旧日光街道
千住一駅散歩

2024年3月






 
南千住駅西口前
 南千住駅西口前

 江戸時代、幹線道路として整備された主要な街道と言えば東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五つ。いわゆる五街道と呼ばれる道なんですが、その内の日光街道と奥州街道は、日本橋から宇都宮までは重複していた訳でありまして、そしてこの両街道の一番最初の宿場町が千住でした。

 という事で今日は、宿場町として栄えた当時の千住に思いを馳せながら、JR常磐線の南千住駅から北千住駅まで、一駅散歩をしてみようと思います。





駅前の芭蕉像
 駅前の芭蕉像

 南千住駅はJR常磐線やつくばエクスプレス、そして地下鉄の東京メトロ日比谷線などが乗り入れる駅。そしてその西口前に出て来るとこんな風に、とある人物のブロンズ像が目に飛び込んでくるんですが、さて、この人物は一体誰でしょうか?

 少々勿体付けちゃいましたが、台座の銘鈑を見れば、松尾芭蕉さんだってコトがバレバレでしたね。

 ところで、何故この芭蕉氏がここでこうして立っているのかっていう事は、もう少し後になって分かるので、今のところは説明しないで置く事にします。





駅舎を左手に置いて進む
 駅舎を左手に置いて進む

 ではでは、何はともあれ散歩を始める事にしましょう。

 南千住駅の西口前に出てきたら、先ずは左方向へ。駅舎を左手に置いて進みます。





都道を渡る
 都道を渡る

 100m足らずで交差点がありました。正面を左右に走る通りは、都道464号線。これが今日の散歩でとってもお世話になる、旧日光街道なんです。北千住駅や旧千住宿を目指すには、これを右方向へと進むんですが、その前にちょっと寄って行くところが・・・

 目の前の横断歩道で都道を渡ったら、一旦左方向に進みましょう。





小塚原回向院
 小塚原回向院

 ほんのすぐ先、都道沿いの右手にある寺は、1667年の創建になる浄土宗の回向院。牢死・刑死者や行倒れ等で亡くなった人達を供養する為に、本所(現・墨田区両国)の回向院が別院としてこの地に開いた寺で、安政の大獄で刑死した、吉田松陰や橋本左内といった人達もここで眠っています。

 そもそも日光街道沿いのこの場所は、当時は千住宿に至る手前の、民家も無い草むらで、「お仕置場」と呼ばれる小塚原刑場(処刑場)が置かれていました。そして明治の初め頃に、新政府によって刑場が廃止されるまでの200年余りの間に、およそ20万人もの罪人の処刑がそのお仕置場で行われたとされ、そうした人達の霊もこの寺で供養されていたんです。





吉田松陰の墓
 吉田松陰の墓

 当時のお仕置場では、刑死者の遺体を利用した刀の試し切りや、「腑分け」と呼ばれた人体解剖などという事が行われていました。そして1771年、その腑分けに立ち会った、杉田玄白・前野良沢・中川順庵といった当時のお医者さんたちが、この時大いに刺激されたのがきっかけで、西洋医学書の翻訳に取り掛かった事で、あの解体新書の刊行に繋がったのでした。





吉展地蔵尊
 吉展地蔵尊

 この寺院では一方で、ある犯罪被害者の霊も供養されています。それがこの吉展地蔵尊 (よしのぶじぞうそん)

 昭和38年、当時四歳になる男の子が、営利目的に誘拐され殺害されてしまうという、痛ましい事件が起こりました。そして、ここから北西へおよそ400m程の場所にある、円通寺という寺の境内で被害者の遺体が発見されたので、その円通寺とここ回向院の2箇所に、被害者の男の子の名前を付けたお地蔵様が、供養のために造立されたのでした。





JR常磐線のガードをくぐる
 JR常磐線のガードをくぐる

 このすぐ近くには、お仕置場に関係する寺院がもう一つあるので、そちらにもちょっと寄って行く事にしましょう。

 回向院の門前に立つと、前方にはJR常磐線の高架が見えています。このガード下を抜けて直進。





延命寺
 延命寺

 更にそのすぐ先、東京メトロ日比谷線の高架の手前にある寺が延命寺。回向院からは50mばかりの場所になるここもまた、小塚原刑場の跡地という事になります。





首切地蔵
 首切地蔵

 延命寺の境内を覗くと、大きな石仏が鎮座しているのを確認できます。これは首切地蔵と呼ばれる、1741年に造立された高さが4m近くもある地蔵菩薩像で、元々は刑死者供養のために、当時の小塚原刑場の入口にあったものらしい。

