荒川区立第九中学校
1999.12.15/2001.7.21


●夜間中学
 この学校には都内に8校ある「夜間中学」が設置されています。(昭和32年・1957開設) 「夜間中学(公式には中学校夜間学級)」は何らかの理由で中学校に通えなかった人、やめてしまった人などの義務教育未修了者を対象としています。中国残留孤児の方で日本語があいまいという方もいらっしゃいました。昼間の私たちから見れば、年上の多いちよっと異色な同窓生ですが、彼らの学習に対する姿勢には強い印象を受けたものです。、また、先生と生徒の関係もとてもアットホームなものに感じました。夜間の生徒の方たちとは、公式行事以外は、あいさつをする程度の関係でしたが、見覚えのある年配の方(夜間中学生)を高校で見かけた時には妙なうれしさを感じました。(私の進学した高校の定時制に来ていたのです。)
 夜間中学というのは、あまり知られていないかもしれませんが、私が中学生だった当時は、TBSラジオの「全国こども電話相談室」の回答者として、荒川九中夜間部の塚原雄太先生(社会科)がご出演されていたことによって、多少はその存在が知られていたと思います。また最近では、山田洋二監督作品映画「学校」(第一作)の舞台として登場しています。まだ、見ていない方、ぜひご覧ください。なお、夜間中学については、(荒川九中夜間で教育実習され、小松川二中で教員になられた)松崎運之助先生の著書「夜間中学」「学校」などで詳しく知ることができます。(夜間中学全体が廃止の危機にあった時期に、自主映画「夜間中学生」製作など積極的な活動で夜間中学の存続に尽力された高野雅夫さんも荒川九中の出身です。)
 
LINK  [夜間中学のホームページ]  [KEI'S DREAMING(夜間中学)]     写真:平成11年(1999)12.1

[映画・学校]
 下町の夜間中学校の様相を主題とした名作「学校」。1993年度日本アカデミー賞を受賞し、今や続編も作られている「学校」シリーズの第一作は、全編において荒川九中が舞台となっています。
 映画は、町屋駅前のウエストヒル屋上から九中方面を撮影したと思われるシーンから始まり、町屋二丁目の都電停留場で主演の西田敏行が踏切を越えるシーンへと続くなど、近隣の風景も登場します。九中については、校舎はもちろんのこと、校旗・校章や夜間中学併設の告知看板などが登場しうれしく感じました。(なお、夜間中学併設の告知看板<上記写真>は、映画では「夜間中学があります。」となっています。また、通用門だけでなく、正門脇にも登場しています。その辺の経緯は不明です。映画用に表現を変えたり増設したのか、それとも、その後現物の看板の表記が変わったのか、正門脇の分が撤去されたのか・・・。映画中の看板の電話番号は九中のものでしたが。)
  監督:山田洋次   出演:西田敏行 竹下景子 萩原聖人 中江有里 裕木奈江 田中邦衛
  音楽:冨田勲     松竹100周年記念 日本テレビ開局40周年記念

●名物先生(昼間)
 東京荒川少年少女合唱隊の常任指揮者であった、故・渡辺顕麿先生が教鞭(英語科)をとられていた学校でもあります。(夜間ではなく昼間)3年次に学びましたが、机はゼミ形式のように並べ、テストは成績の悪い順に返却し、出来のよくない生徒を中心に指し・・・という、ちょっと変わった授業でした。その2、3年後に、先生が語っていたとおり、実家のお寺を継ぐために退職されたということでした。偉大な先生であるのでしょうが、詳しいことは知りませんでした。その後、荒川区地域振興公社(ACC)発行の「ほっとたうん・1989年12月号」の特集記事「荒川の人bP2」で取り上げられ、非常に懐かしく感じましたが、私がその掲載を知った時には、すでに故人となられており、時の流れに寂しさを感じたものです。
 
【故渡辺
顕麿先生・略歴
昭和6年(1931)青森県で生まれる 釜石中学出身
大谷大学で原始仏教学専攻  在学中、京都放送合唱団に在籍し声楽・指揮法を学ぶ
東大大学院・東洋大学哲学研究室でインド哲学を専攻
昭和36年(1961)荒川区立第九中学校・非常勤講師(英語)出講
昭和37年(1962)4月、荒川区立第九中学校・教諭(英語)赴任
昭和40年(1965)創設された東京荒川少年少女合唱隊の常任指揮者就任
昭和52年(1977)3月、荒川区立第九中学校・教諭(英語)退職
昭和52年(1977)実家の岩手県釜石市天神町の宝樹寺住職に就職
昭和52年(1977)12年間休団していた東京男声合唱団の復活に尽力し第5代指揮者就任
昭和55年(1980)東京男声合唱団指揮者退任
平成元年(1989)10月1日、東京都功労者に選ばれ表彰
平成8年(1996)11月、文部省地域文化功労者に選ばれる
平成8年(1996)12月9日、肺炎のため逝去 享年65歳
平成9年(1997)荒川区より特別に制定した文化顕賞を授与
 

LINK  [ACC・荒川の人・WEB版bP2] [訃報・産經新聞]

●校歌・校章
 校歌は作詞・サトウハチロー氏 作曲・渡辺浦人氏によって作成されました。昭和32年(1957)2月25日、荒川区会館(サンパール荒川の前身)にて校歌発表会を開催していますが、前年10月には完成していたようです。 
 校章は昭和28年(1953)5月1日に制定されました。図案・藤崎幸恵先生<九中創立の昭和28年4月1日から昭和53年3月31日の25年間にわたり在職>


●八城小学校跡
 荒川区立第九中学校は、八城小学校の跡地に開校しました。八城小学校は、昭和12年(1937)に八城尋常小学校として開校し昭和16年八城国民学校となりましたが、第二次世界大戦最中の昭和20年3月9日の、いわゆる東京大空襲により校舎が全焼しました。児童は被害にあわなかった赤土に収容され翌年3月31日をもって廃校となっています。現在、九中正門脇に記念碑がたっています。わずか9年しか存在しなかった‘幻’のような学校の存在を後世に伝えるために同窓生が最近建てたものだそうです。
  なお、「よあけ像」の台座は、八城国民学校にあった二宮金次郎像が金属供出され残った台座そのものです。

[年譜] 
昭和28年(1953) 旧八城小学校跡地に開校。2・3年生を荒川七中より編入。5月1日校章制定。
昭和30年(1955) 1月25日校旗制定。7月20日よあけ像除幕式。
昭和32年(1957) 2月15日夜間学級併設。2月25日校歌発表会。
昭和38年(1963) 仮称・第十四中学(尾久八幡中学)開校にともない、一部転籍。

●アド街ック天国的・荒川区へ戻る