†オリジナル小説†


【陽菜子さんの容易なる越境-海外ビジネス編-】


 第一話「おかえりと、またはじめよう」


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 時節は夏の始まり。
 四季往々に、それぞれの素晴らしさがあるこの国の風土ですから、当然のようにこの季節に読まれた歌もあるわけですが、詩的な世界に自分の将来を投影していたような多感な青春時代をだいぶ昔に通り過ぎてしまった私としては、今日という日に相変わらず巡ってくるお仕事の難題の方に意識がいってしまったりして。

「しかしね、紀子ちゃん。生徒たちが戻って来ない。新たに呼び込もうにも、そもそもこの地域にやって来る非日本語話者がいないっていうこの状況。根が、深いよ」

 モジャモジャのあごひげをすっぽりとマスクで覆った塾長が、目をパチパチと瞬かせながら言った。

 場所は100メートル離れた所にある大型のショッピングモールと比べると、ずいぶんと頼りない印象を受ける3階建のビルディング。2階が教室で、3階が事務所なのだけど、2階の教室には今、人影がありません。春先の大きな地震で、本国に帰国してしまったり、仕事の環境が大きく変わってしまったりで、この場所で日本語を学んでる場合ではなくなってしまった生徒が多いからです。

 簡単に言ってしまえば、私が選んだ職業というのは日本語の先生。日本語を非母語話者、外国の方々に教えるのが仕事です。学生時代に志した国語や古典とも一応繋がっているし、自分としてはようやくプロとしての意識も芽生えてきた所だったり。昔描いた理想は半分、もう半分は現実に合わせて調整しながら生きていく、そんな一種の人生で生き残っていくためのテクニカルさが、大人になりながら可能な限り「自由」の枠組みで生きていくには求められる、そんなことも思います。

「塾長先生、そもそもこの街に、外国の人たちが滞在するメリットが薄れてるってことですよね。滞在するメリットがないから、そもそも手段としての日本語を学ぼうなんて人がいない」
「もっと言えば、この国に、ですかね。南の県で起きた科学文明推進と大量消費自己拡大経済を是とする精神が結びついている限りいつかは起こったであろう事故は、この国の一種のブランド的価値を大幅に減衰させました。この街なんて、そこから90キロしか離れてない訳ですから、わざわざ海外の人が何かしようと思った時にこの街を選ぶかというとね。難しいよね」
「何か方策はないんですかね。生徒もいない、職員も私の他はのんびり屋の鴻上君しかいなくなったこの状況、にっちもさっちもいかないと思うんですけど」

 生徒さんのみならず、5人いた職員も1人は帰国し(海外の方でした)、1人は疎開し、1人は新しい職を探しはじめ、2人だけになってしまいました。残った的葉くんはいわゆるゆとり世代のイケメン君ですが、事務仕事は俊敏なんだけど、日本語を教えるのは苦手だったりします。

「もともと、日本語教育なんて、公的な機関か、さもなくばボランティアベースじゃないと成立しなかった訳です。直接学習料を払えるような外国人って、日本語学習者の中じゃ少ないからね。それでもうちが小さい企業で日本語教育をビジネスにできていたのは、これは外国人の中でも富裕層にターゲットを絞るマーケティングをしていたからです。とりあえず直接授業料を払ってくれるからね。でも何というか、富裕層、お金持ちな外国人ほど、今この国に来ないよね。むしろ皆去って行っちゃってる」
「八方塞がりじゃないですか」
「フォっ、フォっ、フォっ、どうしましょうね」

 塾長が少し他人事みたいに笑って言った。ちなみに、塾長の笑い方は少しバ●タン星人に似てるなと、密かに思っています。

「コンサルタント、頼んでもいいですか?」

 そこで、もともとするつもりだった提案をしてみる。

「ビジネス系の? この状況を打開できるならやぶさかではないですが、当然かかる料金によりますよ。何しろ生徒がいないんです。使える経費は限られてます」
「私の親友なんですが、ちょっと意味不明なくらい商才がある子で、コンサルタントみたいなことも結構やってるんです。今日の午後S空港に着く予定で、私迎えに行くんですけど。ちょっと、なにをしに帰ってくるのかは知らないので、正式に契約してくれるとかは全然分からないんですけど、アドバイスくらい、お願いしてみようかなって」
「親友なのに、何をしに帰ってくるのか分からないのかい?」
「はい、最近はそんな関係の親友なんです」
「でも、商売の腕は信頼してるわけだ」
「はい」
「言い切るね」
「はい、本当に凄いですから」

