浅草橋と両国
2007年3月
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浅草橋駅前の国道 |
JR総武線浅草橋駅東口の前を走る、国道6号線(江戸通り)の両側には、沢山の文房具、おもちゃ、人形の問屋が並んでいます。 |
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ワゴン山積みの文房具 |
ここは蔵前玩具文具問屋街。駅改札を出たら、ひとまず江戸通りを左方向へ歩いてゆきましょう。通り沿いには、店頭に置かれたワゴンに文房具を山積みにして販売している店なども見受けられます。 |
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ディスプレイ用小物も売ってます! |
業務用、店舗用の演出小物を販売する店などもあって、店頭をひやかして歩くだけでも時間を忘れます。 |
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蔵前一丁目交差点 |
浅草橋駅前から400m程歩いて来ると、蔵前一丁目の大きな交差点があります。ここを右折して、蔵前橋通りに入りましょう。 |
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蔵前橋 |
やがて見えてくる鉄製の黄色い橋は蔵前橋。足元を流れるのは隅田川です。 |
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横網町公園北門 |
隅田川を越えておよそ200mで蔵前橋通りは清澄通りと交わりますが、すぐその手前右側に都立横網町公園の門があるので入ってみましょう。 |
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震災記念屋外ギャラリー 自動車の焼骸 |
大正12年9月1日マグニチュード7.9の大地震、関東大震災が発生、当時の東京は未曾有の大被害を受けました。当時、たまたま公園として整備中だったこの地には、周辺から何万人もの人々が避難をしてきたのですが、図らずもこのことで新たな大惨事を生むことになってしまいます。 |
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破損した鉄筋コンクリート柱 |
地震のため周辺に発生していた火災の火が、避難をしてきた人々の持ち込んだ家財道具などに引火、折からの強風で火は瞬く間に燃え広がり、この場所で数多くの焼死者を出す大惨事となってしまいました。このためこの公園は亡くなった被災者の慰霊の中心地となり、葬祭場として使われたのでした。 |
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猛火で溶けた工場の鉄柱 |
公園の敷地内に造られた震災記念屋外ギャラリーには関東大震災に因る被災品が展示されていて、こうして当時の惨状の一片を見るだけでも、被害の甚大さや恐ろしさを窺い知ることができます。 |
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東京都慰霊堂 |
また公園内には東京都慰霊堂があり、震災やその後に起こった太平洋戦争時の空襲などに因る戦災犠牲者の、身元不明の遺骨が納められ霊が祀られています。 |
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東京都復興記念館 |
こちらも、やはり公園内にある東京都復興記念館。震災当時の資料や記録写真、被災品、絵画などの数々が多数展示されています。入館無料。 |
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横浜の全壊 (徳永柳洲 作) |
これは展示されている絵画の中のひとつです。瓦礫に埋もれた男性と、その上に寄り添うように倒れた女性。若夫婦のようにも見えます、もうすでに息絶えたのでしょう。この一枚を見ただけでも、天災の恐ろしさが身に沁みて伝わってきます。 |
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横網町公園西門 |
横網町公園をひと回りしたら先へと進みましょう。公園の裏門にあたる西門を出ると、道路を隔てたすぐ向かいには旧安田庭園があります。入園無料。 |
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旧安田庭園と両国公会堂 |
この場所は嘗て大実業家の安田善次郎が所有していましたが、没後の大正11年に当時の東京市へ寄付されたものです。庭園内からは両国公会堂の洋風ドームも見え、和風の庭園に不思議な同化をしています。 |
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目の前の国技館通りを進む |
庭園に入った時の門とは反対側の門から表に出て来ました。目の前を走る通りは通称国技館通り。小さな横断歩道を渡って、通り沿いに歩いて行きます。 |
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両国国技館 |
間もなく左側に両国国技館が見えてきます。ここは言わずと知れた、日本の国技大相撲が行われる所です。そして国技館内には相撲博物館(入場無料)もあり、相撲に関する数々の資料や写真、貴重な展示品などを公開しています。 |
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JR両国駅前 |
JR両国駅前を通過して総武線のガードをくぐり、国技館通りを更に200m程進むと、正面に回向院の大きな門が見えてきました。
1657年(明暦3年)1月18日、本郷丸山町本妙寺から出火した火事は、その日吹いていた強風と、前の年の11月から全く雨が降らず空気が乾ききっていたことでたちまち広がってしまいます。 |
