幻想回廊

後編

 

「ない‥‥‥」

 入った扉の方へと歩いた俺達が見たのは、壁だけだった。

 扉はなくなっていた。

「しかたない、少し歩いてみよう」

 やがて何個かの部屋を巡って、出てきたのは、そこだけが、他の何もない部屋と違った。

 迷宮のような広がりのある、この館のこの部屋だけが不思議な明かりは存在せず、クリスタルガラス

 の天窓から覗く明かりが部屋にふり注いでは、部屋の中にある天使の彫刻、様々な骨董品、重厚な古

 い置き時計、等身大の鏡台、マホガニ−製の本棚に机と椅子というものを闇から浮かび上がらせてい

 た。

 そして、椅子には幽鬼のような影が浮かんでいた。

 影は一人の男だった。

 キツそうな目をした知的そうな顔は怜悧という表現が非常に似合いそうだった。

 口元は引き締まり、落ち着いていて自信にあふれているのが感じられる。

 その男はかたわらのチェス盤の上にあるダイヤモンド製らしきナイトのチェスの駒をいじっていた。

「あの‥‥‥」

「水晶を月で溶かしたかのような光が注ぎ込む‥‥‥」

 成島さんの声を制して、相手から言葉が発せられた。

「ここの光景は趣があって好きでね。ようこそ、来訪者方」

「桐原 陽行です。幾つか、お伺いしたいんですがよろしいでしょうか?」

 やや憮然として、俺は口を開いた。

 椅子に座った男は質問を促すように、顎をしゃくる。

「あなたのお名前は?」

「試衛会門主、斯波 司」

 あっさりとした答えに、成島さんが息を飲む。

「ここはあなたの家なのですか? もし、一体ここはどこなのですか?」

「ここは、現実の世界のどこにでもなく、私の家であって私の家ではない」

 謎かけのように彼は返答した。

「君達をいざなったのは私ではなく館だ。館に招かれざる者は入れない」

「館が、無生物が意志を持っていると言うんですか?」

 成島さんが問う。

「そういうことになるな」

 誠実さをアピ−ルするかのように、彼は肩をすくめた。

 何を言ってるんだ、そう思ったとき、俺は不可視の力で跳ね飛ばされていた。

「うわっ 」

「先輩 」

 成島さんが叫び、倒れ込む俺をつかもうとしたが一歩及ばず、俺は部屋の外へと転がっていた。

 同時に扉は閉まり、壁に溶け込むようにして、消滅する。

「成島さん!! 成島!!」

 立ち上がった俺は扉の位置を叩き、彼女の名を呼ぶ。

 しかし、反応はない。

「ちくしょう!!」

 床に座り込みながら、俺は怒りを発露させた。

「お困りのようね」

 声が横合いからかかる。

「誰だ」

 その声に憤然と困惑の混じった声で俺は応えていた。

「紀須見。斯波 司の娘よ」

 答えたのは、あの肖像画の女性だった。

 いや、髪の色が違う。

 絵は銀髪だったのに対して、こちらは黒の髪。

 服装も絵の服装の上にベンベルグの群青色のコ−トを着て、耳にはピアスをつけ、首もとにはスカ−

 フを巻いている。

「亡くなったとか、聞いたけど‥‥‥」

「そうよ」

 あっけらかんとした答えに俺はなんと言うべきか、迷ったが、彼女が話をつづけてくれた。

「信じるかどうか別にして、私は生きてはいない。そうね、電気仕掛けのおもちゃと変わらないわ。死

 体に魂が乗り移ったような存在なの」

「電気仕掛けのおもちゃ‥‥‥死体 」

 彼女は俺の疑問に行動で示してくれた。

 俺の手をつかむと、自分の腕の血管のある所へと触れさせたのだ。

 冷たかった、そして、何の脈動も感じられなかった。

「こんなことが‥‥‥‥」

「あるのよ」

「君の親父さんもか?」

 俺は妙に醒めたように言葉を発した。

 質の悪い事実は俺に妙な現実が存在することを実感させ、驚きという感情を心から拭い去らせていた。

「いえ、父は生きているわ。ただし、館の中において死ぬことのない存在としてね」

「それは一体、どういうことなんだ?」

「いいわ、話してあげる。場所を移してくれない」

 彼女はそう告げると、ゆっくりと廊下を歩き始めた。

「どこへ?」

「魅影の間、ホ−ルよ」

 

 

