†オリジナル少女小説†


【陽菜子さんの容易なる越境】/2

  ◇

「それはクワドラントの壁だよ」
 翌日の学校で、兄さんに対してもやもやとした気持ちを抱いているという話を陽菜子さんに吐露したキコは、陽菜子さんからそんな回答を得た。とりあえず、ここでは陽菜子さんに対しても同じような気持ちを抱き始めていることは本人の前で伏せたままだけど。
「クワドラント?」
 属性として英語よりもまずは日本語といった趣のキコは、聞き慣れない横文字の単語を尋ね返した。
「日本語に訳すと『四分円』ってとこだけどね。今、ここでの使い方ではビジネス用語での意味。人には金銭的に主に四つの生き方があって、それぞれの生き方では色々違ってくるって話かな。あたかもそこに四つを区分する壁があるかのように……ってこの話、長くなるけど聞く?」
「昼休みが終わるまでに終わりそうなら」
 学食のAランチのチンジャオロースのピーマンを箸で口に運びながらキコが答える。学食のお盆を校庭が見晴らせる外のベランダ的スペースに持ち込んで昼食を二人で取っている所である。やはり春なので、外の風に触れながらの食事の方が気分がいい。制服が無いことも含めて、こういうこともできる辺り、キコの通う高校は校風が自由だ。
「ちょうど終わるくらいかな」
 もっぱらお昼はパンの陽菜子さんは本日のサンドイッチをほとんど平らげて、パックの牛乳をひとくち口にしてからから話はじめた。
「私もビジネス書とか沢山読んでいくうちに知ったんだけどさ、世の中には『従業員』、『自営業』、『ビジネスオーナー』、『投資家』の四種類の生き方があって、それぞれの生き方で、成功するためのルールも、考え方も、必要な能力もまったく違うという話なんだわ、これが。だから、それぞれのクワドラントはあたかも壁か何かに隔てられてるかのようっていうかさ」
 そこで陽菜子さんが一呼吸入れる。
「一つ目の生き方、『従業員』は、一番一般的な会社員なり公務員なりになって、お給料を貰って収入を得ていく生き方のこと。毎月安定的にお金は貰えるんだけど、ある程度上限があって、一定以上の収入は期待できない。最大で年数千万ってとこかなぁ。普通はそれよりずっと少ないけどね。あと、自由時間が非常に少ない。一日八時間とか、十時間とかざらにお仕事に時間を使ってしまうのがこの生き方」
「二つ目の生き方、『自営業』は、まあ、自分で小さいお店や会社をやってる人達だね。商店街の八百屋さんから町角の小さいラーメン屋さんまで、色々ね。『従業員』に比べて収入が不安定になる反面、働いた分だけ収入を手にすることができるのがこの生き方の特徴。頑張れば一億円稼げるかもしれないけれど、頑張らなければ収入ゼロにもなり得ちゃう。そんな生き方。自由時間は、まあ、自分の選択によるんだけど、会社員の人達が分担してやってる仕事をほとんど一人でやらなきゃならなかったりして、仕事に没頭すればするほど少なくなっていく感じ。それが、この生き方。この『従業員』と『自営業』の二つの生き方をまとめて、『左側のクワドラントの生き方』なんて言ったりするの。自由時間が少ない点あたりで括ってるのかな」
「三つ目の生き方、『ビジネスオーナー』は、自分がいなくても回るビジネスを所有してる人。この辺りの人は全体数が少ないんで、一般人はあんまり会わないし、具体例もあげづらくなるね。ビジネスが利益を生み出すまでは収入はゼロなんだけど、一旦ビジネスが軌道に乗れば、自分の時間を使わなくても収入が得られるようになるのが特徴。自分で働く必要がなくなるため、自由時間はかなりある生き方だね」
「最後の四つ目の生き方、『投資家』は、投資に失敗してお金を失ってしまうリスクがある反面、投資に成功した時は大きなリターンが得られるって生き方だね。成功する投資はお金がお金を呼び込んでくれるんで、自分で働く必要がないから、この生き方もかなり自由時間がある生き方だね。例としては、勿論キコちゃんのお兄さんの紀之先輩なんかがそうってわけ。『ビジネスオーナー』と『投資家』、この二つの生き方を括って、『右側のクワドラントの生き方』なんて言うわけ。どっちも自由になる時間が多いんだね」
 そこまで一気に語り終えた所で陽菜子さんが席を立った。そろそろ、食堂にお盆を返しにいかないと午後の授業に間に合わなくなる時間帯である。
「分かった?」
「うーん、まあまあ」
 陽菜子さんの問いかけに答えながら、頭の中を整理してみる。
