幻想回廊

前編

 

「なんて、こったい‥‥‥」

 俺、桐原 陽行は愛車FZR400RRのシ−トに雪が降り積もるのを窓越しに眺めながら不満の声

 をあげた。

 ふと腕時計を見ると、二時を回ったところ。

 冬休みに入ったばかりの平日は暇で、俺は、伯陵市の一角にある叔父が経営する喫茶店『ベシュエ』

 でのんびりとウィンナ−・コ−ヒ−を飲んでいた。

 雪が降っているせいか、客は俺以外にはいない。

「積もりそうだな」

 カウンタ−から声をかけてきたのは俺の叔父さんの息子、つまり俺の従兄弟である松崎 俊介だった。

 俺より三つほど年上で調理師専門学校に通う彼は、のんびりと煙草を吸い、紫煙をくゆらせている。

 今日は店長たる叔父さんがいないので、店長代理としてここにいるらしい。

「冗談じゃない」

 思わず、俺は抗議の声をあげていた。

「これじゃ、バイク乗ってけやしない」

「傘貸してやるから、押してきゃいいだろ」

「家まで?」

「そう」 

「冗談いうなよ、バイク押しながら傘をさせるわけないだろ。体中が雪だらけになる」

 コ−ヒ−を飲んで喉をしめらせ、外を見ると、雪はますます激しくなっている。

「やれやれ‥‥‥」 

 不満を洩らし、ため息をついた、その時だった。

 それを見たのは。

 蝶だった。

 繊細さを感じさせるセピア色の蝶は羽を震わすたびに華麗な七色の、虹のような鱗粉を雪の上に撒き散

 らしている。

 それは華やかな輪舞曲でも美しい優美なワルツでもあり、もしかしたら、天然色と極彩色が調和した幻

 想だったかもしれなかった。 

 ひるむべき理由は俺になかった。

 にもかかわらず、その蝶は俺に不思議な緊張を抱かせていた。

「ダイヤモンドダストでも見えるのか?」

 俺は魅惑的な舞いに魅せられるかのようにそれを凝視していたらしく、カウンタ−からの呼びかけられ

 るまで、俺は記憶がなかった。

 瞬きをして、外を見直す。

 外はただ雪が降るのみである。

「いや‥‥‥」

 かぶりを振りながら、俺は答えた。

「何か変な蝶みたいのが飛んでたんだ」

「蝶って、ピンクの蝶か?」

「セピア色だったけど、何でピンクなんだ?」

「ああ、マリファナとかやりすぎると、そういうのが見えるっていうだろ‥‥‥」

「煙草にも酒にも手を出さない高校生がマリファナをやると思うのか‥‥‥」

「いや、マリファナをやるのは最近の一般高校生の必須事項だそうだからな」 

「おい‥‥‥」

 一人うなずきながら、平然と憎まれ口を叩く従兄弟をにらみながら俺はセピア色の蝶のことを頭の中で

 整理した。

 確かに、常識的に考えれば十分におかしかった、冬のこの寒い季節にそんな蝶なんかがいる訳な

 い。

 錯覚か、そう思い直した時、入口のドアについているベルが鳴り響き、店内の空気を震わせていた。 

 ドアの方にに視線を向けると、入ってきたのは高校生くらいの娘のようだ。

 頭を覆う黒のベレ−帽、同色のコ−ト、濃い紫色のセ−タ−にも雪がついていて、不快感をぬぐうか

 のように手で払い落としている。

 この店には雨宿りならぬ、雪宿りということで入ってきたらしい。

「お、かわいい」

 俊兄―――従兄弟のことを俺はそう呼ぶ−の呟きが耳に入ってくる。

 その時、俺と店に入ってきた娘の視線が絡みあった。

 少し色素の薄い茶色がかった髪に切れ長の瞳、上品そうな卵型の顔、それが知人であることを俺に教え

 てくれていた。

「桐原先輩」

 声は彼女から先にかかった。

 成島枝巳、高校の後輩で、一年生ながら歴史部の書記である。

 もっとも有名無実の歴史部の部員は三人―――俺、俺の友人の麻生、成島さんのみで、部員全員が役員

 なのであるが。

「成島さんか‥‥‥」

 俺は別に何かの意味があるわけではないのだが、名前を呼び返していた。

