小石川のお屋敷と音羽の御殿
2009年1月
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JR飯田橋駅東口 |
今日最初の目的地は小石川後楽園。JR中央・総武線の飯田橋駅東口前から、概ね指導標に従って進んで行きます。 |
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駅前の大交差点 |
駅前にある複雑な五差路の大交差点を、大きな歩道橋で渡りましょう。 |
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歩道橋上を右、左と進む |
歩道橋に上ったら、「小石川後楽園」への指導標に従ってまずは右、そして左へと進み、眼下を走る広い大きな外堀通りを歩道橋で横断します。 |
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歩道橋上より外堀通りを望む |
歩道橋を下りたらそのまま外堀通りを右手に見ながら、通りの脇にある歩道を歩いて行きましょう。 |
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飯田橋ハローワークの角を左折 |
歩道橋を下りて約200m。最初の信号機があるハローワークのビルの角を指導標に従い左折して、外堀通りを外れます。 |
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小石川後楽園 入園口 |
150mほど歩いた先に白い築地塀が見えて来ました。小石川後楽園の入り口に到着です。その昔、この辺り一帯は水戸徳川家の上屋敷となっていました。そしてここ後楽園はお屋敷の中に造られた庭園で、二代目の藩主であるあの黄門様、徳川光圀が江戸時代の前期に完成させたものだと云われます。入園料、大人300円。 |
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庭園内より東京ドームを望む |
敷地2万1千坪余りの園内に入ってみるとまず目につくのは、庭園の緑の上から顔を出すこの巨大な白い物体。これは隣接する東京ドーム球場です。そう言えばドーム球場になる前のこの施設の名前は後楽園球場でしたっけね。 |
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大泉水と蓬莱島 |
これは園のメインの池となる大泉水と呼ばれる池と、そこに浮かぶ蓬莱島。場所に依って琵琶湖や東海地方の海などに見立てられています。 |
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延段(のべだん) |
園内の案内板に依ると、この延段は切石と玉石を巧みに組み合わせた中国風の石畳です。この延段を眺めていると、一つひとつが完成された芸術の様に思われてきます。 |
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木曽川と寝覚の滝 |
園内を流れる、木曽川に見立てた小川へと注ぐ小さな滝は寝覚の滝。浦島太郎伝説が残る木曽の名所、寝覚の床からの命名です。 |
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内庭 |
大泉水と比べると半分にも満たない大きさですが、何か心落ち着く静寂につつまれた池がありました。この辺りは内庭と言って、当時は近くに水戸藩邸の書院があって、それに付随した庭として造られたものだとか。 |
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東京砲兵工廠の碑 |
時代は江戸から明治へと移り、この地には旧日本陸軍の兵器工場である東京砲兵工廠が置かれ、昭和10年まで操業が続きます。写真の石碑は、その跡地であった事を示す戦前に建てられた石碑です。 |
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九八屋 |
江戸時代の居酒屋を現わしたこの九八屋と言う建物は、戦災で焼失した後に戦後復元されたものです。 |
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田圃 |
この田圃、農民の苦労とはいったいどんなものかをを教えるために、水戸光圀が作ったのだそうです。 |
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不老水 |
小さな井戸がありました。この井戸の水は、どんな干ばつにも枯れず、またどんな洪水でも水があふれ出なかったという伝説があるとか。名付けて不老水。 |
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愛宕坂 |
こちらは愛宕坂。愛宕神社が山上に鎮座する、京都は愛宕山の坂を模して作られたものです。因みに47段あるこの石段の急坂は、飽くまでも鑑賞用に作られたものです。 |
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円月橋 |
徳川光圀が敬愛し自らの許に招いた中国は明の儒学者、朱舜水の設計になる円月橋です。ご覧の様に水面に映る橋の姿が満月の様になる事から名付けられました。因みにここ後楽園には、この他にも朱舜水のアイディアが至る所に取り入れられていて、園の名前もその一つです。 |
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後楽園を出たら右へ |
大名庭園の散策を満喫したらそろそろ出発。入園口まで戻って門を抜けたら、目の前の通りを右へ。さっき歩いて来た道をそのまま先へと進みます。 |
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後楽園の築地塀 |
後楽園の築地塀を右手に見ながら、通りを進んで行きましょう。 |
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突き当りは左へ |
200m程歩いた先はT字路の突き当り。横断歩道で通りの向こう側の歩道まで渡ったら、左へ。 |
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高速道が見えたら右折 |
道なり300m余りで、前方に首都高速道路の高架が見えて来ます。ここは右折して、高架沿いの目白通りを歩いて行きます。 |
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トッパン小石川ビル |
首都高速道路を左手にして目白通りをそのまま進んで行くと、間もなく前方に流線形をした特徴ある青い高層ビルが現れました。凸版印刷(株)の小石川ビルです。これを目指して更に進んで行きましょう。 |
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印刷博物館へ |