 キコのお父さん。お父さんは会社勤めだから、陽菜子さんの話したクワドラントの中ではもろに「従業員」に当てはまる。安定した生き方。そう、安定した収入を家庭に入れるために、お父さんは会社をやめることができなかった。そして、自由になる時間が少なかったのも確かだ。例えば、お母さんの介護に日中付き合うというような時間は捻出できなかった。だから代わりに、兄さんがリスクを引き受けて自由な時間が捻出できる『投資家』の生き方に転身したんだ。いわば、お父さんと兄さんで、安定と自由な時間の二つを二人がかりで何とか埋めたような、それが、キコの家族が選んだ決断だったわけだ。
 結果的にそのまま「従業員」の生き方を続けることになったお父さんに比べて、ううん、勿論お父さんもすごく悩んだのは知ってるけど、それでも兄さんは大変だったと思う。『投資家』なんて生き方。それまで兄さんが目指して技を磨いてきた生き方と全然違う訳で……。
 そこまで考えを整理した所でキコの頭に一つの疑問がわいた。
「陽菜子さん、じゃあさ、兄さんが目指してた研究者っていうのは、その、クワドラントか。それのどこに入るわけ?」
「『従業員』だね。国からにしろ、企業からにしろ、上からお給料を貰う代わりに縛りも受け入れて研究するわけだから。そこで最初の壁の話に戻るよ」
 陽菜子さんがキコのお盆を手に取りながら言う。
「紀之先輩は、研究者として生きるために『従業員』クワドラントの中で頑張っていたんだけど、そこから『投資家』クワドラントへと壁を超えて移動していったんだよ。左のクワドラントから、右のクワドラントへの移動だね。この移動はビジネスの世界ではとても難しいと言われているの。さっきも言ったとおり、クワドラントが違うと、必要な考え方も、成功するためのルールもまったく違ってくるからね。だから……」
 一呼吸おいて陽菜子さんが言う。
「キコちゃんは、クワドラントの壁を越えていった紀之先輩に、置いていかれちゃったような気がして、寂しく感じちゃってるんじゃない? 壁を越える途中で紀之先輩も色々と考え方を変えていっただろうし。自分と同じ場所にいたと思ってた人が、違う場所に行っちゃうって、その人を尊敬していればしているほど、切ないことかもしれないから」
 キコは、兄さんが在宅でトレーダーをやるようになってから、次第に食卓でお父さんと兄さんがお金の話をする機会が多くなったことを思い起こした。そのことに気付いた時、どちらかというと清貧なイメージがあった兄さんがなんとなく変わってしまったような気がして妙に寂しかった。そんな想いを抱いたことは、確かにある。
「でも、だからこそ、紀之先輩は偉大だよ。やっぱり私、一度じっくり話を聞いてみなくちゃと思ってるわけ。クワドラントの壁を越えてちゃんとやってる先輩で、私の先行者だからね。そんな人が身近にいるなんて私ラッキーだよ」
「でも、陽菜子さんは『投資家』になるわけじゃないんでしょ?」
 そこまで色々分かってて、壁を越えていった兄さんに対して寂しい思いを抱いてるなんてキコの気持ちもたぶん的確に言い当てることが出来て、それでも陽菜子さんまで壁の向こう側に行っちゃうなんて言うんだねと、キコは思わず陽菜子さんを問いつめたい気持ちにかられたが、飲み込んで質問した。
「うん、私が行きたいクワドラントは『ビジネスオーナー』。どんなビジネスかは、目下立ち上げ中。だけど『ビジネスオーナー』と『投資家』は密接な関係にあるから紀之先輩に会うのは無駄じゃないはずなんだ。たぶん、紀之先輩もかなりのビジネススキルを身につけてるはずだよ。ほら、投資って、結局はいいビジネスをやってる企業にお金を投資するわけじゃない? その企業のやってるビジネスが見込みがあるかないか理解しないといけないから、結局『ビジネスオーナー』としての素養も求められるんだよね」
 そこまで言って陽菜子さんは浮かない顔のキコに気づいたようだった。長いつき合いだから、そんな時陽菜子さんがどう言うかキコには分かっていた。
「紀之先輩と、よく話しなよ。そして、私ともいっぱい話そう」
 陽菜子さんがそういった所で、予鈴のチャイムが鳴った。
 よく話そうって、キコがちょっと悩んでる時、暗い顔をしてる時、陽菜子さんはよくそう言って元気づけてくれるよね。あと、一緒に遊ぼうってもよく言って励ましてくれるよね。キコはそんな陽菜子さんが大好きだったし、事実、これまで一緒に沢山話してきたし、沢山遊んできた。いつも元気を貰ってきた。けれど、今回のこの心にわだかまる翳(かげ)りは、キコが結構な昔から考えていた想念にまつわることで、ちょっとばかしやっかいな感じなの。だって、もし壁の向こうに陽菜子さんも行ってしまったら、そもそも一緒にお話することも、遊ぶことも難しくなってしまうんじゃない? いつものように明朗な言葉をかけてくれる陽菜子さんが陽菜子さんらしくて嬉しい反面、やっぱりどこか自分は取り残されてしまったような気もしてしまって、元気を貰いながらもどこか切ない、複雑な気持ちのままキコは昼休みを終えることになった。