「そこ、座ってもいいですか?」

 少しの間、俺と彼女は沈黙していたが、雪を払い終えると、彼女は俺の座っている向かいの席を指さし

 た。

「どうぞ」

 空いている向かいの席を一瞥し、俺は応じた。

 その声を聞いた彼女は向かいの席にと座る。

 彼女の胸元にある青竜刀の形をした翡翠のペンダントが揺れ、セミロングの髪がサラリと流れた。

 それがあまりにきれいで、俺はそれを一瞬、目で追っていた。

「どうかしましたか?」

 彼女は俺の視線に不自然なものを感じたのか、不思議なものを見るかのように俺の顔をまじまじと眺め

 た。

「い、いいや、別に」 

 気のきいた説明が浮かばず、そのまま説明するにも恥ずかしくあったので、俺は目をそらして、あいま

 いに答えた。

 その瞬間、彼女の前にメニュ−と水の入ったグラスとおしぼりが置かれていた。

 もちろん、俊兄が置いたわけだが、かなりの早業だった。

 さっきまで、カウンタ−にいたのに、いつ準備したのやら。

「彼女?」

 間髪を入れずに、俊兄が俺の耳元で冷やかすようにささやく。

「違う」

 俺はすこし慌てながら答え、彼女を紹介することにした。

「成島さん」

 メニュ−を見まわしていた、彼女が顔をあげる。

「俊兄、こちらは俺の高校の部活の後輩で成島 枝巳さん」

 俺の紹介に彼女は俊兄に軽く頭をさげた。

「こっちが俺の従兄弟の松崎‥‥‥‥」

「俊介でいいよ、陽行の後輩ってトシ、いくつ?」

「十六ですけど」

 俺の紹介を遮るように、煙草をくわえた俊兄は彼女に声をかけていた。

 まったく、女には手が早い。

「俊兄、仕事しろよ」

「彼氏いるの?」

 話きけよ、俊兄。

「空き家ですけど‥‥‥」

 成島さんは律儀にも答えている。

「じゃあ、ナンパしてもいい?」

「煙草吸ってる人は嫌いだから駄目です」

「‥‥‥‥‥、ふぅ、いい天気なのに残念」

 愛らしい仕草だが、にべない彼女の辛辣な答えに、俊兄は眉をひそめ、しばし絶句したままだったが、

 すぐに気を取り直したように大きく煙を吐き出して、とぼけた声を出した。 

「どこがいい天気なんだか?」

 さきほどの無視されたいらつきか、何故かは分からないが、俺は反射的にきつい口調で俊兄に追い討ち

 をかけていた。

「狭い室内で一緒にいるのにはいい環境だろ、ガキだな」

「やかましい、ちゃんと、仕事しろよ」

 いささか憤然としつつ、俺は抗議した。

「はいはい、っと、で、ご注文は?」 

「シナモンティ−をください」

「あと、ミックスサンドと暖かいミネストロ−ネでもどう、勘定は全部、陽行につけるから」

 いいんだろ、同時に俊兄はそう俺に目で合図していた。

「でも‥‥‥」

 成島さんもその声に微妙な戸惑いの表情をしつつ、俺をチラっと見る。 

 あったく、俊兄。

「いいよ、成島さん。今日はおごるよ」 

 苦笑しつつ、俺はそう返した。

「いいんですか?」

「構わないよ、女性に優しい俊兄も出費してくれるだろうから」

 一瞬、俊兄は眉根を寄せて、あきれたような表情をしたが、俺がさりげなく無視をすると、許容するよ

 うな微笑を浮かべた。

「じゃあ、お願いします」 

「オッケ−」

 そう言うと、俊兄は颯爽とカウンタ−の奥のキッチンへと消えていく。

「面白い人ですね?」

 俊兄が奥に行くのを見届けてから、成島さんは俺に声をかけてきた。

「心が泥水で洗われるような関係の少し憎たらしい従兄弟なんだけどね」

 俺が答えると成島さんはクスッと笑った。

 俊兄がかわいいと言ったのを納得させるような笑みだ。

 私服姿の成島さんは、制服姿と違ってまた別の趣がある。

「今日、どこか出かけてたの?」

「やることがないんで、ぶらぶらと散歩してたんですけど」

 暇な高校生のやることはどうやらあまり大差がないことだけが分かる。

