†オリジナル少女小説†


【陽菜子さんの容易なる越境】/3

  ◇

 クワドラントの旅の最終週に兄さんと会合した翌日から、陽菜子さんは学校を休むようになった。それに伴ってキコとの朝遊びもしばらく休止にさせて欲しいとの旨のメールをキコは受け取っている。陽菜子さんは前々から気分がのらない時は自主休校しちゃうことがある人だったけど、これだけ長期になるのは初めてのことだ。「色々とやることが分かってきたから、ちょっとそっちに集中したい」というのが、休み始めの陽菜子さんの言だ。
 やっぱり、ほんのちょっと寂しくて、最初のうちは陽菜子さんが遠くに行っちゃう感覚がぬぐえなくてどうにもやるせない気分になったりしたんだけど、毎日届く、というか日に三、四通も届くメールにこっちからも返信してやりとりしてるうちに、少しずつ気分も変わってきた。
 メールの返信に励ましの言葉しか書けない自分にキコが気づいたのは、陽菜子さんが学校を休みはじめてから一週間が経過した頃だ。その間、キコは事細かにその日の活動と成果を報告してくる陽菜子さんのメールにひたすら励ましの言葉を返し、いつしか自分も一緒になって頑張っているかのような感覚を感じるようになっていた。
 やれ、今日はブログの記事を何件更新した。今日は大物を仕入れられた。今日はオークションに出品して何件売れた。そんな報告を受ける度に、ああ、陽菜子さん頑張ってるんだなぁって。だからなのかな、その夜、陽菜子さんとのメールのやり取りを終えたキコはそっと仕事途中の兄さんの部屋をノックし、一言だけ聞いてみた。
「兄さん、『楽しんでやること』って陽菜子さんにアドバイスしたけれど、それって私にも当てはまるのかな?」
 それを聞いた兄さんは少しだけ真面目な顔で、でも陽菜子さんに言ったときよりは身内に語る時の独特の気安さで、こう答えてくれた。
「あたり前じゃん。キコは、楽しんで生きていいよ」
 その後、部屋に戻ってから思ったんだ。明日の朝は、陽菜子さんに会えない時間を受験勉強で埋めるんじゃなくて、ちょっと違った活動をしてみようって。

  ◇

 翌朝、玄関の外で凛とした早朝の空気をちょっとだけ吸って自分の部屋に戻ると、キコは勉強机の上に一冊の真新しいノートを置いて表紙にサインペンで書き込んだ。

――旅の和歌について(仮)

 古典が好きだからって、漠然と国語の先生になりたいって今まで思ってここまできたのだけれど、まだ具体的に古典を扱って何かを成し遂げた経験はなかった。
 陽菜子さんが自分の未来に向かって頑張ってる時に、キコだけ漫然とした時間を過ごすのは我慢がならないと思った。無性に、何かを頑張りたい、そんな気持ちが胸に溢れていた。現実的に将来について考えるならば、受験勉強をするのが一番堅実で生産的なんだろうけれど、今のキコにはなんだか「堅実」とか「生産的」という言葉よりも優先したい感情がわき起こっていて、この、いつも陽菜子さんと過ごした朝の時間だけは、世の大多数の受験生と同じことをするのではなく、陽菜子さんと何かを共有する時間にあてたい、そんなことを思うようになっていた。
 だから、「楽しいこと」をやっている陽菜子さんと同じに、自分もこの時間は自分の将来に関係しつつも「楽しいこと」をやって過ごしたいと、そう思った。「楽しいこと」で頑張る者同士。そんな関係になれたら、それは、きっとどこかで繋がってる二人でいられるように思えたから。
 それで思いついたのが、古典について自分なりに何かをまとめてみるという作業をやってみようということだ。大げさに言えば、一つ論文を書いてみよう。そう思いついたのだ。
 タイトルはとりあえず適当に。まだまだ漠然としているような気がするけれど、昔から何故か心の片隅に強く残留し続けていた「越境」の概念に関係があるものということで「旅の和歌」を選んだ。旅の和歌には、国境を超えていく旅人の心情を詠(うた)ったものが沢山ある。そういったものを調べて、何か共通点とかを割出してみたら面白いんじゃないだろうかと思ったのだ。そんなことを考え始めて数瞬、キコは本当に自分が楽しい気分になってきていることに気が付いた。これが、陽菜子さんが言っていた「好きなことをやってパワー全開」という状態なのだろうか。とりあえず、旅の和歌をどんどん抽出して、解釈とか、その背景とかを調べてノートにメモしていこうと思う。最終的にはパソコンで書くことになるんだろうけど、考えをまとめるためのメモくらいは紙に書いていい。古典をやるのに、何でもデジタルにやってしまうというのも野暮だ。やっぱり古典的な手法も使ってみたいじゃないですか。
 そんな、気分が高揚してきて、まず手始めに一番手近な高校の国語便覧から当たっていこうと本棚に手をかけた時、携帯から振動音がこぼれた。陽菜子さんからのメールだ。最近は不規則気味の生活でファーストビジネスの作業に没頭しているみたいな陽菜子さんに、今日は堂々とした気分で返信しよう。自分も未来に向けて、楽しいことを始めたんだって、そう伝えよう。キコはそう思ってワクワクを押さえきれないまま携帯をスライドさせた。