  ◇

 その日の夜、陽菜子さんからメールが届いた。丁度、次が土日で休みという塩梅の金曜の夜である。

――明日一緒にバイトしてみない? 昼間の話。クワドラントについては体験してみるのが一番だと思うんだよね。

 特に予定もなかったし、基本的に陽菜子さんと一緒にいるのは楽しいし、バイトと言うからにはバイト代も貰えるのかななんて、その辺りにも魅力を感じたしということで、キコは了解の旨のメールを返信した。
 この時点では、四つのクワドラントの全てを回る中々に壮大な旅が始まろうとしているとは思ってなかったんだけど。

  ◇

「今日は『従業員』の日!」
 出鼻にそう陽菜子さんに宣言された次の日の一日は、あまり心地よくはない疲労感と共に暮れようとしていた。
 場所は、キコと陽菜子さんが毎朝通っていた、島田さんが店員をやっているゲームセンターだった。
 島田さん経由で陽菜子さんが順調にか多少無理矢理にか話をつけて、一日アルバイトをさせて頂く次第になったらしい。
 ゲームセンターでバイトというから、てっきりお客さんのお相手でもするのかと思ったんだけど、実際はなんか事務所みたいな所に通されて、パソコンに向かってひたすら事務という次第で、会計業務の一端みたいなんだけど、とにかく紙で渡された数字や文章をひたすらパソコンに入力するという作業をキコは一日こなすこととなった。
 キコが一番単純なその作業をやってのけ、陽菜子さんはキコの入力した文書なり数字なりを編集するという、もうちょっとだけクリエイティブな作業を一日担当した。私達が使えるパソコンは事務所に一台しかないことを陽菜子さんは事前に知っていたらしく、陽菜子さんは自分のマイ・ラップトップパソコンを持ちこんで作業している。これまた陽菜子さんが持ってきた大容量のデータを記録できるUSBデバイスを使ってキコが入力したデータを陽菜子さんのラップトップへと移し、陽菜子さんの作業終了後にまたキコが割り当てられたデスクトップパソコンに返すという手順である。
 約束したバイト終了時刻まであとわずかという時間帯になり、かつ作業も一区切りで今日はこの辺りで終わりかな? という所になって、ようやく少しだけ一日一緒の部屋で働いた、というか本日のキコ達二人のバイトの担当になって頂いていた寺崎(てらさき)さんというこのゲームセンターで正式に勤務している男性社員の方と雑談する機会にめぐまれた。
「島田からいきなりバイト二人面倒見てくれって頼まれた時はちょっとビビったけど、よく働いてくれたね。陽菜子ちゃんって言ったっけ。随分パソコン使いこなしてるみたいだね」
 あ、やっぱり陽菜子さん、地味にカタカタとキーボードを走らせてるようで、人から見ると結構凄いんだ、とキコは改めて尊敬の眼差しを向ける。
「一心不乱に作業させて頂きました」
 と、対人関係を円滑にしちゃういつもの笑顔で陽菜子さんは答え、続けてこう尋ねた。
「寺崎さんは島田さんとは親しいんですか?」
 まっすぐに切り揃えられた前髪に、縁の太い眼鏡が印象的で、失礼ながらあまり社交的では無さそうな印象を受ける寺崎さんは答えた。
「ああ、島田とは同期みたいなもんかな。俺もあいつもバイトからの昇格組で。あいつ深夜組になっちまったから最近あんま喋ってないけど。まあ、島田はスゲーやつさ。人当たりもいいしな。本当だったら君たちも島田に見てもらいたかったんだろうけど」
 と言って苦笑いする。
「島田さんはスゴイですか」
 敢えてどちらが担当云々の所には答えずに陽菜子さんが会話を繋ぐ。
「そりゃなあ。俺よりも数段仕事できるし、コミュニケーション能力あるし、それに外見もいいだろ? ちょっとスゲーよなぁ。まあ、一番俺が尊敬するのは、知ってるかな? あいつ、夜間に仕事して、日中は定時制の大学に通ってるんだぜ。歯科医だかなんだかになりたいとか言ってたな。そのバイタリティと、夢を追う姿勢っていうの? そういうの、尊敬しちゃうよな」
 そうだったんだ、とキコは島田さんの意外な一面を聞いて感心する。早朝によく会って挨拶がてらのお話くらいはする間柄だったけど、そんな話は初めて聞いた。兄さんが自画自賛じゃなくて、本人がいない場で他人から称賛される人は信用できるって言ってたっけ。島田さん、きっと本当にすごいんだ。
「寺崎さんにはないんですか、夢というか、目標というか」
 陽菜子さんがごく自然に尋ねる。こういうその人にとって大事な質問をさらっとできちゃうあたりもキコは陽菜子さんを尊敬している。短い対話の間でも、深い話が引き出せちゃうっていうのもすごい能力だって、これもまた兄さんが言ってた。
「夢か、あんま無いなぁ。一日一日精一杯っていうかさ」
 寺崎さんがちょっと寂しそうに答える。
 すると陽菜子さんが瞳をちょっと好奇心をもてあましてルンルンとしてる子どものように輝かせてこんなことを尋ねた。
「じゃあもし、宝くじでも何でもいいんですけど、ぽーんと三億円が手に入ったらどうします?」
 突然と言えば突然の質問に、寺崎さんは少しの間考えをめぐらせる仕草をすると、やがて「そうだね」と前置きしてからこう答えた。
「とりあえず今の仕事やめて一年くらいは家でゲームして過ごすかな。ゲーム好きだからゲームセンターでバイトでもしてみるかって感じで始めた仕事だから。その後は、そうだな、自分でゲーム作ったりしてみたい。今でもたまに妄想するんだよね。自分で自分のやりたいゲームあれこれ作ってる風景をさ。最近はパソコンがスゴイから個人で作ったゲームなんかもネットで市場を形成して流行ったりするんだけど。無理かなぁ」
 そんなボヤキとも独白とも取れない寺崎さんの言葉に、陽菜子さんは男性諸君にとっても嬉しいだろう笑顔を向けて言った。
「なんだ、やっぱりあるんじゃないですか、夢」
 寺崎さんは照れたようにちょっと視線を泳がせながら、机の脇から何やら金属の箱を取り出して陽菜子さんに手渡した。
 開けてみると中には無秩序に収納されたお札が不特定枚数。
「それお金。本日最後のお仕事ってことで数えてくれる?」
「了解でーす」
 さっそくお札を取り出す陽菜子さんだったが、その前に寺崎さんの机の横に置いてあった段ボール箱を瞳を輝かせながら指さして一言。
「それ、つけてみていいですか?」
「いいけど、イベント用のやつだよ?」
 陽菜子さんの指さした先にあったのは、ウサギの耳。俗に言うバニーガールが頭につけてるやつだ。
「陽菜子さん、意味分かんないよ」
 一応キコは突っ込みを入れてみる。
「いや、バイト中ずっと気になってたんだけどさ。仮にもお仕事させてもらってる間にウサギ耳っていうのも不謹慎かなと思って。いや、うん。もう終わりだって言うし。いいじゃん!」
 いそいそと箱からウサギ耳を取り出して装着する陽菜子さん。
「どう?」
「う、うん、何て言うか、ウサギだね」
 キコが返答に窮(きゅう)していると、やおらウサギ耳陽菜子さんはお金を数え始めた。何故か歌付である。
「ピョンピョンピョン♪ 私はウサギ♪ 寂しくっても死なないけれど♪ お金が無いと死んじゃうピョン♪」
 なんかイヤな歌だな、などと思いつつキコは壁に掛けてある時計を見やった。バイト終了の時刻である。
 こうして一日目の「従業員」のお勉強は、成果があったのだか無かったのだかよく分からないまま終幕を迎えたのだった。