「先輩は?」

 成島さんの問いかけに俺は大して差のない答えを返した。

「これ、何なんですか?」

 しばらくの間、俺と成島さんはたわいのない雑談をしていたのだが、成島さんはテ−ブル側の窓の近く

 に置かれた古い装丁の本に興味がわいたらしく、それを手にとってみた。

「それは叔父さんの趣味でね。全部の席に古そうな本が置いてあるだろ」

 ぬるくなった残りのコ−ヒ−を飲み乾してから、俺は返答した。

「そうですね」

 店内を眺めまわし、成島さんは納得してから手にした本のペ−ジを繰っていく 

「ドイツ語かな‥‥‥」

 少しして、成島さんは推測するように呟いた。

「当たり、ゲ−テの本さ。題名も内容も知らないけどね」

「ゲ−テですか、彼の書いたものってファウストぐらいしか知らないんですけど」

「俺もよく知らないんだ」

 髪を軽くかきあげ、言葉を俺が続けた。

「変な呪文みたいな言葉しか」

「それって、どんなやつなんですか?」

 俺の言葉は成島さんの好奇心を刺激するものだったらしい。

 俺は一呼吸すると、厳かさをよそおようにその文句を口にした。

『火神よ、燃え獰れ

 水精よ 蜿くれ

 風神よ 消え失せよ

 地精よ いそしめ』

「何か、黒魔術の本かなんかにそのまま出てきそうなやつですね」

「そうだね」

 一呼吸おいて、感慨深げに言葉を発する成島さんに相槌を打つと、同時にテ−ブルの上に湯気をあげる

 ミネストロ−ネとシナモンティ−、それに俺の前に何かのス−プのようなものが入ったカップが現われ

 ていた。

 むろん、黒魔術の呪文の成果ではなく、俊兄が置いたものだった。 話に夢中になっていて、気づかな

 かった。

「ごゆっくり」

 それだけを告げると、俊兄はその場から離れた。

「待った」

「何だ?」

 俺の呼びかけに俊兄は肩越しに振り向いた。

「これ、何なの?」

「ヴィシソワ−ズ。お前へサ−ビス」

 そう言うと、キッチンの奥へと俊兄は消えていく。

「ヴィシソワ−ズ?」

「ポロネギとジャガイモと牛乳でつくる冷たいス−プですよ」

 俊兄の代わりに成島さんが説明してくれた。

 どうやら、成島さんが知っているところを見るとまともな品のようだが、俊兄のことだ、油断はできな

 い。

 昔、恨まれて変な物を食わされた記憶はいまだ新しい。

「牛乳のかわりにココナッツミルク、ジャガイモのかわりにサトイモ、ポロネギの代わりに青唐辛子を入

 れかねないからな‥‥‥」

 俺の呟きに、成島さんは口にしては何もいわなかったが、怪訝そうな顔をした。

 俺は用心しながらゆっくりとそれを口にしてみた。

 味は……悪くない。

 だが、このくそ寒い日に冷たいスープを出すか?

 ……仕返しだな、覚えてろ。

 思わず不毛な思いにとらわれかける俺。

「おいしい」

 そんなことに気づきもせずに、ミネストロ−ネを口に含んだ成島さんは感想を洩らした。

「けっこう、これ、塩加減が難しいのに」

「詳しいね。料理、好きなの?」

「水晶占いの次くらいに得意ですよ。今度、部活の時に何か作ってきます」

 うつむきながら屈託のない笑みを浮かべる成島さんが妙に魅力的で一瞬だけドキッとした。

 

 

 やがて、軽い食事も終わり、たわいのない話を続けていた。

「竹村先輩って卒業できるんですかね?」

「何とかなるらしいよ、伯大、推薦で合格したらしいし‥‥‥」

「今度は先輩の番ですね」

 何気ない一言に俺は空になったコ−ヒ−カップを指で弾きながら苦笑する。

 そうなんだ、来年は三年生‥‥‥。

「大学受験するんですか?」

「まあ、すぐに就職って気はないから、専門学校くらい行くかもしんないけど、まだ、分かんないなあ。

 成島さんこそ決めてるの?」

「まさか、先輩が決まってないのに」

 それ、どういう意味?