トッパン小石川ビルの入口のところまでやって来ました。この建物内には凸版印刷(株)が運営する印刷博物館もあります。せっかくなので立ち寄ってみる事に。入館大人300円。 |
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4色刷りを体験しました! |
この印刷博物館は、印刷の過去・現在・未来が様々な資料や映像によって理解できる様になっています。が、しかし、残念なことに館内は写真撮影禁止。仕方がないので、館内で私が体験して作った4色刷りのカレンダーをご覧になりながら、ご想像下さい。
想像できないか・・・。 |
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突き当りを右折 |
印刷博物館をあとにして、目の前の道をそのまま高速道の高架沿いに進みます。4~500m程で突き当りになるので右折。 |
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すぐに左折 |
そのあとすぐに次の角を左折して、そのまま真っすぐに歩いて行きましょう。 |
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また高速道路に合流、右へ。 |
道なりに進むと、いったん逸れていた首都高速道路の高架に再び合流します。ここは右折して、また高架を左手に置いて通りを進みます。 |
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音羽通り |
この通りは音羽通り。徳川五代将軍の綱吉が創建した護国寺の仁王門まで真っすぐと延びる全長約1km程の道で、元々は護国寺への将軍参拝時の御成り道として開かれたものです。 |
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立派な門がありました |
関口台地と小日向台地に挟まれた、ちょうど谷間の部分に開かれた音羽通りを歩いて行くと、やがて右側に一般の住宅にしてはかなり立派な石造りの門が現れました。 |
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門柱には表札が |
門柱には表札もちゃんと掲げられていますが、かなりの豪邸で一般の住宅ではない様です。中へ入ってみましょう。 |
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つづら折りの坂道を登る |
邸内に延びるつづら折りの坂道で丘(小日向台地)を登って行きます。 |
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丘の上の洋館 |
丘の頂に洋館が建っていました。広大な敷地と台地の起伏を巧く利用した、まるで西洋のお城の様な邸宅です。 |
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サンルーム |
ここは鳩山会館。昭和29年から31年まで我が国の内閣総理大臣を務めた、あの鳩山一郎(1883~1959)が建てた私邸です。入館大人500円を支払い邸内へ。 |
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第二応接室 |
邸内にある案内板に依ると、鳩山一郎がこの館を建てたのは関東大震災の翌年になる大正13年。 |
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食堂 |
その後建物の老朽化が進んだため修復工事が施され、平成8年に復元が完了し、この様に一般公開されるようになりました。 |
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見出し |
鳩山一郎の依頼を受けて館の設計を手掛けたのは、大正・昭和初期の名建築家であり友人でもあった岡田信一郎。因みに同じく岡田氏の設計となる、千代田区丸の内にある国の重文明治生命館は彼の最高傑作と言われています。 |
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和風図柄のステンドグラス |
邸内にはいくつかの素敵なステンドグラスが飾られていますが、これら全ての作者は、岡田信一郎と同じく大正・昭和初期に活躍した工芸家の小川三知(おがわさんち)。アメリカ留学後、日本にアメリカ式のステンドグラスを広めた人物と言われます。
ご覧のステンドグラスには鳩山家のシンボル、「鳩」の図柄が表わされていました。 |
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バルコニーより |
バルコニーに出て表を眺めてみました。音羽通り方面に立ち並ぶビルの多くは、ここから眺めると目線より下に映ります。小日向台地の端に建てられている為に、高層の建物もまだ少なかった当時は眼下の眺望も抜群だったでしょう。 |
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鳩山一郎像 |
鳩山一郎は首相就任後、当時国交が断絶していたソ連との関係正常化を目指すべく精力的に交渉を重ねます。そして同国で事実上のトップだった党第一書記のフルシチョフとのトップ会談を経て、昭和31年に日ソ共同宣言の調印となり、両国における国交の回復と関係正常化を実現させました。
洋風庭園内に建立されたこの鳩山一郎像は、日ロ国交回復50周年を記念して平成19年にロシア側から贈られたものです。 |
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洋風庭園 |
この鳩山邸は、所在地の住所から音羽御殿とも称されています。洋風庭園から眺める館の姿は、まさに御殿と言う言葉がピッタリ。 |
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音羽通りを進む |
小日向台地を下って鳩山邸の門を抜け、音羽通りまで下りて来ました。このまま通りを進んで行きましょう。 |
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講談社本社旧社屋 |
やがて通りの向こう側には重々しくてクラシックなビルが見えて来ます。昭和9年の竣工になる出版社の講談社本社ビルです。音羽御殿が英国のお城風なら、こちらはギリシャ神殿風。 |
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東京メトロ護国寺駅 |
通り沿いすぐに、東京メトロ有楽町線の護国寺駅に到着です。 |
★交通 |
JR中央・総武線 飯田橋駅下車 |
★歩行距離 |
約 5.5 km |
周辺地図
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