  ◇

 陽菜子さんから毎日届く経過報告のメールと、兄さんにあの日陽菜子さんと話した内容を問い合わせた話とを総合すると、陽菜子さんがやろうとしていることは、簡単に言っちゃえば、「シロックマに関する情報をインターネット経由で販売する」ことみたいだった。笑うなかれ。たかが白熊、されど白熊。兄さんに聞いてみても、これが十分ビジネスとして可能だし、面白い試みなのだそうである。
 陽菜子さんは前からインターネットでブログ(ネット上に公開している日記のようなもの)をやっていたんだけど、あの通り、面白い人だから書く文章もそりゃとっても面白くて、結構な人気ブログになってたの。そこを見てくれていた閲覧者の皆様に、どうやら今回はお客さんになって頂くという運びのようだ。
 ブログの内容は当然の如く最近陽菜子さんがハマってたシロックマの話題がここしばらく多くなってたんだけれど、それに加えて兄さんのアドバイスで、陽菜子さんはシロックマ専門情報サイトを今回立ち上げたの。当然今まで書いてたブログからリンクを張ってそっちにお客さんを流すわけだから、これが最初からスタートダッシュなサイトになったというわけ。もともと陽菜子さんのブログを読んでシロックマに興味を持っていた人が多いし、陽菜子さんのブログは「シロックマ」関連のキーワードで検索エンジンで検索すると上位に表示されるくらいのブログだったから、効果はてきめんだったというわけ(本当は、この時点でSEOがどうのと、兄さんと陽菜子さんだけが分かってる水面下での努力が既にしてあったみたいなのだけど)。
 そして次に、陽菜子さんは前々からやっていて陽菜子さん的には熟練しているネットオークションでのシロックマグッズの入手、販売に力を入れ始めたの。レアもののシロックマグッズを中心にまずは売りに出して、基礎資金を稼ぐ。そしてお金を稼ぎつつも、取引時のやりとりなんかを通してお客様に陽菜子さんのシロックマサイトを紹介したりして、さらにサイトへの集客を加速させる。それと同時に、ブログやサイトでの記事に、オークションとシロックマを絡めた内容のものをどんどんアップしていく。そうすることでどんどん陽菜子さんのシロックマサイトにシロックマとオークションに興味を持つ人が集まっ てくるというわけ。
 さらにダメ押しに陽菜子さんはシロックマとオークションをトピックにしたメールマガジンを発行したわ。読みたい人がいつでも登録できて、登録した人には陽菜子さんからのメールが届く。陽菜子さん側からすれば、陽菜子さんのやっているシロックマとオークションに興味がある沢山の人に、いつでもメールが送れるという仕組みなわけ。これもブログ、シロックマサイト、オークションでのやり取りの最中なんかを使ってどんどん宣伝して登録者を増やして、今のところ順調に、いや、かなりのペースで規模を拡大してるみたい。

  ◇

 陽菜子さんが自分のビジネスの活動を頑張ってる間、キコの方もやると決めた論文作りの活動を頑張った。
 まずはピンときた旅の和歌の抽出から初めて、その背景を調べる。兄さんからのアドバイスもあって、作業はそうやって調べた和歌の背景にある心情の共通点に絞った。あ、この歌とこの歌、読まれた時のバックボーンが同じだな……とか、そういう風に気付いたのを中心にどんどんと共通点をリストアップして考えをまとめていく。この作業が、自然と当時の歴史や文化の背景も勉強することになったりして、なんだか昔の人の想いに触れてるような気がして、キコにはささやかな幸福感が感じられる作業だった。
 もちろん、陽菜子さんとのメールのやり取りでの励まし合いも楽しかった。充実した時間だった。
 陽菜子さんがその日のオークションの売り上げを報告して、お客さんからこんな励ましのメールを貰ったというメールを送ってくれば、キコは今日はこんな和歌について調べて、こんなステキな心情に触れることができたということを熱く返信した。
 遠く離れていても、それは充実した時間だった。どんなに遠く離れていても、陽菜子さんを近くに感じている気がしていたし、そして、それぞれがそれぞれに頑張りきった時、必ずまた会えるという確信が、何故だかキコの胸には溢れていたから。
 そんな時間を過ごして、三週間が過ぎた。