 やがて、ホ−ルに着くと、彼女は一つの絵に近づいた。

 あの肖像画だった。

 絵の下に飾られたプレ−トをさすりながら、彼女はゆっくりと口を開く。

「父、司は私が死んでから、人が変わったようにオカルトというものにのめりこんだの、私を蘇生させ

 る為にね。そして、ついに方法を見つけたの。セ−ラム祭祀書に書かれた魔術をね」

 俺に背を向けていた彼女はクルリと振り返ると、辺りを見回しながら言葉を続ける。

「この館は、精神の崩壊を代償に父が魔術で作った小さな世界なのよ。この館では時間は存在せず生は死

 を陵駕する。父の意志が館の意志であり、望めば永遠の夜が続くの」

「セ−ラム祭祀書だか精神の崩壊だか知らないが、あの野郎デタラメいいやがって、成島さんに何かして

 みろ、ブン殴ってやる」

 彼女の言葉を俺は理解し毒づきながら、俺は握った右手で左の掌を激しく打った。

 乾いた音がホ−ルに空しく響く。

「仲がいいのね」

 彼女は何かを訴えかけるかのようにさびしそうに笑った。

「いや、後輩だからだけどね、そういえば君の肖像画の下にあるプレ−トの詩って何か意味ありげだけ

 ど、何だか知ってる」

「これよ」

 彼女は俺の言葉に絵の下にあったプレ−トを剥がすと、向きを変えて俺の方へと差し出した。

 そこには文字がちょこまかとと書かれていた。

「これは?」

「セ−ラムの魔術の呪文」

 その言葉に俺は文字を目で追ってみた。

 

『万物の根源、‥‥‥の力持て、世界を想像せよ

 されば、世界は時の存在を無とし、生が死を陵駕す

 されど、代償に心病み、崩壊は必然

 左記に記すは世界の崩壊、それは創設者の喪失、解放の呪文』

『 ‥‥‥‥

  ‥‥‥‥

  ‥‥‥‥

  ‥‥‥‥

  創設者の名の死のもとに

  塵は土へ、死人は墓に

  あるべき所に帰れ』

 