  ◇

「今日は『自営業』の日!」
 翌週の土曜日はそんな陽菜子さんの言葉からはじまり、現在キコは郊外のキノコ工場でジャージ姿でキノコ菌(きん)入りの瓶(びん)がぎっちり積まれた台車をせっせと運ぶ作業に従事している。
 この工場まで自転車でやってくるのにそもそも一時間弱かかって消耗気味だというのに、工場についてから説明されたバイトの内容というのも、中々重たいキノコ台車を人力移動させながら工場の作業部屋と別室を行ったり来たりという体力勝負な内容で、自他共に認める文系少女のキコとしては既にちょっとバテ気味だったり。
 陽菜子さんの方はというと、こちらは機械仕事で、器用にアーム(っていうのかな?)を操作して、キノコ瓶が1ダース入ったケースをキノコ機械(キンカキ機というらしい)に乗せる作業に従事している。なんか、去年の夏にここでバイトしてたとかで、陽菜子さんの方は工場専用の作業着なんかを着込んじゃってる。キコは「動きやすくて、キノコのにおいがついてもいい服装」とだけ言われていたので、昔、体育の授業で着ていたジャージなんかを引っ張り出してきたんだけど、グレーのいかにも作業員って感じの陽菜子さんの格好の方も羨ましかったかもだ。まあ、女の子二人さあ肉体労働します! って感じの服装で、しかも場所はキノコ工場で、いったいどういう絵になってるんだというのはバイト開始から頭に浮かんでは消えていく疑問ではあるんだけど。
「お嬢ちゃん、次の台車から別な列に並べておくれ。六台で一列って覚えておいて」
 今回キコと陽菜子さんを見てくれている、というか本人も同じ場所で仕事しながらこっちの作業もカバーしてくれてる山田(やまだ)さんからキコに指示が入った。
「りょ、了解です」
 キコは慇懃(いんぎん)に返事をすると、キノコ機械から解き放たれたキノコ瓶詰めの台車を引っ張り出し、別室(距離約三十メートル)に向かって移動を始めた。一定の台数をこなしたので、既に学んだことも多い。押して持っていくより、引いて運んだ方が楽だ。
 キノコ。今回はシメジなんだけど、シメジってこうやって作ってるのねと、多少感慨深い感想はキコも持ちながら仕事に従事している。陽菜子さんがアームで乗せたキノコ菌入りの瓶が詰まったケースが、キノコ機械のベルトコンベアーの上を坦々とまずは流れていく。その過程で機械が自動で何やら瓶の表層のクズを掻(か)いたり、水を注入したりといった作業を行って、最終的にベルトコンベアーの終着点である、キコが前でスタンバイしている台車の上にどんどんと工程を終えたキノコケースが積み上がっていく。一番上まで積み上がったらはい一区切り、キコは台車を引き出して、新しい空の台車をセット、その後、キノコ台車を引っ張って別室まで持っていき並べて寝かせておくと。こういう作業工程だ。この別室っていうのも最初にドアを開けて入った時は天井からいきなり霧(きり)が吹き出してきて、一体何の攻撃か! なんて思ったのだけど、陽菜子さんから説明されたことによれば、キノコの発育に適切な湿度に保つためにこうやって霧で湿度調整してるんだとか。「夏にやった時は別室が霧で涼しくてそっちのパートの方が好きだったよ」なんても聞かされたりして。現在のキコ的には、覚えちゃえば陽菜子さんがやってる機械操作のパートの方が体力使わなくて楽そうだなぁなんて感じなのだけど。
 別室から戻ると、次の台車がキノコケースでいっぱいになるまでの数分間、キコは空き時間になる。その時間を使って機械がトラブルを起こさないか見張っていてくれとは言われているけれど、当然文系少女でしかも初バイトのキコに細かくトラブルを判断する能力はないし、ましてやトラブルを解決する能力なんて皆無なので、とにかく異常を感じたら山田さんに報告するようにしようとだけ心を決めている。でも、まあ、そんなに気を張らなくても、山田さんはキコのうんと近くで何やら別の作業をしながらこっちも気にかけてくれているので、気分的に楽って言えば楽なんだけど。
「社長さーん。最近、景気どうですかー」
 そこで、少し離れた所でアームを動かしていた陽菜子さんから、キコの方に向かって本日作業に入ってから初めての声がかけられた。距離があるのでちょっと大きい声になる。
 社長さん? 誰? キコが積まれていくキノコ瓶を見つめながら思案していると、となりの山田さんが声を発した。
「ボチボチだべ! 世の中不景気って言われてっけども、うちはやれてる方だ!」
 え、社長さん? とキコが地方訛(なま)りで返事を返した山田さんの方と陽菜子さんの方を見ながらキョロキョロとしていると、陽菜子さんの笑い声が入る。
「あははー、キコちゃん! 山田さんが社長さんだよーん」
 エ! という驚きと共に、陽菜子さんが着てるものと同じグレーの作業服に身を包んだ壮年の年頃のおじ様を見やると、山田さん改め社長さんはキコの方にも返した。
「んだべ。私が有限会社ウッドチャイルドの社長の山田だべ」
「す、すいません、私気付かなくて……」
 てっきり従業員の方だとばかり思ってたキコはあわてて頭を下げる。キノコの方もチェックしつつと忙しい。
「あはは、スモールビジネス、自営業者の特徴だねぇ。社長も現場でフル稼働だよ!」
「んだ。私がいないとうちの会社は始まらねぇべ」
 そこまで聞いた所で目の前の台車がキノコケースでいっぱいになった。別室行きの時間である。
「これで四分の一だべ。お嬢ちゃんガンバだ」
「は、はい。頑張ります」
 社長さんからの激励に答えつつ、新しい台車をセットし、キコは別室へとキノコ台車を引いていく。
 な、なんか、社長さんって言うとスーツ姿で立派な椅子に座って、脇には美人秘書さんがいたりして……なんてイメージがあったんだけど、ここの社長さんはちょっと違うなぁなんて、そんな一人カルチャーショックを受けながら、まだ社長さんと話してる陽菜子さんは一体何を喋ってるんだろうと気にしつつ。キコは一人別室行きの扉を開ける紐(ひも)を引くのであった。

