分とか20分という時間制限があるので、 短くすることを了解してほしいと書き添えられていたりするのです。 そういうこともあって、「賢治先生がやってきた」や「ぼくたちはざしきぼっこ」は 短縮版も公開しています。
もともとこれらの脚本は、私が高等養護学校にいたときに、文化祭で上演するために 書き下ろしたものなのです。そのころは、一学年(生徒50人程度)に50分ほどの時間が与えられて いたので、かなりの内容を盛り込むことができました。いまから振り返れば、めぐまれた時代だったと 思います。それだけの時間と規模があってはじめて与えられる感動というものもあるのではないでしょうか。 それを15分に削れば、感動もまた中途半端なものにならざるをえません。
それならいっそ最初から極端に短い脚本を書いたらどうか、と考えたのです。 切り貼りして感興が殺がれるくらいなら、はじめから短い脚本にすれば削られることもないわけです。
私が想定したのは、小学校の高学年で、生徒数は40人以内、全員に最低一言の台詞があり、 10分程度の劇という大枠です。しかし、これはなかなか厳しい枠組みです。
これらの条件を満たして、観客に何らかのメッセージを伝えたい、感動を与えたいというのは、 いささか欲張りすぎのような気もします。
そんな思いを込めて書き上げたのが、次の脚本です。
やりようによっては、10分から15分ぐらいで上演することができるはずです。
生徒の台詞は、一部を除いて、生徒たち自身に考えさせるというやりかたもあります。
大道具、小道具の準備もそんなにかからないはずです。
無責任な言い方になるかもしれませんが、作者としては、 この短い劇が、ほんとうに何らかのメッセージを伝ええるか、少しでも感動を与えられるかは 演出しだいだろうと考えています。
多少なりとも興味をそそられた先生、あるいは生徒さん、一度上演に挑戦してみてください。 観客の中に少しでも感動の雰囲気が醸成されるよう ならそれは演出の力、作者としてはひそかに拍手を贈りたいと思います。
脚本への入口はこちら。

短い劇「賢治花壇」
クラスみんなで演じる10分の劇



2014.5.1
忖度社会

NPO法人ネットワーク『地球村』代表の高木善之さんから著書「大震災と原発事故の真相」 (『地球村』出版)をいただきました。
『地球村』の講演会などで脱原発を訴えるための小冊子ですが、 震災当時、福島第一原発で何が起こったのか、というところからはじめて、脱原発の必然性とその 道筋がわかりやすく解説されています。
私がもらったのは、2012.11.1発行の(大幅改訂版)ですが、読んで二つの感想をもちました。
一つは、もう一度改訂して、放射能のがんリスクをわかりやすく解説すれば、もっと利用価値が増すのでは ないかということです。
しかし、これは諸説があって、たいへん難しいことのようです。広島、長崎の被爆調査があり、また、 チェルノブイリの事故があって、 放射線の影響が調べられてきたにもかかわらず、いまだにその危険性の詳細については、わからないことが 多すぎる。放射能というものはそういうものだということなのでしょうか。 特に「低線量放射線被曝」についてはそういった傾向が顕著な気がします。
この解説は、いろんな意味でなかなかにむずかしいと思います。

もう一つの感想は、先日のNHKニュースで報じられていた、自治体調査にかかわってのことです。
護憲や脱原発など世論を二分しているテーマにかかわる行事について、自治体が政治的な中立性を 守るという建前から、後援を中止したり、内容の変更を迫ったりする事例が増えている、というのです。 NHKが調査をした結果、そんなことがいくつもあったということが報じられていました。
そのことが頭にあって、脱原発を標榜している「地球村」の集会で、これまで そういった事例はないのだろうか、とふとそんな思いにとらわれたのです。
というのは、NHKの調査もその現れの一つですが、最近、 世の中が急速に「忖度社会」に傾きつつあるのではないか、という危惧を持っているからです。
忖度(そんたく)というのは、「人の思いを推し量る」ということですが、 それが普通の配慮を超えて、必要以上におもんばかる傾向が 見られるように思うのです。
「忖度社会」というのをインターネットで検索して、山口二郎さんのブログにつぎのような 的確な解説を見つけました。

「佐藤優氏の言葉を借りれば、日本は相互忖度社会である。権力者が具体的に指示を出すのではなく、 下僚が権力者の意図を慮り、『自発的』に行動する。検察官や裁判官のように絶対的権力を持って いるはずの官吏も、『世論』という上位の権力を忖度して自らの行動を決める。」

まったく、そのとおり。今の世の中、目に見えない権力のご威光だけではなく、 山口さんの解説にあるように、近ごろとみに「世論」が「上位の権力」として急浮上しつつある、 そんな気がします。
その結果、いろんな不都合がおこっているようです。たとえば、東京新聞の記事(2013年11月27日)に 寄れば、東京都美術館で、「世論」をおもんばかった主催者から、 展示作品が撤去を迫られたというのです。中垣克久さんの「時代の 肖像」という作品です。それが、 「特定秘密保護法の新聞の切り抜きや、 『憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止』などと書いた紙を貼り付けた」 ものであったために、政治的という理由によって、美術館側から撤去や手直しを 求められたというのです。
護憲の集会も、これに類する施設側の忖度によって、内容の変更を迫られたりといったことが あると報じられたりしています。
この調子で忖度社会が蔓延してゆけば、恐ろしいことになるかもしれません。
「地球村」の講演会ではそのようなことはないのでしょうか。非対立を標榜している「地球村」は、 そのあたりのことをどう考えておられるのか、知りたいものです。
この忖度社会が迫りつつある現実は、まさに他人事ではありません。
学校劇の上演においてもそのような忖度がなされるとすれば、憂慮すべき事態です。
私としては、憲法で保障されている表現の自由が守られている社会、自由に発表ができて、その上で 自由に論ずることができる世の中の方がよほどいい社会と考えるのですが、どうでしょうか。
学校劇においてはそういった忖度などまったく関係ないことなのでしょうか。

【追補】

例によって、「古墳群」4月句会の拙句です。

春暁や影添ふまでのうすあかり
遺骨未だよう納めずに竹の秋
虻の羽音けうとき浄土の日永かな
余念なき幼(おさな)の喃語桃の花
第二芸術論と言ういけず春愁い
古写真に人古りたれど初(うい)牡丹
なごり花西行恋ふる歌碑十余


二句目、「竹の秋」というのは、春、竹の葉が黄ばむことを言います。

遺骨未だよう納めずに竹の秋

自分の気持に添うように、「よう〜」という関西方言を遣ってみました。

第二芸術論と言ういけず春愁い

ひどい乱調ですが、先月号の「うずのしゅげ通信」で第二芸術論に触れたとき、ふと浮かんだ句です。

なごり花西行恋ふる歌碑十余

先月の五日、西行終焉の寺として名高い弘川寺に、桜祭りのお手伝いに行ったときに、詠んだ句です。 「十余」は「じゅうよ」。「とまり」とも。

自分の気持に添う句をいくつか詠めたというのが今月の収穫でしょうか。


2014.5.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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