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回向院 |
そして20日朝になりやっと鎮火するまで江戸中を焼き尽くし、10万8千人が死亡しました。これが別名振り袖火事と呼ばれる明暦の大火ですが、回向院は元々、この明暦の大火で犠牲になった人々を弔うために創建された寺です。 |
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力塚 |
江戸時代の末から、国技館が出来る明治の末までの70年以上の間、回向院境内では定期的に相撲の興行が行われていました。昭和11年にそれを記念して、歴代の相撲年寄の慰霊のための力塚が建立されました。 |
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鼠小僧次郎吉の墓 |
庶民の味方の義賊として(真偽はともかく)、歌舞伎や時代劇でお馴染みの鼠小僧次郎吉の墓もここ回向院にあります。江戸時代から、この墓石のかけらを持っていると博打が強くなるとか運が開けるとか言われ、墓石を削り取る人達があとを絶たなかったとか。そして今でも、博打が強くなる・・・イコール、勝負強くなるとか小金が貯まると言う連想から、受験生をはじめ沢山の人達が墓を削り取ってゆきます。 |
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お前立ち |
と言っても本物の墓石を削るのではなく、お前立ちと言われるダミーの削られ専用墓石を削る訳です。因みにこの回向院に埋葬されたのは次郎吉の首から上で、胴体は別院の小塚原回向院に埋葬されたと伝えられています。 |
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裏門を出て裏通りへ |
そろそろこの辺で回向院を後にして、先へと進んで行きましょう。境内の裏手にあるスチール製の小さな門を開け裏通りに出たら、左方向へ歩いて行きます。 |
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斜め右側の道へ |
間もなく突き当りになりますが、斜め右前方に道が続いているのでこちらへ入って行きます。今日は「工事中迂回」の看板が出ていましたが、頼んで通してもらいました。 |
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吉良邸跡 |
通りを100m程進んだ左側になまこ塀が見えて来ました。ここは本所松坂町公園。忠臣蔵でお馴染みの旗本、吉良上野介義央の屋敷跡です。 |
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首洗い井戸 |
門をくぐって中に入ると井戸がありました。この井戸は赤穂浪士が吉良を討ち取った後、その首を洗ったと伝えられている井戸です。 |
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本所松坂町公園 |
現在は30坪足らずの小さな公園ですが、当時は今の優に70倍以上はある豪邸だったとか。しかしそんな大きな屋敷で、赤穂浪士は吉良をどうやって見つけ出したんでしょう?偵察衛星でも飛ばしたんでしょうか。ペンタゴンも真っ青です。 |
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吉良邸脇の道を進む |
吉良邸を出た後は、吉良邸を正面に見て右側の狭い道に入って行きましょう。 |
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国道14号線 |
すぐに広い大きな通りにぶつかるので左へ。この通りは国道14号線、京葉道路です。 |
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両国橋 |
回向院前を通り過ぎると、やがて隅田川に架かる両国橋が見えてきました。この両国橋は先程渡ってきた蔵前橋から、隅田川を川下へひとつ下った隣りの橋です。 |
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神田川と柳橋 |
両国橋を途中まで渡ってくると右手前方には、隅田川へ合流する神田川とそれに架かる柳橋が見えます。 |
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柳橋 |
両国橋を渡り切った先を右へ入ると、柳橋のたもとに出ます。この界隈は江戸の末頃よりいわゆる花町として知られ、明治維新以降に最盛期を迎える頃は沢山の料亭が立ち並んでいたそうですが、現在では殆どその面影を感じることは出来ません。 |
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柳橋より神田川を眺める |
またこの界隈は、江戸の中頃から船宿も数多くあったそうですが、こちらの方は現在でも幾らか風情は残っていて、川面には屋形船の発着所が見受けられます。 |
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神田川沿いに進む |
そんな中、柳橋を渡って左方向へ神田川に沿って歩いて行きましょう。 |
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浅草橋駅前 |
やがて突き当たる広い通りは、国道6号線の江戸通り。右の方向へ江戸通りを歩いて行くと、今日のスタート地点だったJR浅草橋駅が再び見えてきました。 |
★交通 |
JR総武線 浅草橋駅下車 |
★歩行距離 |
約 4.5 km |
周辺地図
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