 そういう質問を投げかけようとして、三度、俊兄が割り込んでいた。

「おい、陽行、雪があまり降ってないから今の内に帰ったほういいぞ」

 カウンタ−に頬杖をついてる俊兄からの声に外を見る。

 暗くなって見にくいが、確かに雪の降りはかなり弱くなっているらしい。

 今なら人間雪ダルマにならずにすみそうだった。

「まだ五時半ですけど、けっこう暗いですね」

 腕の時計に目をやりつつ、成島さんは呟いた。

「帰るかな。成島さんはどうする?」

 青のジ−ジャンを着ながら、反応をうかがう。

「じゃあ、あたしも帰ろうかな」

 そういって、成島さんもゆっくりと立ち上がった。

 黒いスカ−トが揺れて、黒のストキッング越しに形の良い長い脚が目に入る。

 いけないなあ、心の中で独白した。

 どうも、今日は彼女を必要以上に意識してる。

 先に席を立った俺はそういう意識を降りはらうようにして、彼女のベレ−帽とコ−トをとってやった。

 軽く礼をいって、成島さんはそれを受け取ると、手早く着る。

「俊兄、いくらだ?」

「あ、いい、今日はおごり」

「あとで十倍返ししろとかいわないよな」

「それもいいな」

「‥‥‥」

 その言葉は六割がた本気のようだった。

「冗談だ。あ、そうそう、傘はドアのとこに何本かあるから好きなやつ持ってけよ。もちろん、枝巳ち

 ゃんの分も」

「それって、客の忘れたやつじゃないの」

「そこにあるのは半年以上前のものだから時効でウチのもの」

「ひどいな」

 そう言いつつも、良心の呵責など感じぬ俺は適当に二本の傘を取ると一本を成島さんに手渡した。

「それじゃ」

「どうも、ご馳走さまでした」

 俺と成島さんは俊兄に言葉を投げかけドアを開いた。

「さよなら」

 俊兄の声を背に二人は外に出た。

 薄暗い中で、雪は弱いが降っている。

 隣で傘を広げる成島さん同様に傘をさしながら、俺はバイクを一瞥し、ため息をついた。

 すでにバイクは雪のオブジェと化しているようだった。

「家、南伯陵の方だっけ」

「ええ」

「じゃあ、駅まで一緒に行こうか」

「バイク、いいんですか?」

「これじゃ乗ってく訳にはいかないから」

 バイクのシ−トを傘を持たぬ手でポンッと叩き、俺は笑った。

 

 

 俺と成島さんは無言で伯陵駅への近道、川側の土手を歩いていた。

 街頭もなく人気のない、この土手は夏には熱いカップルで一杯になるが、さすがに、この天気の中では

 ひっそりとしていて俺達以外には誰もいなかった。

「寒いですね」

 両拳を口にあてながらぽつりと呟いたのは成島さんが先だった。 

 同時に彼女の口唇から洩れた息が白く染まる。

「そうだね」

 応え返して、確かに寒いな、と思った。

「そういえば知ってますか。東刀根川の画家館の話」

 川の中州を見て何かを思い出したかのように、成島さんが言う。

「知らないけど‥‥‥また、その手の話?」

 その手の話、つまりは幽霊とかの怪奇話だ。

 しかし、一体、どこで、そういう話を集めてくるのだろう。

「もちろんそうですよ。まあ、聞きたくないんなら別にいいんですけど」

「まあ、聞かしてよ。退屈しのぎにはなるから」

「じゃあ、失礼して‥‥‥きゃあ 」

 成島さんの悲鳴は俺も共有するところだった。

 風が強くなり、雪が吹きつけたのだ。

 ―――来訪者の資質あり、招待を決定する。―――

 不意にそんな言葉が頭に響き渡る。

「えっ?」

 声をあげながら、俺は吹きつける雪の中、あのセピアの蝶を見ていた。

「何、あれ、蝶?」

 それが俺だけに見える幻覚ではない証拠に成島さんもそれを知覚しているようだった。

 再び、風が強くなり、雪が舞った。

 それと一緒に何か虹色の粉のようなものがセピアの蝶から吹きつけていた。

「鱗粉なのか‥‥‥」

 知覚と同時に力が抜け、意識が遠くなっていく。

「先輩‥‥‥」

 意識が遠ざかる前に聞こえたのはそれだけだった。

 