「これの根本の力って一体?」

 それがわかれば、この館から出れそうだ。

「それは判らないわ。ゲ−テのある一文を参照‥‥‥」

「そのくらいにしときたまえ。桐原君とやら」

 ホ−ルを見下ろす階段の踊り場から声がかかった。

 そこに立つのは、成島さん、それに斯波画伯。

「先輩、大丈夫ですか」

 成島さんは俺の姿を認めると、階段をかけおりて俺に近づいてきた。

 さっきのことを部屋から吹き飛ばされたことを言っているのだろうか。

「ああ、別に何でもないけど、何か言われたのかい?」

「あの人が先輩は大丈夫だからと、でも‥‥‥」

「だから、私の娘が応対していると言ったろう。まあ、彼の心配なら仕方ないかね」

 潮弄するように彼は不安そうな成島さんを見た。

 成島さんは安堵の為か、俺のジ−ジャンの片端をつかんでいた。

「あなたは俺達に何をさせたいですか」

 もう十分すぎるほど不快な気分だったが、かろうじて外面を保ちながら、言葉を投げかけた。

「別に。ただ、館の住人が二人では寂しいのでね、求めただけさ」

「ここにずっといろ、と言うのか?」

 成島さんのジ−ジャンをつかむ手を握りながら、俺は言葉を荒げていた。

「簡潔にいうならばそうなるな」

「ふざけるな!!あんた、精神病院か刑務所でも行ったほうがいいんじゃないのか、俺はあんたのような

 勝手な奴は嫌いだし、あんたの趣味をエレガントだと言うつもりもない。それにつきあうのは御免だ」

 露骨に眉根を寄せ、俺は遠慮ない言葉をぶつけた。

「拒絶という訳かね‥‥‥ならば、私に刃向かう酔狂で愚昧な方には退場を願うしかないな」

 すでに彼に温和な紳士の顔はなく、冷酷な眼差しを俺達へと投げかけ別人に見せていた。

 成島さんはその眼差しに怯えたように息を飲む。

「大丈夫さ、枝巳」

 落ち着かせるかのように、俺は服をつかむ彼女の指を握り、自然にそんな言葉を出していた。

 大胆なことを言ったような気がして、俺は顔を赤めていた。

「‥‥‥はい、先輩」

 彼女はしばらくの間、驚いていたが、やがて、にっこりと笑った。

 ふと、俺はそのやりとりを羨望とも嫉妬ともとれる眼差しで紀須見が見ているのに気づいた。

 もっとも、すぐに視線がそれたので確実とは言いかねるが。

「よく言う‥‥‥」

 斯波は鼻で笑い、階段を降り始めようとし、足を止めた。

 彼の前に、立ちはだかったのは紀須見だった。

「どけっ」

 にらみつけ、斯波は娘、紀須見へと命令する。

「やめてください、父様」

「貴様がここに存在していられるのは誰のおかげだと思う。それにな‥‥‥」

 そこで言葉を止め、彼は冷酷なとも言える笑みを浮かべていた。

「そういえば、桐原君、君は君達を招いたセピア色の蝶について知りたがっていたね」

「や、父様、いや」

 彼女の絶叫がホ−ルに響き渡った。

「戻れ、紀須見‥‥‥‥‥‥」

 最初の言葉以外は俺には聞き取れなかった。

 しかし、それが何であるかは、次の変化で充分だった。

 紀須見が床に倒れ伏すや、彼女の肌はセピアへと変わり、四肢は形を変じていく。

 やがて、そこには一羽のセピア色の蝶が存在しているだけだった。 

 蝶は弱々しく羽ばたくと、ゆっくりとその場から離れていく。

 紀須見があのセピアの蝶に‥‥‥。

 自分がとんでもない異界にいるのだということを今さらながら俺は実感し戦慄した。

「さて、次は無礼な口をきいた君だな」

 これから朝食だな、というニュアンスで彼は呟いた。

「さがってて」

 成島さんの手をジ−ジャンから離させると、彼女を庇うようにして俺は前に出て、斯波と対峙した。

 勇気というもののほどでもなかった、だが、ここで退くほど俺は根性なしではない。

「‥‥‥面白い。これにするか」

 斯波の手がスボンの後ろポケットに伸び、俺の目の前に戻された時、ナイフが握られていた。

 細身の十字の鍔のついたナイフの刀身が剣呑な鈍い光を放ち、刃をつたうドロリとした粘液をはっき

 りとさせていた。 

「これはシチリアン・スティレットというナイフでね。荒っぽいイタリア人が好んで用いる折りたたみ

 式短剣だ」

 俺の反応を楽しむかのように、彼は説明を始めた。

「全長約二十七センチ、刃渡り約十三センチ、軽量で鋭い刃は軽い一撃で骨まで達するそうだ。しかも、

 これにはクラ−レが塗ってある」

 クラ−レ? どっかで聞いたような毒だ。

 考えが微妙に顔に出たのか、彼は親切にも説明してくれた。

「ある植物から抽出する毒だよ。かすっただけで終わりだ」

 背中に冷汗が浮かんだ。

 信じられなかった、そんなものを平気で使うことが。

 しかし、今さら矛を収める訳にもいかず、俺は勇気を奮いたたせながら、冷静に判断した。

 とりあえず、あのナイフを奴の手から引き離すことが第一だった。