  ◇

 本日のキノコバイトも終盤。
キコが別室に行くサイクルと、陽菜子さんの作業が暇になるサイクルと、そして社長さんのお仕事のサイクルとあるので、全てが上手く一致しないと三人での会話っていうのは無かったんだけど、思い出してみてキコの心に残った社長さんを交えてのお話は二つ。
 一つ目は、社長さんはなんと年中無休だというお話。小さい会社で回してるとはいえちゃんと社員さんがいて、本日キコと陽菜子さんが行ったような作業を日夜行ってはいるんだけど、どうしても毎日社長さん自らが出向かないと回らない作業があるらしくて、三百六十五日働いてらっしゃるんだって。
 つい、キコは「お正月も休まれないんですか?」と聞いてしまったんだけど、社長さんはさして驚きもせずこう答えられた。
「んだ。正月は社員には皆休み出すから、逆に正月もバイト代目当てで働きたい大学生あたりをバイトに引っ張ってきて、私と作業するべ。さすがに昼飯だけバイト君ばさそって家内が作ったおせちとお雑煮を食べたりするけども」
 もう一つは陽菜子さんの問いかけに社長さんが答えられた時のお話。
 陽菜子さんがいつもの陽気さでこんなことを聞いたの。
「社長さん! 最近の社長さんの最高の瞬間ってどんな感じですか!?」
 そうしたら社長さんは少し思案した後、こう答えたの。
「仕事終わってから、夕方にたまにスポーツカーで娘と一緒にドライブに行くときかな。海岸線まで行くんだども、こう、風をきって走ってるといい気持ちがすっど」
 ああ、表に止めてあった赤いスポーツカー。
 高級そうだとは思ったけど、息子さんや娘さんのじゃなくて社長さんのなんだ。
「ああ、いいですねー。キノコ御殿にキノコカーですねェ」
 なんて返す陽菜子さんがその時私にウィンクした気がしたわ。確かに、工場と隣接してるご自宅も立派だったし、スポーツカーもリッチだな、とキコは思う。
 確かに、フリーターや、普通の会社勤めの人にはこういう家も車も手に入れるのは難しいものなのかもしれない。
――『自営業』の生き方か……
 そう噛みしめて考えながらキコは、その日最後の別室行きの紐を引いて、本日何度と無く浴びた霧のシャワーを浴びるのだった。
 そしてこの霧を浴びること三百六十五日か……。
一定時間で自動で閉まる扉を背に、扉の向こうで本日の締めの雑談をしている陽菜子さんに想いを馳せながら、キコはちょっとだけクワドラントの違いについて考えをめぐらせたのであった。

  ◇

「今日は『ビジネスオーナー』の日!」
 三週目ともなるとそろそろキコも慣れてきたもので、むしろ陽菜子さんは今度は何処に連れて行ってくれるんだろう? くらいの勢いだったのだけど、意外にも翌週の土曜日に陽菜子さんに誘導されて辿り着いた場所は、キコもよく知ってる近所の公園だった。
「いるかなぁ。携帯に電話したら今日は公園にいると思うから、タイミングが合ったら少しだけお茶してくれるって言ってたんだけど」
 小さい頃お父さんに連れて来て貰って一緒に遊んで貰った記憶を少しばかりキコが思い出していると、やがて陽菜子さんが瞳を輝かせて手を振り始めた。
「いた! ブランコの所だ! おーい! シホちゃーん!」
 シホちゃん? 誰それ? とキコは首をかしげたが、陽菜子さんの声が届いたと見えるや否や、丁度ブランコに乗ってた小さい女の子が勢いよくブランコから飛び降りて、こっちに向かって元気に駆け寄ってくるではないですか。
「ヒナちゃーん! 遊ぼうー! 白熊白熊!」
 ちょっと訳の分からないことを叫びながら小さい体をめいっぱい使って全力ダッシュでこっちに向かって走ってきたその子は、最後の距離を全身全霊のジャンプで縮めて陽菜子さんの胸にダイブした。
 なんだか全身泥んこになってる子だったので、一瞬、陽菜子さんの服が汚れる! と思ったキコだったけれども、陽菜子さんもこうなることを見越していたのか、今日はジーンズにTシャツという、さしあたってオシャレ感が薄い、というよりもこの子と一緒になって遊んでやるくらいの気概を感じる服装をしている。キノコバイトの時も思ったけれど、少し、その日の適切な服装に関する情報を前もってもうちょっとキコにも教えて貰えないものなのかなんて感想が頭を過ぎる。
「こちら、シホちゃん」
 丁寧に、大人の知人を紹介するように距離感に気をつけながら陽菜子さんがキコに紹介する。
「ヨシエシホちゃんです! 三歳です! 好きな動物は白熊です! 好きな食べ物はお肉です!」
 紹介されたシホちゃんはまっすぐにキコの目を見て元気よく自己紹介する。
「で、こちら、キコちゃん」
 今度はキコが紹介される。これは、自分もしっかり自己紹介した方がいいのかなと思い、キコはちょっとドギマギしながら頭を巡らせる。でも、三歳児にする自己紹介って?
「えーと、キコちゃんです。十七歳です。好きな動物は……えーと、キリンです。好きな食べ物は、お肉よりお魚の方が好きかな?」
「シホもキリンさん好き!」
 輝いた瞳でルンと見つめられると、必要以上にホワホワとしてしまって。なんというか、泥んこだから最初は気づかなかったけれど、大きい凛とした瞳に明朗な印象を与えるショートカットの、ものすごく可愛い娘だ。
「シホちゃん、オカピも好き!」
「あ、うん、四大珍獣のね」
 何故か三歳の女の子とコアな動物トークに突入しそうになった所で、陽菜子さんがシホちゃんに尋ねた。
「シホちゃん。パパは? お姉ちゃん達、今日はシホちゃんのパパとお話したくて来たんだけど」
「あっちー」
 シホちゃんの指した方向を見やると、なるほど、ブランコからちょっと離れたベンチに座っていた人影がこちらに向かって手を振っている。
「キコちゃん。あの人がお目当ての『ビジネスオーナー』の吉江(よしえ)さんだよ。私はシホちゃんと遊んでるから、ばっちりお話してきてね」
 エ、陽菜子さん一緒じゃないの? とキコが狼狽してる間に、さっさと陽菜子さんはシホちゃんを連れてジャングルジムの方に向かって行ってしまった。
「私はしょっちゅうお話聞いてるもん! 三十分だけお話してごらん。きっと『ビジネスオーナー』についてちょっとだけ分かるよ!」
 だって。