 塾長は一度眼鏡を外して上の方に掲げ、レンズから何か覗き込むような仕草をみせた。

「何か、見えましたか?」
「ふむ、吉兆が見えるね。どうやらその子にアドバイスを求めた方が良さそうだ」
「あの、占い的な何かで決めたのでしょうか?」
「いや全然。決めたのは、ただ君がその子を信頼してるみたいだから」

 塾長はもう一度眼鏡をつけると、またバ●タン星人みたいに笑いながら、悲しいような良いことのようなことを口にした。

「お金もない。国も信頼できない。私なんて娘や孫まで西日本で暮らしていて、私への関心も薄い。最後に信じられるのは、この状況でも愛に溢れているあなたの中にあるという、"信頼"くらいのものですよ」

 ◇◇◇

 午後。生徒もいないのでそもそも必ずこなさなければいけない仕事がないという状態の学院を定時よりも早く退出させて貰って、S空港へと向かう道を軽自動車を走らせます。

 空港へと続く道はだいぶ片付きはじめてはいるものの、所々に集積した瓦礫に、流木や打ち捨てられた車が見られて、ガードレールはひしゃげ、道路はヒビ割れに変形に陥没にと、傷ついています。

 控えめに言っても「惨状」という形容がまだふさわしく、今年に限っては私はまだ春の息吹も感じることができなかったし、陽光に胸が高鳴ることもありません。趣味に職業に、季節を感じて和歌を作ってみたりするのは好きだったはずなのですが。

(今、海外の人が何かしようと思った時に、わざわざこの街を選ぶだろうか、か……)

 塾長の言葉に、現実の映像が説得力を持たせます。確かに、私が海外の人だったとして、今この街に来るでしょうか。帰国して行った生徒にも同僚にも恨みの感情はないですが、いざ、実感としてこの街の無価値感を感じてしまうと、なんだか寂しい気持ちが湧いてきます。愛郷心と言うと大袈裟ですが、やはり生まれて育った街ですから。

 津波が到達した爪痕を色濃く残す空港の一階付近の駐車スペースに自動車を止めて、フと、この空港という近代的な建築物を見上げます。春先の地震から一ヶ月で運行を再開した力強い人間の営み。そして、ここから他の国へ、他の街へと行くことができる、一種の「境界」。

 でも、今はきっとこの境界から外へと出ていく人は多いけど、中へと入ってきてくれる人はいない。そんなことを考えた時、私は十代のある時期を境に消えたはずの、「境界の概念にまつわる憂鬱」を思い出しました。

 何故でしょうか。弱く表現しても、「何かが怖い」。そんな感情が、じわりじわりと内側を蝕んで来るのです。きっとその感情の半分は、昔考えた「境界の向う側に行きたい人」の情動が、今では幼い頃に考えた意味とは、違う意味で分かってしまうから。それはつまり、境界のこちら側に残された人達は……


――でも、その時、回復した電力が維持している空港の入口の自動ドアが開いて。

――出てきた彼女は、終わった十代と共に変えたショートカットの髪がよく似合っている。奇怪な文様がほどこされたロングスカートと、夏の日差しを遮るケープは、ちまたに溢れるエスニックファッションとは異なる、あくまで彼女のオリジナルで。

――ネットにアップされる写真でお馴染みの顔も、実物は相変わらず気絶しそうなくらい綺麗で。

――そして今でも、いつでも変わらずに凛と胸を張って。


「お、キコちゃん、久しぶり」

 私は何で泣いてるのって突っ込まれるのが嫌で、びっくりするくらいのスピードで袖で涙をぬぐった。

 ある十代の春の日、橋の上でこの親友と、私達に境界は意味がないと語り合った。

 今、この街を隔てているものは、春先にあった出来事か、国か、経済か、違う何かか。よく分からないけど、昔、幼い私達が感じていたものとは、また違う種類のもののような気がする。

 私の中では何も解決していない。それでも、その日、陽菜子さんはこの街に帰ってきた。それだけは紛れもない事実で。真実で。

「お帰り」

 陽菜子さんは不敵な笑みと共に、十代の頃から変わらない擬似敬礼のポーズをとって答える。

「ただいま、一緒にまた、はじめようか」

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