「うずのしゅげ通信」
2015年2月号
【近つ飛鳥博物館、河南町、太子町百景】
今月の特集
漫才リレーによる落語劇「地獄借景」(脚色版)
俳句と「ボケとツッコミ」
俳句
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2015.2.1
漫才リレーによる落語劇「地獄借景」(脚色版)
落語劇「地獄借景」(脚色版)を上演しやすいように改訂しました。
もともとこの脚本は、私の落語台本「地獄借景」をもとにしています。
その「地獄借景」はまた桂米朝師匠等の演じておられる
落語の「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」のパロディになっています。
「ややこしや、ややこしや。」といったところです。
落語台本「地獄借景」の筋は、原発の高レベル放射性廃棄物の最終処分場を日本国内では
造ることができなくて、しかたなく地獄に建造するというものです。
放射性廃棄物を地獄まで運ぶのは死者の役目です。日本人が亡くなったとき、
それまでの六文銭のかわりに放射能のゴミを固めた
サイコロ一つを託するということが法律で決められます。
上方落語でおなじみの喜六、清八の二人、故あって相次いで死んでしまいます。
二人はそれぞれサイコロを持参していますが、三途の川の渡し守は、それでは渡せないと
突っぱねます。交渉のあげく、そのサイコロで丁半賭博をして,勝ったら渡してやろうということに
なります。二人はサイコロの癖を利用して、賭博に勝って、三途の川を渡してもらいます。
向こう岸に着くと、閻魔の庁まではあと少しです。彼らは、閻魔の庁で、託されたサイコロを
リサイクルボックスに投げ込み、閻魔の裁きに臨みます。「地獄八景亡者戯」にあるように、
その日は、先代閻魔の一千年忌に当たるために、他の亡者は、「格別の憐憫を持ってみな極楽へ通してつかわす」というお裁きが下るのですが、喜六、清八の二人は、昔の罪を問われ、閻魔さまから
地獄行きをおおせつかり、最終処分場勤務にまわされます。
そこからどうなるのかは、落語、あるいは脚本を読んでいただけたらと思います。
そこで今回の脚本の話になるのですが、そもそも落語が最初ですから、大半が喜六清八の会話
が続く構造になっています。それをどのように劇化するかというところに難しさがありました。
最初の脚色版は、落語の会話をそのまま劇の登場人物の会話に移し変える形で
脚色したのです。しかし、延々と会話が続く劇は観ていて退屈です。といって、
喜六清八のやり取りを大幅に書き換えると、落語のおもしろさも消えてしまいます。
そこのジレンマを克服する方法を思いつかなかったので、そのままで
ラインナップに加えて、放ってありました。
ところが、今回、ふとした奇策を思いついたのです。そのやりかたで演じると、
もう少し上演しやすい形になるかもしれない、ということで
再度脚色にチャレンジすることにしました。
その奇策というのは、五場からなっている場面のやり取りを、漫才コンビ(あるいは漫才トリオ)
が漫才を演じているという形にして漫才リレーで場面を繋いでみようというのです。
つまり、一つの場面では、ある漫才コンビが登場して、
彼らの会話でその場面が進行してゆくのです。次の場面になると、次の漫才コンビが登場して
しゃべりはじめる、といったふうにして、劇が進行してゆきます。
もちろん、他にも登場人物がいて、漫才師は彼らと関わりながら会話劇を演じるのです。
そんなふうにすると少数の役に過重な負担がかかることもなく、この会話の多い劇を、楽しく
演じ切ることができそうです。
観客も、つぎつぎに登場する漫才コンビを楽しんでいるうちに劇が進行するというふうで、
変化があるだけに、会話の多さが劇のじゃまをするということもないように思います。
まあ、実際に上演するとなると、さらに工夫が必要かもしれませんが、
お暇なときにでも、一度読んでいただいて、ご意見をお聞かせください。
漫才リレーによる落語劇「地獄借景」(脚色版)
−原発のゴミ処分場を地獄に?−
2015.2.1
俳句と「ボケとツッコミ」
ぼくが、俳句を作るときのやり方を紹介したいと思います。
俳句をはじめてまだ五年ほどなので、偉そうに人に紹介できるほどのものでないのは
分かっているのですが、自己点検のためだとご容赦ください。
ツッコミのハードル越えて初句かな
