勝手ながら、荒川区全域を対象にして、作ってみました。
アド街ック天国的・荒川区
ホンモノはこちら⇒ ●日暮里(1997.8.23 OA) ●町屋(1999.2.20 OA)
順位はあまり意味ありませんので、気にしないでください。
尾久の原公園/都電荒川線/あらかわ遊園/駄菓子問屋街/もんじゃ焼き/開成学園/鉛筆工場/銭湯
繊維街/日本水族館/武蔵川部屋/荒川自然公園/荒川九中/博善社・町屋斎場/回向院・小塚原
1. | 尾久の原公園 |
●トンボの公園として知られた都立公園です。20年程前まで大きな工場が立ち並んでいました。工場移転後、旭電化跡地として長らく広域避難場所に指定されてきました。現在でも避難場所になっているのでしょうけど、旭電化跡地という避難指示看板が今でも見られます。但し、現地はすっかり様相が変わり、隣接の都立保健科学大学を含めたこの地域は、荒川区らしくない雰囲気につつまれており、晴れた日には寝転がるだけで遠くに旅行に行った気分になれる(かもしれない)緑の楽園です。 詳細はこちら |
2. | 都電荒川線 |
●荒川を代表するとも言える都電荒川線。全29停留所(または停留場。駅じゃないよ!)の内、12停留所が荒川区にあり、まさに荒川区横断路線となっています。車庫も区内にあります。大正2年(1913)に開通してから周辺の街の発展に寄与してきました。現存する唯一の路線です。 詳細はこちら |
3. | あらかわ遊園 |
●近年、特に幼児にターゲットをしぼったと思われる大改修を行いました。狙いどおり、大人気のレジャー施設となっています。区立なので料金もリーズナブルで、小さい子でも安心の遊具や小動物園、芝生広場、徒歩池、プールなどがあります。そんなあらかわ遊園は、かつては大人向けのヘルスセンターだったのです。 詳細はこちら |
4. | 駄菓子問屋街 |
●正式名称「日暮里菓子玩具問屋組合(日暮里菓子玩具問屋街)」はわずか7件になってしまいました。日暮里駅前ロータリーのちよっと奥に入ると懐かしい‘駄’菓子がまっています。問屋ですが一般客にも箱単位で販売しています。マスコミも取材の対象にしようとしますが、正式名称でないと受けてもらえないみたいです。 詳細はこちら |
5. | もんじゃ焼き |
●荒川区内には下町らしく、数多くのもんじゃ焼きの店が存在します。全部で70を超えるようです。そのうち、町屋駅周辺には20数軒あります。かつては駄菓子屋さんにも見られたもんじゃ。そこで育った人々によってささえられているのかもしれません。本家のアド街ック天国でも、町屋編で第2位にランクインしていました。それだけ目立つ存在ならば、月島のように、地域単位でアピールすればよいのに、もったいないな、と感じています。 詳細はこちら<あらかわもんじゃタウン> |
6. | 開成学園 |
●荒川区のことをほとんど知らない(特に地方出身者)大学の同級生たちでも、西日暮里という地名、駅名は知っていました。そのわけは開成中高の最寄り駅だったからです。ホンモノのアド街ック天国・日暮里編でも第3位にランクされていた超有名校です。東大合格数トップクラスではなく、ダントツのトップです。公立中学出身の私にとって、開成中学はガリ勉のイメージを持っていましたが、実はスポーツもなかなか強いことをその後知りました。 開成学園は明治4年(1871)創立の共立学校を前身とし、明治28年(1895)に東京府立開成中学となり、明治34年(1901)に私学となりました。その後、関東大震災で校舎が焼失したため、大正13年(1924)0.に神田淡路町から現在地に移転してきました。その存在が荒川区の誇りでもありますので、いつまでも荒川区にいてね、と思っていましたら、校舎が新築されましたので安心しました。 ちなみに開成のグラウンドにおいて土器及び竪穴式住居址が発掘されています。(道灌山遺跡) |
7. | 鉛筆工場 |
●私の記憶が正しければ、かつて荒川区は家具製造日本一を誇っていた時代がありました。それと関連するのかどうかはわかりませんが、鉛筆製造が盛んでした。私が子供の頃でも(昭和40年代)、民家のようなところの軒先に洗濯板のミニチュアのような切断前の鉛筆が並べられているのをよく目にしました。今でも厳しい環境下にありながらも、輸出中心の製造あるいはユニークな鉛筆を送り出して頑張っているようです。まだまだ、荒川区、特に町屋周辺では数多くの工場・ブランドが健在です。最近ではバトル鉛筆で景気がよかったらしい。(過去形)・・・いつかもっと詳細にしらべてみよう。 |
8. | 銭湯 |
●荒川区には現在62の銭湯があります。件数そのものも都内では多い方ですが、面積比や人口比を考慮した数値で見ると、ダントツの密集地区となっています。自家用風呂の普及率が低かったことが、銭湯が多く作られた理由ですが、家屋の密集度の高さが再開発の流れを遅くし、結果、バブル経済後の現在まで比較的多くの銭湯が残っているのです。それでも最盛期のの昭和35年に94件あった銭湯が、バブル絶頂期に入る昭和63年にはまだ84件もあったのに、その後わずか12年ほどで、20件以上も姿を消してしまっているのです。銭湯王国も行く末が不安です。 詳細はこちら<銭湯王国あらかわ> |