 因みにその頃の江戸には、ここ日光街道沿いの小塚原の他に、東海道沿いの鈴ヶ森にもお仕置場があって、江戸の二大刑場とされていたのでした。





都道464号線 旧日光街道
 都道464号線 旧日光街道

 さて、再び回向院の前まで戻ったら、そのまま寺の前を通り過ぎて、都道沿いに歩いて行く事にしましょう。





都道から国道へ
 都道から国道へ

 およそ500m程進むと、都道464号線は国道4号線と交わります。横断歩道でこの広い南千住交差点を渡って右折。今度は国道へと入ります。





素盞雄神社
 素盞雄神社

 間もなく国道沿いの左手に、大きな石鳥居が現れました。ここは素盞雄神社(すさのおじんじゃ)





素盞雄神社 社殿
 素盞雄神社 社殿

 創建は古く、平安時代初期の795年と伝えられるこの素盞雄神社。そしてその名の通りに、祭神はスサノオ大神です。

 ちょっと境内を歩いてみましょう。





奥の細道矢立初めの句碑
 奥の細道矢立初めの句碑

 境内で見つけたこの石碑には、ある人物の肖像が刻み込まれていました。

 ここで今日の散歩の冒頭へと戻る訳でありまして、この石碑の人物こそ南千住駅前で一人立っていた、あの芭蕉さんなのでありました。実は松尾芭蕉 (1644-1694) にとって千住は、とっても所縁ある場所だったんです。





句碑の芭蕉像
句碑の芭蕉像

 松尾芭蕉と言えば奥の細道。そして、その約150日に亘るみちのくへの長い旅は、ここ千住から始まったのでした。そんな訳でこの石碑は、芭蕉の没後120年以上経った1820年の命日に建てられたもので、本人の肖像と共に、あの良く知られた矢立初めの句(旅立ちの句)が刻まれています。

行く春や 鳥啼き魚の 目は泪





子育ての銀杏
 子育ての銀杏

 社殿の脇にそびえる大木は、子育ての銀杏。その昔に母乳の出ない母親が、このイチョウの木の皮を煎じて飲んだり、米の研ぎ汁を木の根元に撒いたりして、我が子の無事な成長を祈願したのだとか。乳幼児の生存率が低く、今と比べてまともな医療も受けられなかった昔は、子供を元気に育てるために、親は必死になっていたんですね。





子育ての祈願絵馬
 子育ての祈願絵馬

 医学が進歩した現代でも、我が子の明るい元気な成長を願って、子育ての銀杏にはこうして沢山の絵馬が奉納されています。





庚申塔三基
 庚申塔三基

 人間の身体の中には、三尸の虫(さんしのむし)という三種類の虫が住みついているんですが、60日に1度巡って来る庚申の日(かのえさるのひ)の夜、人が眠っている間にこの三尸の虫が身体から抜け出して、自分の悪行を天の神にばらしてしまうんです。だからこの夜は、みんなで集まって祈ったり宴会したり、徹夜の集会をして、三尸の虫が勝手な事をしない様に見張っていたというのが庚申講(こうしんこう)。そしてその信仰のシンボルとして、各地に建立されていたのが庚申塔です。

 境内にある三基の庚申塔は、画像左から1678年、1673年、1811年に建てられたもので、左の二基には観音菩薩像が刻まれています。





千住大橋
 千住大橋

 素盞雄神社の境内をゆっくりひと回りしたら、国道に戻ってそのまま先へと進みましょう。200mほど進んだ先に見えて来た大きな橋は、隅田川に架かる千住大橋。ここ迄が東京都荒川区で、隅田川を越えた先は足立区という事になるんです。現在のこの橋は昭和2年(1926年)に建設されたものなんですが、最初に架橋されたのは1594年とされ、隅田川に於いては最も歴史の古い橋なんです。





川岸へ下りられます
 川岸へ下りられます

 千住大橋を渡って足立区へと入って来ました。国道沿い、橋の袂の左側にはほんの小さな児童公園があって、そこからは川岸へと下りて行く事が出来ます。
 ・・・ってワケで、川岸へ。

 既述のように松尾芭蕉は、1689年ここ千住から奥の細道の旅を始めたのですが、先ずは居を構えていた深川を弟子の河合曾良と共に発って、船を利用して隅田川を上り、そして千住に上陸したという訳なんです。だから正に今立っているこの辺りが、奥の細道の本当のスタート地点、矢立初めの地という事になるんですね。





隅田川テラス
 隅田川テラス

 隅田川の両岸には、耐久性を確保し川岸を安定させるための護岸基礎を、遊歩道として一般に公開して利用してもらう為の施設、隅田川テラスが整備されています。だから、ウォーターフロントをのんびりと散策する事が出来るんです。





千住大橋は2本あります
 千住大橋は2本あります

 こうやって橋の真下から眺めると良く分かるんですが、千住大橋って実は二つあるんです。どういう事かというと、頭上に見える2本の橋の内の向こう側のものが、昭和2年に建設された下り車線専用の橋。一方、手前側は昭和48年に建設された上り車線専用の橋。実は交通量の増加に伴って、後に一つ増設されて、上り下り別々に分離されたって訳なんです。