  ◇

「陽菜子さんと知り合いになったのはシロックマがきっかけだったんですよ。娘が好きでしてね。ちょうどここの公園で娘と陽菜子さんが意気投合して初めて遊んだ時に娘がシロックマキャップを被ってたんですが。その時、『好きなんだったらあげる!』と仰ってシロックマのぬいぐるみの小さいヤツを娘にくれまして。それもまたレアものでして。シホ喜んでましたねー。いいですね。ああいう。自分の好きなモノを分かち合おうという姿勢は」
「そ、そうですね。陽菜子さんらしいです」
 キコとしては、どういう経緯か初対面の男の人と二人でベンチに腰掛けてお話することになってしまったな、というとまどいが拭いきれないままだったのだけど、既にお互い自己紹介を終えて、陽菜子さん曰く「ビジネスオーナー」のこの吉江さんという男の方と、キコは二人で遠くで遊んでる陽菜子さんとシホちゃんを並んで眺めながら語らいモードに突入してしまっていた。
 初対面だからという理由だけではなく、吉江さんというこの方の身なりの第一印象も未だにキコに違和感を与え続けている一要因である。
 なんというか、ジーパンによれよれのTシャツ……まではまあいいとして、肩まで伸びてる長髪に長めのあご髭とまできた日には、ちょっと、どこの落ち武者さんですか? と思わず尋ねたくなってしまうような外見である。この人が「ビジネスオーナー」? もっと、パリっとしたスーツに身を包んでるジェントルマンを想像していたのだけれど、これはちょっとイメージとギャップがありすぎる。陽菜子さんも「ビジネスオーナー」を目指してると言ってたけれど、ふだんオシャレで綺麗にしている陽菜子さんとこの方はちょっと外見に差異がありすぎる。
「ああ、この格好ですか。娘と毎日遊んでるうちに遊びやすい格好優先になってきてしまいましてね。ちょっと、年頃の娘さんからするとキモイですかね。娘も年頃になってきたら嫌われちゃいますかね」
「い、いえ、状況、環境に合わせた格好が一番じゃないかと。白熊も寒いところにいるからフカフカなわけですし」
 しまった、顔に出ていたらしいとあわてふためいてしまって、思わずキコは混乱した返答を返す。
「陽菜子さんもそうですが、あなたも結構ユニークなものの言い方をしますね」
 穏やかな笑い顔を向ける吉江さんだったが、正面から見つめられてちょっとドギマギする。ああ、そうだ、この男の人、なんだか子供みたいにルンルンとした瞳をしてる所だけ陽菜子さんに似ている。
「吉江さんは『ビジネスオーナー』だと陽菜子さんから聞きました」
 本題に入る。
「そうですね、いわゆるビジネス用語のクワドラントの中ではもろに『ビジネスオーナー』の場所に私はいると思います」
「でも、その、ちょっと私のイメージと違ったっていうか。それにさっきはずっと娘さんと遊んでいらっしゃるって」
 陽菜子さんと楽しそうに遊んでるシホちゃんを見やる。いいなぁ。楽しそう。
「はは、毎日遊んでて、格好もヒッピーみたいで、この人大丈夫か? と、そんな感じですかねぇ」
「い、いえ、そんなことは」 
「まあ、実はヒッピーもホームレスも経験したことがあるんでそう思って頂いてもあながち間違いじゃないんですが、たぶん陽菜子さんが今日キコさんを私のもとに連れてきたのはヒッピーとしての私の話を聞かせるためではないでしょう。おそらく、私のような収入と自由な時間の両方を持って生きている人もいるということを知って欲しかったんだと思います」
 やっぱり、そうなんだとキコは思う。陽菜子さんからクワドラントのお話を聞いたばかりの時はなんか具体的にイメージできなかったんだけど、ここに、キコの知らなかった生き方をしてる人が現実にいるんだと実感する。陽菜子さんの人脈はスゴイ。きっかけを作ったシロックマもスゴイ。
「単純に仕組みだけお話しますと、私が収入と自由な時間を両立しながら生きていられるのは、私がいなくても回るビジネスを所有しているからです。具体的に見せた方が分かりやすいですかね。私の場合のビジネスはこれです」
 そういってベンチの横に置いてあったラップトップパソコンを開いて立ち上げる。立ち上がりが早い。これはかなりの高スペックパソコンだ。
「これです」