説明のとっかかりのために、この俳句を作りました。まず最初に、
この意味を説明させてもらいます。
孫引きですが、山本健吉氏の著書に「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」
という一節があるそうです。
私が注目するのは、この中の「俳句は挨拶なり」というところです。
句会にでかけていって、挨拶の発句をつくる、それに対して主人が脇句をつける、というところから、
はじまっているからだそうです。(日本俳句協会のホームページより)
もう一つ挨拶について。
私は関西人なので、吉本新喜劇が好きなのです。
新喜劇では、座員の持ちネタに登場ギャグというのがあります。
井上竜夫の竜じいは登場すると「おじゃましまんにゃわ」とまず挨拶でボケます。
このボケに対して、そこにいた人たちがズッコケます。
内場勝則さんが、立ち上がりながら、「けったいな挨拶、やめといてや」とつっこんで、
笑いがはじけて、それで竜じいの登場儀式が一段落します。
これが、吉本新喜劇のボケとツッコミです。
つっこむことで、ボケに引きずり込まれそうな場面を常識の地平に戻しているのだと
私は考えています。常識の地平に戻ったところで一段落して、
さてまた次のギャグに移っていくのです。
吉本新喜劇は、そのようなボケで落としてツッコミで戻すという構造の繰り返しで
出来ています。漫才と同じ構造です。
(突っ込まないで戻さなかったらどうなるか、という話は、下の追補にあります)
ここからが俳句の話になります。
私は俳句を作るとき、このボケとツッコミの自問自答を行います。
俳句を作るというのは、ある意味でボケることではないかと考えています。
その理由を説明します。
俳句を作るということは、常識表現を避けて、わけの分からない、
海のものとも山のものとも知れないあたらしい見立てを提示することです。常識人から見れば、
言葉でボケているとしか見えないのです。
まさに竜じいのように挨拶でボケるわけです。言葉でボケるというと分かりにくいかもしれませんが、
常識的な言葉の使い方ではない、あたらしい詩的表現は、常識人には分かりにくくて、
まさにボケているに等しいことではないでしょうか。
俳句という詩的言葉でボケたわけですから、それに対して、
内場勝則さんのように「けったいな挨拶、やめといてや」と、つっこまなければなりません。
作句の場面ではだれもつっこんでくれませんから、自分でつっこむわけです。
つっこまないとボケは、そのまま常識の評価を受けることなく、
認知されてしまいます。これではいい俳句は生まれないと思います。
「けったいな俳句、やめといてや」と自分でつっこんで、
句想を常識の目にさらすことで取捨選択をするのです。
頭を冷やして、捨てるべきものは捨てて、なお残るものは推敲を続けます。
そんなふうにして、俳句を作っているのです。
俳句を読むときも同じです。
「なんや、このけったいな俳句は、やめといてや」ということで、その俳句を
退けます。つまり「頂戴しない」ことになるわけです。
俳句を詠むときのボケとツッコミについて説明しましたが、分かってもらえたでしょうか。
【追補】
「吉本新喜劇と松竹新喜劇」
私は大阪人なのでボケとツッコミは生活に中に溶け込んでいます。
高等養護学校の教師をしていたときも、そうでした。
生徒がボケたら突っ込んでやらなくてはなりません。
ずっと以前にこの「うずのしゅげ通信」のも書いたことがありますが、
生徒もボケとツッコミというものを、それなりに理解していました。
ということで、ここでは、ボケとツッコミについてもう少し考えを深めてみたいと思います。
上でも言いましたが、私は吉本新喜劇のファンです。ほとんど毎週楽しんでいます。
多くの方はお分かりだと思いますが、吉本新喜劇というは、まさに偉大なるマンネリそのものです。
出てくる俳優の登場の仕方も、台詞もマンネリなら、筋もほぼマンネリです。
それでも楽しんで観ることができるのです。
では、吉本新喜劇において、ボケとツッコミはどのような働きをしているのでしょうか。
上と同じ例からはじめます。
竜じいこと井上竜夫さんが舞台下手から現れます。
「おじゃましまんねやわ」
それでみんながずっこけます。
内場勝則さんが、起き上がりながら「けったいな挨拶、やめといてや」と言います。
「おじゃましまんねやわ」がボケ、「けったいな挨拶、やめといてや」がツッコミです。
