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「アンジェリーク! 私がわからないのですか?」
彼女は首を振った。
「アンジェリーク? ・・・それは私の名前?」
「そうです。アンジェリーク。・・・覚えてらっしゃらない?  頭を打ってしまったのでしょうか。すみません。私が付いていながら・・・」
「えっと、あの、あなたのせいじゃないと思います。頭は痛くないです。あの・・・」
「リュミエールです」
「リュミエール、さん? あの・・・」
アンジェリークが何か言いかけたとき、小さな町の方から一台の荷馬車が近づいてくるのが見えた。

「おやまぁ、あんたたち、どうなさった?」
おかみさん風の女性が馬を操りながら声をかけた。
「お困りのようだね。あたしんとこいらっしゃいな。さぁさ、こっち乗って」
ふたりは厚意に甘えることにした。ここがどこかもわかっていない。でも、休むところは必要だ。
荷馬車は丘の上から見えていた小さな町に入り、石畳の上ををガタゴトと走って行った。
町の中心らしい賑やかな場所に入ると、馬車は歩みを緩め、やがて宿屋の前で止まった。
「さぁ、どうぞ。部屋を用意してあげる。お代なんか気にしなくていいよ。ある時払いでさ」
ふたりは宿屋の二階の奥まった部屋に案内された。
「着の身着のままで駆け落ちしてきたってとこかい? あはは、いいねぇ、若い人たちは」
「えっ、あの、違うのです」
「違うのかい? そんでも、このお嬢さんはあんたの恋人なんだろ? 馬車が揺れるたんびに気遣ってたじゃないか」
「いえ、違うのです。・・・残念ながら」
「残念ながら、ねぇ・・・。ま、いいさ、お昼ご飯になったら呼んだげる。それまでゆっくりしておいで」
おかみさんは意味ありげな微笑を残して階段を降りていった。
「あの、リュミエールさん。あなたは、その、わたしの・・・、恋人さん?」
リュミエールは少し悲しげな顔をした。
「いいえ、今もあの方にいいましたが、違うのです」
「でも、残念ながらって?」
「あ、それは・・・。失言でした。お忘れ下さい」
「あの、でも」
尚も食い下がろうとするアンジェリークを軽々と持ち上げたリュミエールは、そっと彼女をベットに横たえた。
「お疲れでしょう? 少しお休みください」
本当に疲れていたのだろう。アンジェリークは間もなく眠りに落ちた。
アンジェリークが眠ったのを確認すると、リュミエールは窓辺に向かい、窓を開けた。
見知らぬ町並み。見知らぬ人々。でも、不思議と昔から知っているような懐かしいたたずまいがあった。
『彼女の記憶が戻らないのなら』
リュミエールはそっと思った。
『いっそここで暮らすのも悪くないかもしれませんね』
新しい宇宙の女王と水の守護聖がいなくなったのだ。今頃聖地では大騒ぎになっているだろう。
だが戻ろうにも戻る術がない。迷いの森で穴に落ちたと思った。が、丘から見上げた空には穴など無かったのだ。

「ご飯だよー!」 おかみさんの良く通る声が階下から聞こえてきた。
アンジェリークは、と見るとすやすやと眠っている。
おかみさんの厚意を無にするわけにもいかず、リュミエールはひとりで階下へ降りていった。


「困った、本当ですよ。町長さんとこの息子さんの結婚式は明日だって言うのに、今日になってオルゲイが怪我をするなんてね。 まったくついてない。バイオリン弾きがいない楽団なんて格好がつきませんよ。ねぇ、ハリエッタ、 こうなりゃ私がバイオリンを弾いてあんたにタクトを振ってもらいますかね」
「団長さん、冗談はなしだよ。あたしに指揮が務まるもんかね。オルゲイの代わりはいないのかい?」
「いればこんなに困っていませんよ。もう少し時間があればまだしも、式は明日なんですからね」

宿のおかみさんと楽団の団長らしき人とのやりとりを黙って聞いていたリュミエールはここで声を上げた。
「あの、バイオリン弾きをお探しですか?」
「ん? あんた、見かけない顔だけど、ひょっとしてバイオリンが弾けるって?」
「はい。多少は」
「本当に? そりゃありがたい。早速だけどあんたの腕前がどれくらいのものか試させてもらいますよ。 今からいいですか? バイオリンはお持ちですよね?」
「いえ・・・」
「団長さん、この人はね、娘さんと二人して手に手を取って駆け落ちしてきたんだよ。着の身着のままでね」
「あの、おかみさん、それは・・・」
「あっはっはっは! わかりました。バイオリンはオルゲイのを貸しましょう。では一緒に来てください」
それから話はトントン拍子に進んだ。リュミエールは楽団長の期待に十分応え、 オルゲイの代わりのバイオリン弾きとして正式に雇われることになった。


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