  ◇

 明日、キコは久々に早朝に陽菜子さんと会う約束をした。陽菜子さんに直に会うのは兄さんと陽菜子さんとで会合した夜以来のことになる。
 そろそろ陽菜子さんの出席日数がやばくなってきたという折りに、陽菜子さんの方の仕事がなんとかかんとか一区切りついたという連絡が陽菜子さんから入り、陽菜子さんの方から誘ってきた。キコの方もまがりなりにも三十ページあまりのささやかな論文を書き上げた所だったので、迷うことなく了承の返事を返した。
 枕元に携帯とシロックマをおいて、何とは無しにここ数週付き合った旅の和歌のいくつかを詠じて眠りにつく。明日は陽菜子さんと会える。いつか陽菜子さんも言ってたように、明日は陽菜子さんといっぱい話そう。

  ◇

 いつもの大橋の手前の休憩スペースで携帯をくるくると所在なく回しながら待っていると、橋の向こう側から、しばらく会ってなかったけど心象的には見慣れた女の子が手を振りながらゆっくりと歩いてくる。
 早朝というよりもまだ夜明け前とでも言えるほどの時間だ。押さえがたいワクワクのせいか、いつもの時間よりも相当早くにキコはマンションを出て待ち合わせ場所に着いていたのだけど、どうやら陽菜子さんの方も同じだったらしい。
 太陽がまだ顔を見せない薄暗い町の片隅。
 町の地名的には、橋のこちら側が一丁目、向こう側が二丁目、それだけの意味合いの橋を、何とはなしに今日はキコの方からも橋の中程に向かって歩いていく。
 橋の真ん中でちょうどご対面してご挨拶。
「やっ、キコちゃん、久しぶり!」
「いえいえこちらこそ……って別に変わらないね! 陽菜子さん!」
 相変わらず白が基調の衣服をまとった陽菜子さんと、黒が基調の衣服をまとったキコとが、橋の欄干に並んでもたれかかって、二人でそっとまだ薄暗い遠くの空を見上げる。
「まずは私の方から話そうかな」
 そう陽菜子さんが切り出した。
「結果から言うとね。レアものシロックマの入手法を中心にまとめたイーブック、完成したの」
「おめでとう!」
「あはは、ありがとう! 名付けて、『シロックマノウハウ―少ない投資でレアものシロックマを手に入れる例の方法―』なんだけど、これを販売するわ。ブログにサイトにメルマガに、見込み客の集客もまあいい線までいってる。あとは一斉にセールスレターを送って販売を開始するだけ。あとは、紀之先輩のアドバイスを参考に、決済とかその他もろもろ極力自動化して私がそんなに手を加えなくても売れる仕組みも作った」
「すごい! いよいよ『ビジネスオーナー』デビューだね!」
「あはは、本当に売れるのかどうかとか、まだ全然分からないんだけどね。でもなんとかここまでやってこれたから、とりあえずやってみるって感じかな。キコちゃんの方は?」
 キコは一旦正面から陽菜子さんに向き合うと、手にしていたバックから紐綴じで簡易製本した論文を取り出し、陽菜子さんの前に差し出した。
「CDに焼いて渡した方がイイかなとも思ったんだけど、どうしても紙の質感と一緒に読んで欲しくて……。兄さんには書いてる途中に何度も読んで貰ってチェックしてもらったけど、完成版の最初の読者は陽菜子さんだよ。なんか、うんと楽しんで書いてたら、論文っていうよりエッセイみたいになっちゃったんだけど、良かったら感想聞かせて」
「あはは、私もアナログも好きだよ。がっつり紙で読むよー。ひゃー、こうやって綴じてあると本当に立派だね。いつか、本当に出版社から製本された本を出してよ!」
 そういって陽菜子さんは受け取って笑った。
「ねえ」
 再び空に向き直ってキコは切り出した。
「どうして、起業家になろうと思ったの? クワドラントの壁を越えるのは、大変なんでしょう」
 陽菜子さんは、さして迷う様子もなく、それでいてちょっとだけ照れたような口調で言った。
「楽しそうだったからかな」
 空を見上げたまま陽菜子さんは語る。
「本当はね、今でも、不安とワクワクと半分くらい。だけど何故だろう。色んな雑音を取り払った所で、心の中に残る大事な直感みたいなものがそう告げているの。こっちに行ったら楽しいって。それは、何ものにも代え難いものだわ。本当になりたいもの、行きたい場所がそっちだって分かっちゃったから。だったら、迷わず行ってみちゃおうって、本当にそれだけなの。そこに、たまたま壁があった。ただ、それだけ」
「そうか、そうなんだ」
「キコちゃんは?」
 そう聞かれて、キコも整理できた胸のうちを陽菜子さんに伝える。
「私も同じ。陽菜子さん、色んな場所を私に見せてくれただけで、一回も一緒に起業家を目指そうとも、私は頑張って先生を目指してくれとも、言わなかった。当たり前だよね。私がどうしたいか。私が本当に楽しいって思える場所がどこなのか、私にしか分からないものね。だから、この三週間私も直感のままに自分の楽しいことをやってみたわ」
「うん」
「結論は、やっぱり古典の先生になりたい。だって、本当に楽しいんだもの。この楽しさ、沢山の人に、次の世代に、伝えたいんだもん。ずっと昔から伝わってきた色んな人の想い。そんな想いを伝える人の一人に私もなりたいんだもん。私の行きたい場所はそっち。だけど陽菜子さんと違って、たまたまそっちに壁がなかった。それだけ」
 そこまで聞くと、陽菜子さんがポケットから携帯を取り出してスライドさせた。
「そんなキコちゃんだから、好き」
 メールの送信画面が立ち上がる。
「だから、一緒に押して欲しいの。一押しで、一斉に私のファーストコンテンツの販促レターが集めたお客さん全員に送信されるようになってる。このボタンは起爆ボタン。私が超えなきゃならないクワドラントの壁を崩す、最初の小さな爆弾に繋がってるの」
 うっすらと東から太陽が登ってきてキコと陽菜子さんを陽が照らし始める。
「うん、いってらっしゃい」
 ふたり、空にかざした携帯に手を添え合って、エイッと一緒にボタンを押す。
 長めの「送信中」の画面。陽菜子さんの「楽しさ」を携えたメールが、空に向かってバラまかれていく。
「どんな人達が、陽菜子さんのメールを読むんだろうね」
「ゲームセンターの店員さん、キノコ工場の社長さん、ITビジネスのオーナーさん、投資家さん、主婦さん、八百屋さん、フリーターさん、誰でもありさ。シロックマ好きには、クワドラントの境界がないから」
 陽菜子さんの方を向き直ると丁度瞳が合ったので、少し照れ笑いを浮かべてから瞳を閉じてキコはこう詠じた。
 
 するがなるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
 
「これは『駿河(するが)にある宇津(うつ)の山のほとりでは、現実にも、夢の中でも、恋しいあなたには逢えないのですね』っていう感じの歌なんだけどね。離愁郷愁の気持ち。これが今回論文書きながら私が感じた越境の歌に込められた共通する心情なの。ねえ、陽菜子さん。陽菜子さんはどんな気持ちでクワドラントの境界を越えていくの?」
 そうしたら、陽菜子さんはすっかり顔を出した太陽を背負って光の中で笑いながらこう答えたの。
「夢でも、現実でも、逢いたいときはいつだってキコちゃんに逢いに行っちゃうよ。別に私達の間にベルリンの壁や万里の長城があるわけじゃぁないんだもん。ううん、たとえそのくらいおっきな壁があったって、私達には無敵の携帯電話があるじゃない? 誰がダメだって言ったって、私、ヤアッってメール出しちゃうもん!」
 そう言った陽菜子さんの表情があまりにも晴れ晴れとしていたからかな。なんだか、昔から想いを馳せていた、自分と大事な人との間を分かつ壁ってヤツは、実はひどく低くてこぢんまりとしたものだったんじゃないかなんて思えてきて、なんだかとっても心が軽くなったの。その人が、壁の向こう側にいるとしても。顔も見えるわ。声も届くわ。メールもできるわ。だったら、頑張れる。何故だかそんな気がして、キコは陽菜子さんの両手を取って大きな声でこう言った。
「陽菜子さん、明日も遊ぼうね!」
 って。
                 完



WEB拍手で感想を送る
メールフォームで感想を送る






TOPへ >> オリジナル創作小説 >> 陽菜子さんの容易なる越境TOPへ >> 1/ >> 2/ >> 3/