 

 意識が回復したとき、俺は雪をしとねとして横たわっていた。

 雪混じりの風が吹いているが不思議と冷たくはない、むしろ、妙な温もりを感じていた。

「んっ‥‥‥おっ」

 立ち上がった俺の前に館がそびえ立っていた。

 まるで青き海のような館だった。

 見ていると、時間も空気もゆっくりと流れ、いつまでもまどろんでいたくなる空ろな蜃気楼の中に存在

 する夢幻の宮殿。

 青を基調としたそれは、それほどに闇と雪の色に映えていた。

「そうだ、成島さん」

 しばしの間、俺はそれを茫然と見ていたが、ふと同行者の事を思い出して辺りを見回した。

 いた。

 俺より三十メ−トルほど離れたとこに彼女は横たわっていた。

 近づくと、俺は彼女を抱き起こそうかと思ったが、先に彼女の近くで屈み込むと、手首に指を当ててみ

 た。

 規則正しい脈動が指に伝わってくる。

 良かった、大丈夫のようだ。

 それにしても柔らかい手だな。

「んっ‥‥‥先輩」

 そんなことを漠然と考えていたが、不意に成島さんの目が二、三度しばたくと、目を開いた。

「うわっ‥‥‥ 」

「きゃ‥‥‥」

 俺はそれに少し驚いて、片足のバランスを崩し、仰向けになっている成島さんの上へのしかかる感じで 

 倒れ込んでしまった。

 片手が女の子の体の中で最も柔らかさそうなとこに触れる。

 反射的に俺はそれを認識すると、急いで彼女から体を離して、背を向ける。

「ご、ごめん。その、気を失ってるみたいだったたから‥‥‥」

 ちょっとの間、成島さんから返答はなかったが、やがて、遠慮がちな声が聞こえた。

「気にしないでください。ところで、先輩、ここって、どこなんでしょうか?」

 成島さんの質問に俺は辺りを見回してみたが、例のお屋敷以外は雪の大地が無限と思えるぐらいに広が

 っていた。

「土手の近くじゃないみたいだけど、一体‥‥‥」

「ま、まさか‥‥‥」

 答えを探してきょろきょろする俺を後目に成島さんは自分の質問の結論に辿り着いたようだった。

「成島さん、ここ、どこか知ってるの?」

「先輩‥‥‥」

 やや青ざめたような、あるいは、少し驚いて緊張したような様子で成島さんは口を開いた。

「ここが、さっき話そうとした東刀根川の画家館です。ただし、もうないはずなんですが‥‥‥」

 その時、成島さんの言葉を肯定するかのように館の正面にあった大扉がキギィ−っという古めかしい音

 をたてて開いた。

 さらに、開いた扉の近くで、あのセピアの蝶が降りしきる雪の中を優雅に舞っていた。

 それは、やがて、館の中へと消えていく。

 俺達二人はそれを驚愕とも茫然とも取れる表情で眺めていた。

 

 