 またたく間にWEBサイトが表示される。モバイルのネット環境も当然の如くついているらしい。
 現れたのは、キコの主観でも涼しげな印象を受けるブルーを基調としたプロが作ったと思われるWEBサイト。
「これは、何か、マッサージしたりお風呂に入ったりする施設のWEBサイトですか?」
 トップページにマッサージをしてもらってる人の写真とお風呂に入ってる人の写真がカッコいいレイアウトで表示されていたので、そのままの感想を述べる。
「そうですね、プールなんかもありますが、スポーツクラブならぬリラックスクラブとでも言いましょうか。それの高級なヤツのWEBサイトです」
「つまり、吉江さんは、この高級リラックスクラブ? のオーナーさんでいらっしゃるということですか?」
「そういうことです。施設の運営自体は優秀な社長さんを雇ってほぼ完璧にやってもらってます。現在は私は、会員権の販売だけを担当してます。とは言っても既にこのWEBサイトに色んな工夫が施してあって、特に何もしなくてもこのサイト経由でここの会員になりたいという、まあ、比較的お金持ちのお客さん達が自然に集まってくるようにはなってますけどね。なので、私はたまに、メールマガジンなどでお客さんが喜んでくれるお話を届けているだけです。そんなに時間は食いませんので、まあ、娘と遊んでいられるわけです」
 始終笑顔をたやさずに吉江さんは説明してくれた。これで十分だ。細かい仕組みを今キコが聞いてもしょうがない。本当に、自動で収入が入るビジネスを所有しながら自由な時間を生きてる人がいるということが分かった。幻の絵空事ではない。そのことが重要なのだ。
「どうして、『ビジネスオーナー』の生き方をしようと思ったんですか?」
 陽菜子さんの行きたい場所。それはキコにとっては本当に率直な質問だった。
「やっぱり、陽菜子さんと同じくあなたもユニークですね。この話をすると、普通は、そんな生き方ずるい! と怒ったり、自分にもお金の稼ぎ方を教えてくれ! とハイテンションになったりする人が多いんですけどね」
 そう言いながら、吉江さんは今では陽菜子さんと滑り台で遊んでるシホちゃんをとても優しい瞳で見つめた。
「娘とね、遊ぶ時間が欲しかったんです。昔から子供と遊ぶのが好きでしてね。自分に子供が生まれたら、ある程度大きくなるまでは目一杯遊んでやりたい。ずっとそう思っていたんです。そのためには自由な時間が必要だった。その生き方を実現できるクワドラントがたまたま『ビジネスオーナー』だった。だから頑張った。本当、それだけなんです」
「そうですか」
 キコは陽菜子さんのまわりを忙しくクルクルと回ってるシホちゃんを眺めながら、自然と、何かが腑に落ちた気がした。
「私も、小さい頃、お父さんに連れられてよくこの公園で遊んでたんですけど、はい、何て言うか、楽しかったな」
 自然と口に出た言葉だったが、それを聞いた吉江さんは大いに破顔して答えた。
「それを聞いて勇気づけられました。たまに不安になることがあるんですよ。私の選択が果たして娘にとって本当に価値あることなのかってね。バリバリと経営を拡大して、娘と遊ぶ時間なんか顧みず仕事に励んで、沢山のお金を残してやった方が本当は娘のためになるんじゃないかなんて思ってしまうこともあって。だけど、やっぱりね、自分の本心は誤魔化せないんです。私がこの公園で娘と過ごす時間は、私にとってかけがえのないものなのです。それが娘にとっても楽しい思い出の一部となるのなら、どんな大金を手にするよりもこれ以上報われることはありません」
 そう言って吉江さんは立ち上がり、やがてシホちゃんと陽菜子さんの方に手を振りながら歩き始めた。吉江さんは何も言葉には出さなかったが、今日はこの辺りしておきますかという含意が感じられたので、キコは「ありがとうございました」とお辞儀だけして、愛する娘を迎えに行く吉江さんの背中を見やった。これが壁の向こう側にいる人の背中かという思念がちょっとだけ過ぎったけれど、キコがその時かすかに思い出したのは、時々心に過ぎって寝苦しくなる重圧的な境界を分かつ壁のイメージではなく、そんなものとは無縁な幼い頃に追いかけたお父さんの背中だった。
 お話が聞けて良かった。素直にそう思って『ビジネスオーナー』の一日は幕を閉じた。

