【 私のハプログループはBでした 】


 唾液を使用してミトコンドリアDNAのハプロタイプを調べる検査の結果が分かりました。
 検査方法などはこちら→DNAを調べる私の遺伝的傾向は・・・

 遺伝子からわかる祖先の情報は『ハプログループ』と呼ばれるグループで定義されており、 グループ毎に興味深い特徴が見られます。 『ハプログループ』の中で、日本人の多くは大きく10タイプに分類され、 北方を起源に、極寒の地を生き抜いたグループや、 南方を起源に、南の海を縦横無尽に冒険したグループ等の特徴があります。<検査会社の解説>

 ミトコンドリアDNAは母親から子供に伝えられるものだそうです。
 母親から娘と息子に伝わりますが、そのDNAを次の世代に伝えることができるのは娘だけであって、息子からは次の世代には伝わりません。
 Y染色体DNAが父系で遺伝するのに対して、ミトコンドリアDNAは母系で遺伝しますから、それを調べると母方の祖先を辿ることができ、辿った先に行きつくのは約20万年前アフリカの地で誕生した一人の女性「ミトコンドリアイブ」なのだそうです。

 以前、読書の備忘録に、「新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造(篠田謙一 著)」をアップしていますが、そこにもハプログループBのことをコピペさせてもらっています。

 私が利用したのはMYCODE(マイコード)です。
 他にもあるだろうし、それを勧めているわけではありません。





 私、阿部伸一のミトコンドリアDNAのハプログループはBでした。
 怖がりだけれど冒険は嫌いじゃないし、船の旅が好き(ずいぶん前にゴムボートも購入した・・・)だというのも、祖先の影響なのかもしれません・・・。

<検査会社の解説>
 新しいもの大好き!冒険大好き!ではありませんか?
 ハプログループBは中国南部が起源とされ、日本人の15%程度を占めるグループです。ハワイを含む太平洋の島々から南米大陸まで、全世界に分布を拡げた開拓精神にあふれたグループです。日本には比較的古い時代に南方よりやってきて、縄文人になったと考えられます。 (遠い血縁:ハワイの原住民)






 ハプログループBがたどった道のりです。

<検査会社の解説>
 全人類の共通祖先は、約20万年前アフリカの地で誕生し、およそ10万年前から、新たな地に進出していったとされています。
  アフリカを出た人類は、その驚くべき適応能力で、全世界にその生活地域を拡大し、例えば、北の地では寒さに対応するための衣服や住居が発達し、シベリアやアラスカといった極寒の地にも定住しました。また、南の地では航海技術を発達させ、太平洋のあらゆる島々まで生息域を広げて行きました。
 あなたの検査結果からわかった祖先は、いつの時代に、どこでどのような生活をしていたのでしょうか。 祖先の道のりをたどる旅に出てみましょう。






 数千年前、私の(母方の)祖先は日本にいました。

<この時代について・・・ 検査会社の解説>
南からやって来た縄文人
 かなり古い時代に南方より日本列島に流入し、縄文人を形成するグループの一つになったとされており、縄文文化という日本固有の文化を構築したと考えられています。

狩猟採集生活と縄文文化
 この時代の日本はやや寒冷な気候で、人々は狩猟採集生活を営んでいたと考えられています。イノシシやシカなどの獣肉や、魚や貝といった水産物、どんぐりなどの木の実を食料とし、縄文土器を用いて火を利用した調理も行っていたと考えられています。また、縄文土器の装飾に見られる高い芸術性は世界的に見ても稀有なものであり、この時代の人々が豊かな精神を持っていたことが推察されます。

縄文人と弥生人の交代劇
 一方で、この縄文人グループは、弥生人が大陸からやってきたのとともに分布を縮小していきました。弥生人が主に列島中央部に流入し、その後南北に範囲を拡大したため、現代でも沖縄や北海道といった列島南北端では列島中央部に比べて弥生人の影響が弱く、縄文人の特徴(がっしりとした体に濃い顔など)を色濃く残してると考えられています。






 3~4万年前、私の祖先は東南アジアにいました。

<この時代について・・・ 検査会社の解説>
温暖な気候と海洋技術の習得
  一年を通して比較的温暖な気候であり、漁業を含む狩猟採集生活を営んでいたと考えられています。この地で暮らしていた人々のうちの一部のグループは、高い航海技術を身に付け、後に太平洋の島々へと拡散していったことが知られており、この地の人々はおそらくは船を構築し、漁業などで海に繰り出す習慣を早くから持っていたのではないかと推察されています。

控えめであった芸術活動?
  この地域で暮らした人々の興味深い特徴の一つとして、同時代の他地域に比べて、石器などの道具類の発達があまり進んでおらず、さらにアクセサリーの作成や埋葬の習慣など、いわゆる芸術に関する活動も控えめであった可能性がある、という点が挙げられます。この事については、この地域が一年中温暖で食料も安定的に手に入る環境にあったため、人々は比較的シンプルな文化でも十分生活できていたからではないか、と言う説が挙げられています。一方、この地域は化石として残りづらい竹を道具に利用していたために、道具の痕跡が遺跡に残っていないだけなのではないかという説もあり、この地の人々の文化がどのようなものであったのか、真相は定かではありません。






 5~7万年前、私の祖先は中東にいました。

<この時代について・・・ 検査会社の解説>
洞窟で暮らした人類
 当時の人類は、洞窟を生活の中心としていたのではないかと考えられています。この時代の人類遺跡の多くは洞窟で見つかっており、そのなかには石器などの道具と合わせて動物の骨も多数見つかっています。このことは、当時の人類が捕獲した動物を洞窟に持ち帰り、そこで解体し、食事をとっていたのではないかという事を想像させます。

人類初期の芸術
  さらに、洞窟内では貝殻を使ったアクセサリーや壁画を思わせる壁の模様なども見つかっており、芸術というシンボリックな行動が当時から存在していた可能性をうかがわせます。

ネアンデルタール人とホモサピエンスの交代劇
 また、この地域には、我々(=ホモサピエンス)が進出する前に、すでにネアンデルタール人という“別の人類”が生息していたと考えらています。当時、ホモサピエンスとネアンデルタール人という二つの人類が同時代の同地域に生息していたかもしれないという事実は、人類進化を考えうる上でも非常に興味深く、現在もたくさんの研究が進んでいます。






 10~20万年前、私の祖先もアフリカで誕生しました。

<この時代について・・・ 検査会社の解説>
ホモサピエンスの登場
  我々人類(=ホモサピエンス)の共通祖先は、約20万年前、この地で生活していました。最初期の我々の祖先であるアフリカのホモサピエンスは、洞窟で暮らし、原始的な石器を用いた狩猟生活を送っていたのではないかと考えられています。

高度な知能と芸術活動
  約10万年ほど前の遺跡になると、骨を加工したいわゆる骨角器も見つかるようになり、その頃には漁業も始まっていたのではないかと考えられています。芸術やシンボリックな行動についても、石に刻まれたパターン模様/貝殻を使ったアクセサリー/塗料などが見つかっており、高度な知能が発達していた可能性が示唆されています。

出アフリカ、そして世界へ
5-10万年前に人類はアフリカを出たと考えられていますが、東アフリカとアラビア半島を結ぶ“嘆きの門”と呼ばれる海峡を越えた「第一の出アフリカ」と、5万年ほど前にエジプトから中東へと進んだ「第二の出アフリカ」があったと考えられています。そして、その末裔たちが、現在では全世界に拡散した我々の共通祖先と考えられているのです。




PAGE TOP