(3)
次の日、噴水の前で待つリュミエールにアンジェリークが駆け寄ってきた。
「すみません、お待たせしちゃって」
「いいえ、私が早く来すぎたのです。あなたが気になさることはないのですよ。ここにいると街の人々の様子がよくわかります。あなたをお待ちする楽しみも手伝って、あっという間に時間が経ってしまいました」
アンジェリークは返事をする代わりににっこりと笑って観光地図を取り出した。
「えっと、リュミエールさんはどこか行きたいところとかあります? 市内観光なら半日くらいでできますけど、もし、時間がおありなら、とっても綺麗なところがあるんです」
「時間ならたっぷりありますよ。あなたのお勧めのところなら素敵な時間が過ごせそうですね」
熱のこもった視線を受けてアンジェリークはドギマギした。
『どうして私は昨日会ったばっかりの人の案内を買って出たりしたのかしら。そりゃあ、助けてもらったんだからお礼をするのは当たり前だけど。
この人はとてもステキで優しそうに見えるけど、やっぱり男の人で、ふたりきりになるかもしれないのはマズイんじゃないかな。でも、もう言っちゃったんだし、どうしたら・・・』
「どうかされましたか?」
小首を傾げて少し心配そうに尋ねるリュミエールに、アンジェリークは思わずこう答えていた。
「どうもしません。そ、それじゃあ、お弁当を用意して森の湖まで行きましょう。夕方までには帰ってこられます。それでいいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
「あ、こちらこそよろしくお願いします」
頭を下げながらアンジェリークは『どうしてこうなっちゃったんだろう』と考えていた。
考えてはみたが、今更断る気もなかった。
『この人が悪さをするようには思えないし、いざとなったら逃げちゃえばいいか。森の湖なら逃げ場所はいくらでもあるもの』
アンジェリークは、あまり物事にはこだわらない性格だった。
「ああ、素晴らしいですね」
街の外れから十分も歩くと、街の喧噪が嘘のような静かな森に着いた。
森に入り、なだらかな小径を行くと急に開けた場所に行き当たり、その先は豊かな水を蓄えた湖だった。
湖の向こうには切り立った山の稜線がぼんやりと見えていた。あの山の頂上から先はアクア王国だ。
「気に入っていただけました?」
「はい、とても」
アンジェリークの顔がぱっと輝く。
「あー、良かったぁ。ひょっとしらこういう風景は見慣れてらして退屈かなって、そう思ってたんです」
「どうしてそう思われたのですか?」
「あの、ですね。リュミエールさんはひょっとしたらアクア王国の方かなぁって。アクア王国は風光明媚なところが多いって聞いてましたから」
「くすっ、風光明媚、ですか。それは嬉しいですね。・・はい、あなたの仰る通り、私はアクア王国の者です」
「やっぱり! あの、リュミエールさんのお名前って、確か、第三王子様と同じですよね。アクア王国には多い名前なんですか?」
「えっ? ・・・・ええ、そうですね。そんなに珍しい名前では無いと思います」
「そうなんですか。やっぱり国によって多い名前ってあるんですよね。この国では王子様もそうですけど、
‘オスカー’なんて名前の人はいっぱいいるんですよ」
「くすくす。そして、女性の方は‘アンジェリーク’さんがいっぱいいらっしゃる」
「そうなんです! あ、アクア王国でも‘アンジェリーク’は良くある名前なんですか?」
「ええ、たくさんいらっしゃいますよ」
「やっぱり。<天の女王様>のお名前はどこの国でも人気がありますよね。私、時々思うんです。こんな平凡な名前じゃなくて、もっと、違う名前だったら良かったのになぁなんて」
「‘アンジェリーク’は<天の女王様>のお名前でもありますが、‘天使’の意味を持っていますからね。世の親は自分の娘が天使のように育つことを期待しているのでしょう。
私は‘アンジェリーク’という名前はとても可愛らしくて、あなたに良く合っていると思うのですが」
「えっ? あ、あの、・・・・・ありがとうございます」
真っ赤になって俯いてしまったアンジェリークを愛しげに見つめ、リュミエールは静かに話し出した。
「昨夜はアルカディアの町について少し勉強いたしました。この街は昔、アクア王国の一部だったのですね」
アンジェリークは顔を上げてリュミエールを見た。
端正な横顔が少し曇っているように見えるのは気のせいだろうか。
「しかし、これといって資源が無いアクア王国は、ファイヤ王国西部の鉱山の町と、文化の栄えた自然の美しい街アルカディアを交換することに合意してしまった・・・。もう百年以上前の話です」
アンジェリークはリュミエールの話しを聞いて、昔、良く祖母に話してもらった‘伝説’を思い出した。
「はい。それと同時に伝説も消えてしまったそうです」
「伝説、ですか?」
「聞いてもらえますか?」
「ええ、もちろんです。教えてください」
昔、ひとりの女王が治める国がありました。仲の良かった隣国の女王に子供が無かったため、ふたりの王女の内ひとりが隣国に養女に行くことになりました。
王女には想い人がいましたが、想いは胸の中に閉じ込めて誰にも言いませんでした。女王の近衛兵だった王女の想い人は、王女と一緒に隣国に護衛として遣わされることになりました。
その近衛兵の方も王女のことが好きでしたが、身分違いと諦めていました。王女が新しい国に慣れた頃、護衛の近衛兵も国に帰りました。
王女は次期女王として、優しい養父母に見守られ何不自由なく暮らしていましたが、皮肉なことに女王に子供が授かったのです。
女王の子供が成人の儀を執り行った後、王女は引き留める養父母に心からの礼を言って国に帰りました。国の次期王女はもうひとりの王女と決まっています。
王女の本当の母である女王は王女に小さな町を任せることにしました。王城の都から離れた風光明媚な土地に降り立った王女を出迎えたのは、王女が片時も忘れる事の無かったあの近衛兵でした。
彼は女王の許しを得て近衛兵を退官し、王女を待っていたのです。ふたりは任された町を住みやすい良い町にすることに一生を費やし、人々に慕われ、末永く幸せに暮らしたということです。
話し終えたアンジェリークはそっとリュミエールを見た。
リュミエールは何やら考え込んでいたようだが、アンジェリークが見ていることに気付いて微笑んだ。
「ありがとうございました。素敵な伝説ですね。・・あの」
「何か気になることがありました?」
「ええ、あの、今のお話がここ、アルカディアに纏わるものなら、女王の国はアクア王国で、その隣国がファイヤ王国ということなのでしょうか?」
「うーん、どうでしょう。もうずっと昔の‘伝説’だから、そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないですね」
「‘伝説’ではないかもしれませんよ」
「えっ?」
「アクア王国の歴史では、およそ二千年前の女王の時代、ふたりの王女がいて、ひとりはファイヤ王国に養女に出されたそうです。ですが、ファイヤ王国の女王になることはなく、王女のその後は歴史書には記されていませんでした」
「それじゃあ、伝説ではなくて本当のことだったんですね!」
「ええ、王女がその後この地で幸せに暮らしたというのも本当のことでしょう。ああ、安心致しました」
「安心、ですか?」
「くすっ、可笑しいですね。でも、あなたのお話を聞いてそう思いました。歴史書を読んで気になっていたのかもしれません」
晴れやかに笑うリュミエールにつられてアンジェリークも笑う。
「うふっ、リュミエールさんが私のお話で安心したんならそれでいいです。あ、そろそろお昼ですね。お弁当にしませんか?」
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