  ◇

「それで今日は『投資家』の日! ってわけか」
 そう言って笑った兄さんと陽菜子さんのご対面で、翌週の最後の「投資家」の日は始まり、既に小一時間が経過していた。陽菜子さんと兄さんがキコが聞き慣れないビジネスの専門用語を駆使してお話ししている。「オークション」、「ブログ」、「アフィリエイト」くらいまでならキコも大体は理解できるけど、「SEO」、「PPC広告」というレベルになってくるともうお手上げだ。陽菜子さんがやろうとしているのはどうやらインターネットを使ったビジネスらしいということだけがかろうじて理解できる。兄さんは分かるけど、陽菜子さんも本当に勉強してたんだなぁ。
 これまでの三週間はキコの方がお客様という感じだったけれど、本日は陽菜子さんの方がメインで兄さんに会いに来たので、熱心に兄さんの方を向いてお話をしている。丁度、先週キコに吉江さんを陽菜子さんが紹介してくれたように、今週はキコが兄さんを陽菜子さんに引き合わせた形なのだ。
 のんびり出勤のお父さんが会社に向かう頃に朝は起きてきて、日中は主に家事と介護、夜にちょっと遅くまで起きて仕事をしているという生活スタイルの兄さんなので、本日は夜の会合となった。普段のお仕事時間にわざわざ時間を取って貰っているわけだけど、そこの所はあっさりと快諾してくれた。なんでも兄さんの投資スタイルは「一日やそこら休んでも大局的に影響は出ない投資スタイル」なのだそうである。兄さんはダークトーンのほどよく色あせたミリタリーパンツにブラウンの長袖シャツというスタイルだが、特に陽菜子さんが来てるためにほどよくオシャレを決め込んでるというわけではない。根がきちんとした人なので、夜の仕事中も寝る直前までちゃんとした服装をしているのが常なのだ。在宅のお仕事なんで極端に言えばパジャマのままでもできちゃうんだけど、その辺りはきちんとした兄で妹のキコとしては嬉しい。まあ、自慢の兄さんですので。
 今はナチュラルになってるけど、大学生時代にちょっと長めにして軽く髪を染めてた頃はそりゃカッコ良かったりもしたんです。それこそ陽菜子さんとお似合いなくらいに。
「あとは、心構えみたいなものあります?」
 陽菜子さんが兄さんに尋ねる。陽菜子さんが最も聞きたかったと思われる、陽菜子さんがやろうとしているビジネスについての具体的なアドバイスの部分は、段々キコの手に負える範疇を超える話になってきたので半ば話に付いていくのを断念していたキコだったのだけど、「心構え」という漠然とした精神論に話が戻ってきたことで再度会話に参加できそうだと、キコは兄さんの回答を意識を向けて待った。
「楽しんでやることかな」
 兄さんは陽菜子さんとお見合いでもしてるかのように正面から陽菜子さんを見やって、ちょっと笑いかけながら言った。
「あ、それは分かるかも」
 と、陽菜子さん。
「俺も最初はさ、急激に環境が変わって大変だったじゃない? 必死になって、余裕なくしちゃって、それこそ稼がなきゃ、成功しなきゃ……って回り見えなくなっちゃったりして、正直キツイ時期もあったんだよ。でもさ、ある時それって損だなって思って。段々、投資を通してビジネスのこととか、社会を動かしてるお金のこととかが分かってくるうちに、ああ、俺、今、世の中のこと学んでるって、そしてそんな世の中の一員として俺生きてるって、そんな実感が沸いてきてさ。それって、研究者目指してた頃に感じてた世界を探索していく喜びと何か似てたんだよね。そうしたら、なんだか楽しくなってきて、自然と肩の力が抜けてきたんだ。それからだよ、色々と効率も上がって、投資も上手くいきだしたのは」
 心持ち、陽菜子さんの瞳が輝いたように見えた。
「楽しいこと、好きなことをやってる時のパワーって無限大って感じる時、ありますよね。私も、どうせだったらうんと楽しんで、パワー全開で進みたいと思ってるんです」
「それがいいよ。ちょっと大げさな言い方かもしれないけれど、クワドラントを越境する醍醐味は、結果じゃなくてその過程にあるような気がする。『ビジネスオーナー』になれたから豊かで幸せっていうよりも、そうなろうとして色々頑張ってるその一瞬一瞬が楽しいんじゃないかな。少なくとも俺はそう思うよ」
 通じ合ってる兄さんと陽菜子さんを前に、キコもついついその二人の話に共感したくなってしまう。確かにそれって楽しそう。キコも昔から感じることがある、何か境界を越えていく人を見る時に感じるワクワク。この二人を見てると、そんな気分の高揚を感じてしまう。
 でも、そのワクワクに素直に全身でダイブしちゃって浸れないのが、常々自分を悩ませていた命題なんだと、キコは自分で分かっている。ワクワクを感じる度にどこかでひっかかる微妙な気持ちがずっとあって。その気持ちが中々ぬぐえないから寝付きが悪い。そういえば兄さんからこんな話を聞いたのも初めてだ。自分の気持ちを整理する良い機会かもしれない。そう思って、キコは断片的な自分のわだかまりを少しだけ口にしてみることにした。
「でも、兄さん、境界を越えていくことは楽しいことばかりなの? 例えば、もといた場所に残してきてしまった人のこととか、境界を越える前の自分のこととか、切なくはならないの?」
 兄さんは、キコの口からそんな問いかけが発せられたことに少しだけ驚いたようだったけれど、少しの間を置いた後、何気なく、しかし確信めいた口ぶりでこう答えた。
「前いた場所の想いも、自分も、生きてるよ」
 キコだけじゃなく、陽菜子さんも兄さんの方に居直って続く言葉を待つ。
「ちょっと説明しづらいけど、俺、こういう生活始めてからもさ、前いた場所の、俺の場合は大学の研究室だけど、仲間と結構頻繁に連絡取り合ってるんだ。あいつらは今では研究者の第一歩を踏み出してたり、もう数年の間教員やってたりって奴らが多くて、皆、クワドラントで言えば『従業員』の奴らで、今の俺とは違う生き方をしてるんだけど、結構インスピレーション貰うこと多いよ。やっぱり、そこは俺がもといた場所だからだと思う。例えば今は冗談交じりに俺が教育ファンドを結成して、仲間内で学校の一つでも経営しようかなんて話をしたりもしてるんだけど、そういう何気ない冗談が俺を生かしている。生きる道が違っちゃって切ないって言えば切ないけれど、そんな何気ない元いた場所から貰えるパワーは、確実に俺に活力を与えてくれる。それは、切なくても強い力なんだ。それは自分についても同じことで、例えば俺は研究者目指してた頃はパソコンの表計算ソフト使うことが多くて、かなりの技術をマスターしたんだけど、この技術が、結構投資の時に生きてきたりするんだよね。そんな時思うよ。前いた場所の自分が、今いる場所の自分も助けてくれてるって。繋がってるって。だから、そんなに寂しくなんかない。もっとも、こう思えるようになったのは結構最近のことだけどね」
 兄さんの話を聞き終わったところで、フと陽菜子さんと瞳が合う。いつもの満面の笑みよりも、少し抑えめの微笑で笑いかけてくる陽菜子さん。これはどういう意味なんだろう。
 勿論、今の兄さんの話で陽菜子さんが越境しようとしていることに関する切ない気分が全て無くなったわけではないけれど、キコは少しだけ何かが分かりかけてきたような気もしてきた。
 特に「想いが生きている」という兄さんの言葉に、ひどく勇気づけられるような気がした。キコは古典が好きなのだけど、それはそこに昔の人達の「想いが生きている」ような気がしているからだ。残留している「想い」に触れたとき、何故だかいいようのない熱い気持ちが溢れてくる。そんな経験がキコにはある。
 ほんの少しだけ、何かを掴んだかもしれない。そんな気がして、キコは、今晩は陽菜子さんの越境にどう接するかよく考えてみようと思った。
「従業員」と、「自営業」と、「ビジネスオーナー」と、「投資家」と、色んな人の話を聞いてきたから、それらを踏まえて少し、考える時間が欲しい。
 キコの大好きな古典と、陽菜子さんからもらったシロックマが散乱している自分の部屋で、少しゆっくりと、考えてみよう。
 そうして夜は暮れていき、四つのクワドラントを回ったキコの旅はひとまずの区切りを迎えたのであった。

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