 さきほどは目に止まらない速さでナイフを取り出していた。

 それだけで卓越した手腕だということが判る。

 まともにやってはかなう訳がない。

 ナイフからを目を離さず、どうすればいいかを思案し、実行にうつした。

「ヘボ画家、いつまで気取っているんだ。そんな物を持って俺が恐いのか」

 俺は自分の首を指でかき切るような仕草で奴を思いっきり挑発した。

「ガキがぁ 」

 効果は絶大だった、奴は怒りの言葉を発するや迫ってくる。

 タイミングを間違えたら‥‥‥、そんな考えが脳裏をかすめた。

 しかし、そんな心と裏腹に、俺の体は反応していた。

 着ていたジ−ジャンを脱ぐや、踏み込みとともに繰り出してきた鋭い突きに対してジ−ジャンに絡ま

 せ、巻き込ませた。

「な‥‥‥」

 俺の行動を予測していなかったらしく、斯波は驚いたような声をあげる。

 攻守を転じるべく、敏速に俺は反撃を試みた。

 斯波のスネを思いっきり蹴っ飛ばすと、悲鳴をあげて斯波は動きをとめた。

 さらにナイフの攻撃を完全に封じる為にナイフを持つ手首に手刀を叩きこむ。

 かわいたような音をたてて、ナイフは床に転落し転がった。

 斯波はいまだにスネをおさえて、動きをとめている。

 今がチャンスとばかりに俺は激しくパンチを叩きこんだ。

 殴って、殴って、とにかく、思いっきり殴り飛ばす。

「ぐふっ‥‥‥」

 斯波はひるんだ声をあげて、身をよろけさせたが、さらに俺は体をひねらせ、鋭い回し蹴りを斯波の首

 筋にヒットさせていた。

 ぶざまに転倒する斯波。

「だらしないな、斯波画伯」

 俺は荒い息をつきながら、斯波を潮弄した。

「よくも、この私に‥‥‥」

 冷静さを失った斯波は起きあがろうとしたが、追い討ちをかけられなかった。

 正確にいうと、斯波の右手に握られた黒光りするものに俺は萎縮していた。

 コルト・パイソン・三五七。

 幾多の小説やマンガに出てくる、その拳銃は俺の知識にあった。

 そのダブルアクション式ステンレス鋼製リボルバ−は、抜き撃ちで相手を倒すというコンバットシュ−

 ティングを目的とした銃であり、六発の強力な弾丸を装填し、秒速四四◯メ−トルで発射することがで

 きるという戦闘用リボルバ−の傑作の一つだという。

 轟音が空間に響いた。

 俺の足元から数センチと離れぬところに着弾する。

「今のはデモンストレ−ションだ。もし、動けば君の相手を撃つ」

 斯波の言葉に脅しはなかった。

 俺が動けば遠慮なく撃つつもりである。

 彼女を撃つというのでは、俺はうかつに動けなかった。

 だが、もし、俺が動かなくとも‥‥‥。

 二律背反に俺は動けず、視線を床に転がるナイフに移した。

 あれさえ、あれば‥‥‥。

 銃声が再び響き、左肩に熱さが走る。

「やめろ」

 同時に斯波が頭を押さえ、叫びをあげていた。

 弱々しいが、セピアの蝶が斯波の上を舞って、七色の鱗粉を斯波へと降らせていた。

「ぎゃ‥‥‥」

 さらに悲鳴が重なった。

 成島さんが胸元の青竜刀のペンダントを投じて、斯波の目に当てたらしく、斯波は右目を押えて呻いて

 いた。

 今だ。

 銃弾をさける為に体を回転させながら、床に倒れこむと、ナイフを拾いあげ斯波へ投げた。

 三発目の弾丸が発射され、右頬に灼熱を感じた。

「先輩!!」

 白濁する意識の中、成島さんの声が心に響いた。

 一瞬の沈黙が訪れる、しかし、それも数瞬、何かが倒れゆく音が空間を震わせていた。

 俺の目の焦点があい、床に倒れた斯波の姿がはっきりと写る。

 俺の投げたナイフは斯波の左足に刺さっていた。

「紀須見‥‥‥裏ぎり者が‥‥」

 老いによって死ぬことのない斯波もナイフに塗布されていた猛毒クラ−レには無力だったのか、血の気

 のない唇からもれる声きは驚くほど小さかった。

 やがて、斯波の体が痙攣したかと思うと、動きをとめる。

 あっけないほどの死であった。

 殺したというのに、俺に罪悪感というものはなく、意識は空白になっていた。

 それから空白から立ち直ったのは、館の変化の為だった。

 館がグニャリと崩れたのだ。

 青い館は斯波画伯という呪術師の魂の結界であり、支配力が及べばそれは鉄壁の監獄だった。

 だが、斯波の死によって館は変質しようとしていた。

 館を構成する物質のあちこちがゆっくりととろけるようにして消滅していく。

「先輩‥‥‥」

 いつの間にかに、彼女は上半身だけを起こしていた俺を不安げに抱きしめていた。

 俺にはどうすればいいか判らなかった。

「‥‥‥呪文を唱えて」

 ささやくような声が耳に届いた。

 俺は声を発した場所を見る。

「なっ‥‥‥」

 それは消えつつある紀須見だった。

 膝から下が消滅し、着々と体の他の場所も消えつつある。