9. | 繊維街 |
●日暮里を特色づける、駄菓子問屋街と繊維街。アド街ック天国・日暮里編でも上位にランクインしています。日暮里繊維街は東京日暮里繊維卸協同組合の加盟店舗(58店・2001.1現在)を中心に形成されています。もともとは、尾竹橋通りより東の第三日暮里小学校付近に集中していました。市域の拡大や関東大震災の影響で、ハギレ屋さんやラシャ裏地の業者が大正期に集まってきたようです。日暮里中央通りが戦時中に拡幅開通し、昭和30年頃になってから、日暮里駅により近い、この通りに集中するようになりました。 有名ブランドの生地もあり、安さにびっくりの繊維街です。 [東京日暮里繊維卸協同組合公式HP] |
10. | 日本水族館 (トロピランド) |
●昭和42年(1967)創業の熱帯魚屋さん。ココが人生初めての「水族館」だったという思い出を持つ子ども達が多いのです。学校帰りによく遊びに行ったものです。ピラニアやアロワナなどを初めて見たのもこのお店でした。店内は決して広くはありませんが、展示されている種類は豊富で、かつ入れ替えも激しいように思います。単なる小売店ではなく、卸売り業も営んでおり、けっこうマニアには名高い存在です。私も世田谷区在住の某社長さんに、「あの店知ってるの!」と言われたことがあります。何でもあちらこちらの熱帯魚屋さんの元締め的存在だという話です。最近になって多展開路線を取り始めたらしく、相模原や小平に進出しています。でも、町屋が本店だよ。 私の昔からの夢・・・ 荒川区と日本水族館で共同のアクアリウムを作ってくれないかな。建物と敷地は区で用意して、ソフトは日水が担当する。教育施設でありながら、日水のお店を兼ねていて、販売も行っている・・・ なお、店舗の多展開にともない、小売店舗名をトロピランドに統一し、卸部は総合卸商社日本水族館、というように使い分けているようです。 [日本水族館公式HP] |
11. | 武蔵川部屋 |
●相撲部屋といえば、かつては両国の専売特許でしたが、土地の確保の困難さからか、その後、各地に展開していくようになり、若・貴をはじめとする阿佐ヶ谷時代が築かれました。そんな中、元横綱三重の海によって、荒川区に待望の相撲部屋ができました。(平成4年) それから数年、あっという間に、角界の頂点に立ってしまい、「荒川区の武蔵川部屋では・・・」というニュースの多いこと。ここまで、活躍するとは!! 繁栄が末永く続くよう頑張れ。 [武蔵川部屋公式HP] ※桐山部屋(荒川のもう一つの部屋) ※財団法人日本相撲協会 |
12. | 荒川自然公園 |
●自然という名がついてますが、実は全くの人造公園です。下水道局三河島処理場の施設に蓋をして人工盛土したところが公園となっています。昭和49年(1974)に処理場の改修を機に開園、その後、二期・三期工事で拡張しています。区立公園としては、第1位の広さ(56,925.24u)を有する園内には、交通園(平成7年・1995、4月14日開園)・カブトムシ園・幼児プール・テニスコート・野球場・池や数多くの植栽があります。個人的には、汚水処理場の臭いがあって、空気がうまくないのが残念です。なんとかならないかなぁ。 |
番外その1 | 荒川九中 |
●荒川区立第九中学校。実は私の母校でもあるので番外にしました。この学校には「夜間中学」が設置されています。「夜間中学」は何らかの理由で中学校に通えなかった人、やめてしまった人などの義務教育未修了者を対象としています。山田洋二監督作品映画「学校」(第一作)の舞台としても知られています。 詳細はこちら |
番外その2 | 博善社・町屋斎場 |
●BESTとして扱うのは気が引けるので、番外にしました。ご存知、町屋斎場(火葬場)です。町屋のイメージを悪くする嫌悪施設として見られがちですが、この施設があったからこそ、今の町屋駅周辺が形成されたのかもしれません。また、町屋に移転してくる前にも荒川区に存在し、ゆうに300年を超える歴史を持っています。 詳細はこちら |
番外その3 | 回向院・小塚原 |
●ここは荒川区内でもっとも、歴史的な痕跡がみられる場所です。江戸の2大刑場といわれた小塚原は、現在の回向院や延命寺のあたりに広がり、その荒涼とした情景は、まさにこの世の果てのようだったことでしょう。数十万の人々が埋葬されたといわれています。磔・獄門が行われ、さらし首が放置される様相はまさに地獄絵です。以前、刑場跡に建つ回向院の資料室で、その当時の写真(さらし首)などを拝見しましたが、今でもしっかりと目に焼き付いてます。刑場で命を落としたのは何も極悪人ばかりではなく、いわゆる政治犯・思想犯も多くいました。安政の大獄で処刑された吉田松蔭や水戸浪士・はたまた、鼠小僧・・・。そして、杉田玄白らによって解体新書が訳されるきっかけとなった腑分けが行われたのもここです。(それを記念して銅版レリーフが回向院に飾られています。<いずれもう少し詳しく調べてみたい項目です。> |