†オリジナル小説†


【陽菜子さんの容易なる越境-海外ビジネス編-】


 第一話「おかえりと、またはじめよう」


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 一世紀の五分の一ほどの彼女の人生は、歴史を生きたというにはあまりに痕跡がぜい弱で、生きた証はショッピングモールの片隅で購入したスーツケースにまるっと収まってしまう程度のものだった。

 衣服や髪留め。心の余裕を志向してつけてみた香水。そんな直接的な彼女の残滓の他に、スーツケースには一冊の本が納められている。

 ケーニヒスベルクという所で生涯のほとんどを過ごした、世の中の考え方に大きい影響を与えた哲学者の本である。世界の平和について書かれたその本を、どういう気持ちで彼女が愛読していたのか、その本懐を知る者は「今は」いない。

 仮にいたとしても、それは大きい母数での記憶の共有を仮に歴史と呼ぶのなら、そんな彼女の意志を知る人間も、彼女自身も、とても歴史的な人物とは言えない類の人間である。

 打ち捨てられたスーツケースは閉じた部屋の片隅で眠っている。彼女の願いは境界を超えることはなかった。彼女の願いは、届かなかった。そんな話は、どこにでもある。

 ただ少しだけこの話の特異な点を付け加えるなら、全ての前提に、「今はまだ」という言葉を挿入する必要がある点なのだけれど。

 ◇◇◇

 詰んでいる。それが率直な感想だ。人生とか、社会とか、世界とか、色々についての感想である。

 そもそも俺、的葉流星(まとばりゅうせい)には僅かばかりの勝因もなかったように思える。人のせいにはしたくない。そのくらいの自負心はある。俺の方に要因があったのだろう。こういう場合一般的に言われるのは努力不足であるけれど、それとは少し違うということも自分自身で理解している。単純に、乗れなかったのだ。というよりも、自分は乗れない側の人間だったのだ。

 パズルが好きなんだがね。ある一般論として、確かに絵が完成するまでには全てのピースが必要だろう。そこに無駄なピースは存在しない。言うなれば、努力っていうのは最適なピースを探し、それが当てはまる最適な場所を探す、そういうことにかける時間や熱量のことだ。

 だがね、俺はそこにはかなり前提が抜けていることに幾ばくかの印象的な経験から気づいた。こう指摘したい。完成系の絵が描かれる以前の話についてだ。完成系の絵というのは、その時点で選ばれている、と。色も、構図も、モチーフも。
 
 つまり背後には、無数の選ばれなかった色や構図やモチーフがある。俺はそちら側の人間だ。必要とされるパズルのピース以前の存在。たぶん、完成系の絵にはそもそも前提からして俺がいない。

 唐突に尊敬できる同僚の話をする。名を桶川紀子(おけかわのりこ)という。ありふれたがんばり屋の、悩み多き、だが黄金の心を持った女だ。

 青春時代から親の介護が必要な家庭で、弱きをいたわりながら、独立独歩で日本語教員の資格をとり、社会人として学生(当然海外出身者が多い)を世に送り出すこと三年目。身近な人間を大事にしながら世界に貢献している。本当に人間として尊敬している。

 今日も彼女は遠い世界からやってきた親友というコンサルタントと、学院を立て直すために奔走している。俺は「諦める」という選択肢が最初から彼女になかったことに驚いている。かなり多くの人間が絶望しかけてからまだ五ヶ月ほどだが、その間、桶川紀子は一度も瞳の光を失わなかった。そのエネルギーの供給源を知りたい。

 ただ、また唐突に春先の地震とは別の動機に基づく俺の屈折を告白すれば、桶川紀子は尊敬できる同僚だが、友人でもないし、同じ人間かどうかも怪しく思っている。俺と彼女の距離は、壁の向こう側とこちら側にいるように隔たっている。

 彼女は、完成系の絵に含まれる側の人間である。俺と美星(みせい)は含まれない側の人間だったから、たぶん彼女と解り合うことは一生ない。

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