「館の崩壊に巻き込まれたら、あなた達も消える。早く私の絵を掲げて、プレ−ト裏の呪文を唱えて」

「だが、欠けてた部分が‥‥‥」

「あなたが喫茶店で女の子に言ってた言葉よ。それが欠けた部分に埋まるの。さあ、早く絵を」

「あなたの肖像画を掲げればいいんですね」

「ええ」

「分かりました。先輩、すいません」

 成島さんは俺から離れると、紀須見の肖像画の方へと走っていく。「いい娘ね、かなわないわ」

 成島さんの後ろ姿を見送って、紀須見は呟いてから俺の方を振り向いた。

「仲間が欲しくて、私は父の手伝いをしたこと謝るわ。このまま永遠に生きるかと思うと‥‥‥」

 彼女は潤んだような瞳で俺を眺め、寂しげな微笑を浮かべていた。

「君は俺の命を救ってくれた。それでチャラにしよう」

「ありがとう。彼女、大事にしなさいよ」

 俺の言葉に彼女は目を閉じ、今度は楽しそうな微笑を浮かべた。

 返答に詰まって、答えられなかった。

「これでいいんですか 」

 その時、成島さんが絵を持って、元気よく戻ってきた。

「ええ、そうよ。あとは呪文」

 彼女は俺にウインクした。

 それが彼女の最後の挨拶であることが分かったので、俺は優しく彼女の手を握りしめた後、厳かにゲ

 −テの呪文を唱えた。

「火神よ、燃え盛れ、水精よ、蜿くれ、風神よ、消え失せよ、土精よ、いそしめ‥‥‥」

 成島さんの掲げた絵がカタカタと揺れだす。

「斯波 司の死の元に、塵は土に、死人は墓に、あるべきところに帰れ」

 力強き御言葉とともに、絵の中からの光が無明の闇を貫ぬき、人物画を切り裂いた。

 館の中の不思議な明かりは消え失せ、館に炎の舌が閃く。

 それと同時に絵から伸びる光が俺と成島さんを絵の中に引き込んでいった。

 闇に沈みこむようにして、俺は意識を失っていく。

 炎に巻き込まれつつある紀須見の黒髪は白髪へと変化し、顔にはシワが浮きあがり、紀須見は老いつつ

 あった。

 館からの解放、それは止まったていた時間が動きだし、少女を飾る虚飾の花束を奪い、本来の容貌をあ

 たえていた。

 そして、炎が紀須見の体を覆いつくした。

 その瞬間、紀須見は俺達を満足そうな表情を浮かべていた。

 それが、俺が最後に見たものだった。

 

 

「おい、起きろ!!」

 右頬に痛みを感じて、俺は意識を取り戻した。

 目の前にあったのは俊兄の顔だった。

 右頬の痛みは平手をくらった痛みだった。

「あ、俊兄」

「あ、俊兄じゃない。寝てんのか、てめえ」

 俺は起きあがり、辺りを見る。

 俊兄の車、パジェロの中のようだ。

 隣には成島さんがいて、茫然したような顔をしていた。

「土手沿いの道を走ってたら、お前達が倒れてたんだが、雪ん中で何やってんだ?」

 やがて、俊兄が近くで買ってきたらしい温かい缶コ−ヒ−を俺と成島さんに渡し、運転を始めた俊兄が

 口を開く。

 俺は右頬と左肩をさすってみた。

 例の銃の弾丸がかすめた痕跡が体に残っていた。

 どうやら、夢ではなかったらしい。

 ちらりと成島さんの様子をうかががうと、胸元にあったはずの青竜刀の形のペンダントがないことを確

 認し、俺と似たような結論に辿り着いたらしかった。

 さて、本当のことをいっても俊兄に馬鹿にされるのがオチだ。

 少し考えてから、俺は別の方面から切り出してみた。

「実を言うと、さっき喫茶店で話したセピアの色の蝶がいてね。それを捕まえようと夢中になって‥‥

 ‥」

「雪の降ってる中、気を失ってたってか。枝巳ちゃんも?」

「ええ、つい子供みたいにはしゃいじゃって」

 成島さんはちょっと戸惑ったみたいだが、話をあわせてくれた。

「子供だなぁ」

 フゥ、と息をついてから、俊兄はあきれたように言った。

「ま、とりあえず、蝶の話は信じてやるよ。お前達が言ってたやつを俺も見たからな」

「へぇ、俺が言うことを信じるとは奇跡だな」

「うっさい」

 軽口をたたきながら、俺と成島さんは目くばせし、成島さんは微笑を浮かべていた。 

「さて、南伯陵駅だ。二人とも降りな」

 車が止まった。

「送っててってくれるんじゃないの?」

「仲がいい奴らは嫌いなんだ」

「ちぇ」

「じゃあな」

 文句をいい、俺が降り、成島さんが降りると、俊兄はそっからすぐに消えていった。

「もう八時ですね」

 彼女は腕時計を見て時刻を告げた。

「何か食べてこうか、枝巳」

 今度ははっきりと俺は告げた。

「‥‥‥いいですよ、先輩」

 少しの間、ブランクはあったが、彼女は俺によりかかっていた。 

 俺は拒まず、彼女をささえながら近くの店へと歩き出す。

 その時、俺は雪の中をセピアの蝶が舞うのを見たような気がした。

 

END

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