吉本新喜劇では、ボケるとかならずツッコミが入ります。
上で述べたように、ツッコミによって常識の地平に引き戻しているように見えます。
ボケる、ツッコミが入って常識の地平に戻す。またボケる、ツッコミが入って
常識の地平に引き戻す。つまりイメージで言えば、落ちて突っ込む、落ちて突っ込む、
という繰り返しで、ノコギリのようにギザギザの線を描いています。
これが吉本新喜劇の構造のように思います。
もし、つっこまなかったらどうなるか。私は、「ぼくたちはざしきぼっこ」という劇で、
そういうやり方をしましたが、それでも結構面白い新喜劇まがいの劇ができたのです。
(当時は、ボケとツッコミについての認識が十分ではなくて、
一々にツッコミを入れる必要があるとは思わなかったのです。)
しかし、それでは吉本新喜劇ではないのです。
井上さが、「おじゃましなんねやわ」とボケてずっこけたとき、ツッコミがなくそのままで、
つぎに若井みどりさんが登場して出のギャグ「おじゃまぱじゃま」とボケたらどうなるか。
常識の基準レベルにもどらないままに次のボケが入ったので、基準からずれて、
折れ線でどんどんボケがつながって落ちていきます。これは下降の折れ線グラフのようなものです。
二人のボケは舞台の上で認知されてしまい、観客には、なるほどこの新喜劇の世界は
ボケの許される世界なのかと思われてしまいます。
これでは、新喜劇の物語展開がどこにゆくのか分からなくなってしまいます。安心できなくなります。
やはり、ボケの一々にたいして、ツッコミで基準線にもどす必要があるのです。
そのあたりに、安心して観ることができるマンネリの秘密がありそうです。
一々常識の地平までもどっているので、個人的な
マンネリのボケも、筋のボケも、どのようにでもつなぐことが出来るのです。
ついでに言及すると、そういった方法の吉本新喜劇に対して、藤山寛美さんの松竹新喜劇は、
一々の突っ込みはなかったように思います。だから、筋がどんどん展開してゆきます。
喜劇的な劇世界ができてくるのです。これは、一般の劇と近いものだと言えそうです。
もちろん漫才も、吉本新喜劇と同じ構造です。
普通の漫才は、一々常識の基準に引き戻して会話が進んでいきます。中には、物語のように
展開する漫才もありますが、それは主流ではないように思います。
それに対して大方の落語は、一々突っ込みが入らないまま筋が展開してゆき、
物語世界ができあがります。つまり、落語は、松竹新喜劇に近い、あるいは
一般の劇に近い構造を持っています。もっとも、松竹新喜劇においても、
全体の構成は常識の範囲に納まってはいるのですが。
そういうことになると、漫才リレーによる落語劇「地獄借景」(脚色版)は、
もともとが落語であったものを、
脚色して、漫才リレーという形に仕上げたわけですから、折れ線グラフをノコギリのギザギザで
つないだようなもので、かなりムリがあるように思います。はたして、ほんとうに上演可能かのか
どうか。
2015.2.1
俳句
正月の句を最初に掲げます。
門前のまずは夜声(よごえ)に去年今年(こぞことし)
道を急(せ)く夜声の張りや去年今年
ごんぼうのよろしきをえて去年今年
元日や栗の渋煮のほろほろと
初詣妻ふる鈴の高音(たかね)かな
つぎに一月句会の拙句です。
読初めや句註は眼鏡のレンズにて
山の端の寒禽こずゑの一つ影
刃もの研ぎ悴(かじか)みし手に鉄匂ふ
綾取りや数珠の手遊(すさ)び一睨み
雑詠
(フェイスブックに投稿した句等)
新聞を替へて冬至の朝の二紙
王陵の谷に冬至の山の影
大審問官虚子の諷詠月冴ゆる
(神戸淡路大震災の日に)
道路の供花(くげ)今朝も新し震災忌
寒晴れや庇の雫垂れやまず
厳寒に木霊を返す大伽藍
大寒や妻のピアノを孫に遣る
遺影移せば不意のまなざし冬灯
一つ世の負い目おぐらき寒の雨
寒の香煙ショートケーキを離し置く
山焼きや古書全集の持ち重り
耳鳴りの止まず不逞の寒烏
木の虚(うろ)に蟻をほじくる寒旱(ひでり)
寒雀枯生(かれふ)より飛び追ふて飛び
冬の川に光の川も蛇行せり
(近つ飛鳥博物館で銅鐸を撞いて)
銅鐸の響き聞こゆる寒の月
最近は、目の関係で、俳句を読むことが多く、自然句作も増えています。納得のいく句は
なかなかできませんが。
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