 この橋下には、「御上り場」と記された案内板が建てられていました。御上り場とは、主に徳川将軍家などごく一部の限られた者が利用する、VIP専用の船着き場。という事で、嘗てはこの場所辺りに御上り場が在ったんですね。





足立市場前交差点
 足立市場前交差点

 千住大橋で隅田川を越えて、国道をそのまま150mほど直進すると、大きな足立市場前交差点があります。一旦直進して、目の前の横断歩道を渡ったら、今度は右手の横断歩道で国道4号線を向こう側に横断すると、東京都中央卸売市場足立市場がありました。





東京都中央卸売市場 足立市場
 東京都中央卸売市場 足立市場

 この足立市場は、東京都でたった一つだけの、水産物専門の中央卸売市場。そのルーツは古く16世紀後半、安土桃山時代の頃が始まりと言われているんです。当初は野菜や米穀等も扱っていたらしく、後に江戸幕府御用達となったんだとか。





場内食堂が並びます
 場内食堂が並びます

 市場と言えば、何と言っても場内食堂。ここ足立市場でも、旨そうな食事処が並びます。食材のプロ達が日々通う店舗だから、旨くない筈がありません。店頭のメニューを眺めただけで、もうお腹はグーグーと鳴り出したんだけど、今はまだランチするにはちょっと早い時間なので、ここはグッと我慢する事にして、奥歯を噛み締めながら先へと進む事にします。





右手の旧日光街道へ
 右手の旧日光街道へ

 足立市場の前で日光街道は、Y字に二方向へと分かれます。左方向へと延びる広い通りは、今まで歩いて来た国道4号線の日光街道。そして右前方に分かれる道が日光街道の旧道です。ここは今日のタイトル通り、右側の旧日光街道へ。





旧日光街道の芭蕉像
 旧千住宿の芭蕉像

 国道を分けて旧街道へと入って来ると、そのすぐ右手に又また居ました芭蕉さん。ところで、この芭蕉さんが踏み締めている足元の石、これ御影石なんですが、この石、実はちょっと意味のある石なんです。

 この辺りの街道沿いにはその昔、既述の通り足立市場のルーツであった多くの青物問屋が建ち並び、やっちゃ場と呼ばれ、昭和の時代の初め頃まで活気を帯びていたのでありました。そしてこの松尾芭蕉像の足元にある敷石は、当時のやっちゃ場のせり場に敷かれていた、石畳の御影石を利用したものだったんです。





青物問屋の屋号は出身地
 青物問屋の屋号は出身地

 この芭蕉像のある辺りを南の端として、街道沿いにやっちゃ場は続いていた訳なんですが、其々の青物問屋があった場所には、現在ではこの様に、当時の屋号が記された看板が建てられています。そして、そうした屋号のうちの多くは、創業者の出身地から名付けたものだったらしい。





千住宿歴史プチテラス
 千住宿歴史プチテラス

 旧街道を200m程歩いた左手に、小ぢんまりした土蔵を見つけました。ここは千住宿歴史プチテラスというレンタルギャラリー。旧千住宿にあった、古い商家の土蔵を移築復元し、ギャラリーとして利用されているんです。





大きな狛犬を観てみよう
 大きな狛犬を観てみよう

 千住歴史プチテラスのそのすぐ先にある、旧日光道中と刻まれた石の道標。そして更にその上に作られた指導標には、「区内最大の狛犬 河原稲荷神社」とあります。

 区内最大の文字にちょっと興味をそそられたので、寄ってみようって事で、指導標に従って旧街道から左へ分かれる道へ。





Y字路を右へ
 Y字路を右へ

 その先100m足らずの辺りで、行く手は二手に分かれます。このY字路は右へ。





河原稲荷神社
 河原稲荷神社

 間もなく左手に、河原稲荷神社の鳥居が見えて来ました。さっそく境内の探索を開始。





やっちゃ場の鎮守
 やっちゃ場の鎮守

 稲荷神社はその名前通りに、稲荷神を祀る神社。そして稲荷神とは、その名前にの字が付く通り、穀物や農耕、即ち食全般の神様っていうワケ。この事からも分かる様に、この河原稲荷神社は、千住のやっちゃ場の鎮守さまだったんですね。因みに創建された年月は不明らしい。





ビッグサイズの狛犬
 ビッグサイズの狛犬

 居ました!
 区内最大の狛犬!!