 それから数分後、とりあえず、俺達は二人は降る雪を避けるために、扉をくぐっていた。

 幸いなことに、入った途端、いきなり扉が閉まり開かなくなるというホラ−系映画の有名な現象も起き

 なかった。

 玄関からの廊下を歩きながら、俺はこの館のことについて聞いてみた。

「東刀根川の画家館というのは川の中州にあった斯波 司という画伯の家で、きれいな青い館だったそ

 うです」

「その斯波 司って有名なの?」

「よくは知らないんですが、新鋭画家達の集団、試衛会とかいうところの門主で、かなり権威のあった

 画家らしいんです」

「門主ってようするにそこのトップだよね。腕も良かったの?」

「華麗で大胆なタッチは希代の腕で、少壮気鋭でありながら、当時のその世界で長老といった人達に肩

 を並べるくらいの力量があったそうですよ」

「へえ、すごいな」

「なんでも、そもそもその斯波とかいう家は元華族の上宮という家の分家だそうで代々、学者や芸術家

 の家系でそれらの世界では有名らしいですよ」

 まるっきり、自分とは無縁の世界だ、それにどこが幽霊話と結びつくんだろう。

「よく知ってるね」

「絵をやってる知り合いの従兄弟に聞いたんです」

「それで、そんな有名な家系の家がなんでなくなったの」

「娘を亡くしてから性格がかわって、さらに雁作の絵に手を出したという疑惑に巻き込まれて、それ以

 来、行方知れずになったとかそうで、それから、雪降る日に霊感のある人には無くなったはずの青い画

 家館の幻影が見えるとか‥‥‥いう話だったんですけど」

 後悔したように説明してくれた成島さんに俺はうなずいて、別のことについて思いを巡らした。

 あのセピアの蝶は、一体何なんだろう。

 この変な屋敷に迷いこんだのは、あの蝶が前兆であり、発端であったような気がする。

「まさか、あれが斯波 司っていうんじゃないだろうな」

「は‥‥‥ 」

「いや、何でもないよ」

 やがて、廊下が途切れて、広い場所にでた。

「わぁ‥‥‥」

 辺りを見た成島さんが声をあげた。

 そこは妙な静寂に包まれた、そして広さを感じさせるホ−ルだった。

 躊躇しながら入った先には幾つもの絵画が飾られていた。

 凍った滝、樹氷といったものをモチ−フにした冬の絵。

 冥界にて眠れる姫に口づけする死神の絵。

 蹄の音、祈りの声がきこえそうなイスラムのバザ−ルを思わせる絵。

 さすがは画家の家だ。

 何枚かの絵を無造作に眺めながら、その中の一枚に俺はふと目を止めた。

 これらの中でその絵は異彩を放っていた。

 描かれているのは無口そうで謎めいた雰囲気の少女だった。

 絵の少女は白いブラウスに黒のタイトスカ−トと上下、対称的な色の服で身を覆っていた。

 タイトスカ−トから伸びるすらりとした脚がやけに印象的で、白のような銀髪の少女は絵の中であるか

 なきかの微笑を浮かべていた。

 そして、人物画を彩る背景は混沌とした無明の闇を思わせる黒だった。

 はっきりいって、インパクトや技巧では周りの絵の方に比べ精彩を欠いていた。

 だが、不思議なことに俺はそれに引きつけられていた。

 決して、気に入ったわけではないのに、むしろ‥‥‥。

「気味が悪いですね」

 いつの間にか、成島さんもその絵を凝視していた。

 しかも、似たような感想を抱いたようだ。

「あれ‥‥‥」

「どうしたの?」

「あの絵の下、何か書いてありませんか」

 成島さんの言葉に俺は、絵の下にじっくりと見る。

 

『枯れ葉舞い、厳しさ増す雪風の中、木の幹に膝つく旅人よ、自ら誰なのか、ここがどこなのか、どこ

 へ行くのか、些細なことを忘却の彼方へ押しやり、自らを塵積もり、瓦礫朽ち果てた館へ託したまえ。

 恋す者、呪わせよ、愛す者に苦難をあわせよ。解放の手続きなるまで、永遠に‥‥‥』

 

 絵の下にあるプレ−トの言葉は訳が判らない、しかし、何かの呪文のように胸に響いていた。 

 あれ、そういえば‥‥‥。

 ふと、気になって、俺は辺りを見回す。

 しかし、それの類いは一切、存在していない。

「どうしたんです?」

 不思議な顔で成島さんが問う。

「明かりがないんだ」

 平静として、言ったつもりだったが、語尾が少し震えた。

 成島さんは俺の言葉を聞いて、ハッとしたように辺りを見回した。

 ここには明かりがなかった。

 それにも関わらず、暗くなかった。

 むろん、窓から入る光もない、窓が存在しないからだ。

「夢でも見ているんでしょうか?」

 成島さんの言葉を俺は笑いとばすことはできなかった。

 むしろ、その解釈のほうがまともというものだ。

「とりあえず、出たほうがいい」

 俺の意見に成島さんはうなずく。

 もっとも、出られればだけど。

 

 

小説の間に戻る後編を読む