 日本一って言うんではなく、東京一でもなく、足立区一なんだけど、とは言え狛犬にしては結構なビッグサイズ。確かにデカくて、迫力アリ。必見であります。





天水桶
 天水桶

 これはやっちゃ場の青物問屋などから、1850年に寄進された天水桶。天水桶とは、雨水を防火用水として溜めておくための水槽。社殿の左右に一つずつ置かれていて、都合50名の寄進者の名前が記されています。





千住本町商店街
 千住本町商店街

 旧日光街道へと戻って来ました。
 足立市場の前で国道を外れ、旧街道を700mほど進んで行くと、旧道の両側には俄かに商店が増えて来ました。ここは千住本町商店街で、住所はと言うと足立区千住1丁目になります。

 旧街道沿いに掲出された案内板によると、千住宿が日光街道の宿場に定められた1625年の当初は、ここ千住1丁目辺りから、この先北方向へ約1km程の区域が、最初の千住宿の範囲だったらしい。そして後にその範囲は、今日のスタート地の南千住辺りまで徐々に拡大し、更に宿場とやっちゃ場が混在した事で、千住宿は大いに繁栄したのでした。





問屋場・貫目改所跡
 東京芸術センター

 千住本町商店街の一角にあるこの高層ビルは、東京芸術センター。地上22階・地下1階で高さは92m余り、平成18年竣工の建物で、劇場やレストラン、オフィス、そしてハローワーク等も入っています。因みに宿場だった頃この場所には、旅人のために馬や人足を手配する問屋場や、荷物の重量検査をする為に設けられた幕府の役所、貫目改所が置かれていました。





横山家住宅
 横山家住宅

 400m余り続く千住本町商店街は、その先でサンロード宿場通り商店街へと繋がり、更に500m程続いて行きます。という事は、1km近くの商店街散歩ってことになる訳です。

 そしてこの商店街歩きの終わり近く、通り沿いの右側に横山家住宅がありました。これは地漉紙 (じすきかみ) と呼ばれる再生紙を商っていた商家の建物で、江戸時代の後期に建てられて、昭和の初めに改修されたもの。そして少し前に見て来た、千住宿歴史プチテラスの土蔵は、実はこの商家から移築したものだったんです。





千住絵馬屋 吉田家
 千住絵馬屋 吉田家

 横山家住宅の、旧街道を挟んだ反対側に目をやると、絵馬屋と記された看板が。これは江戸時代の中期から絵馬を作り続けている、まだ現役の商家吉田絵馬屋。永く伝統を守り続け、現在の絵馬師で8代目になるんだそうです。





旧板垣家住宅母屋
 旧板垣家住宅母屋

 横山家・吉田家から100m足らずの、ちょうど商店街が終わる場所にあたる、旧日光街道と旧水戸街道が交わる交差点の角にも、古めかしいけどがっしりとした立派な木造建築が。これは昭和13年建築の旧家の建物なんですが、現在はリノベーションされて、和食レストランとして営業中。尚この建物は、令和4年に国の登録有形文化財として登録されています。





名倉医院 長屋門
 名倉医院 長屋門

 交差点を越えたその先150m足らず、商店街から替わって住宅が並ぶ静かな通りの右側にあるのは、整形外科病院の名倉医院。創業はなんと江戸時代中期の1770年。いわゆる骨継ぎとして開業して以来、250年を超える歴史があるんです。画像の長屋門は江戸時代に建てられたもの。





突き当りを右折
 突き当りを右折

 名倉医院を過ぎたすぐ先で、通りはT字路の突き当りになりました。正面のコンクリート塀は荒川の堤防で、その向こうに荒川が流れます。そして旧日光街道歩きもここまで。この突き当りを右折して、今日のゴール、北千住駅へと向かいましょう。





Y字路を右へ
 Y字路を右へ

 100mほど進むと通りはY字路になりますが、左手前方は行き止まり。なのでここは右へ。





鉄道高架を左手に見て進む
 鉄道高架を左手に見て進む

 その先前方に見えて来た高架には、JR常磐線やつくばエクスプレス等が走ります。この高架を左手に置いて直進。この道、今日は道路工事中であります。





十字路を左折
 十字路を左折

 そして、100mほど道なりに進んだ先にある最初の十字路を、今度は左折。





長円寺
 長円寺

 間もなく左手に見えて来たのは、江戸時代初期の創建といわれる真言宗の寺院、長円寺の山門です。





めやみ地蔵尊
 めやみ地蔵尊

 その山門のすぐ脇、道路に面した場所にはめやみ地蔵尊が。なんでも、眼病に霊験あらたからしい。
 ところで自分もこのところ、益々近くにある物が見えなくなってきたんだけど。

 老眼はお地蔵さんでも、流石にムリですかね・・・ (苦笑)





北千住駅前ペデストリアンデッキ
 北千住駅前ペデストリアンデッキ

 そんな訳で大願成就は諦めて、通りを直進。道なりに400m程で、JR線を始め多数の鉄道が乗り入れる大ターミナル駅、北千住駅に到着です。









★交通 JR常磐線・他 南千住駅下車
★歩行距離 約 5.0 km



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