「キライになるまでやる」の話

 これは、エンターテイメント集団ザ・コンボイのリーダー、私の心のカリスマ(!)今村ねずみさんの言葉だ。

 今でこそ特集されたりCMやったり、びっくりするほど売れてしまった大ブレイク中のコンボイだが、ほんの5、6年前までは”コンボイって何?”という感じだった。その当時知る人ぞ知る集団だったコンボイが赤プリの某イベントにゲスト出演した時に、会場の人からの質問コーナーみたいなのがあって、お客さんの一人が、ねずみさんにこう質問したのだ。

”ダンスを習っているのですが、上手くなるコツを教えて下さい”

そしたらねずみさんは、

”それはキライになるまでやることだ”

と答えた。

 ねずみさんが言うには、ダンスでも芝居でも歌でもなんでも、たえとで好きでやってたとしても、ある時絶対、何をどうやっても出来ない事っていうのが出てきて、出来ないことが辛くて苦しくて、好きで始めたことなのにとんでもなく「キライ」になっってしまうそうだ。で、その苦しい時にやめちゃうとそこでもう終わり。でも、めげずにもがいて苦しんでやり続けると、そのどうしても出来なかったことがある時ふっと出来るようになる。するとそこでまたそれが好きになる。でも、またすぐに出来ないことが出てくるから、それをやり続ける限り、苦しさに終わりはないって。

”そうやってキライになるまでやるのが結局どこまで出来るか、上手くなるにはそれの繰り返しなんだと思う”
ねずみさんは最後にそう締めくくった。

 その時私はまだタップを始めようとも思っていなくて、だからその答えを聞いても、「別に好きなことならどんなことでも出来るじゃん」としか感じなかった。が、いざタップ始めて、私はその時はじめて、この言葉の何とも言えない奥深さと哲学的な意味に気がついたのだ。

 ヒールドロップすら満足に出来なくて何度も、”〜別に誰に頼まれた訳でなし、こんな思いしてまでやんないでいいじゃんか!”なんて思ったりしたけど、考えてみたら自分はそこそこ今まで色んなことをしてきたけど””キライになるまでやる”なんてことは、正直やらなかったと思うのだ。器用貧乏なところがあってある程度出来るんだけど、でも出来ないと簡単に放りだしちゃう。”出来ないくらいなら最初からやらない”という、すごくズルイ論法で生きていたからだ。

 でも、タップに関してはそうはいかなかった。それは
ほとんど初めて、「自分の意志で始めたお稽古事」だったから簡単にはやめたくないというのもあったし、周囲にも”体育会とは無縁のアンタにいつまで続くのかしら”とか、随分と失礼な事を言われ、けっこー悔しかったりしたからだ。

 そんな訳でぴーぴー泣きながらでもめげずに続けていたある日のこと、ほんとある時ふっと、何て言うのか、「突き抜ける」瞬間みたいなのが、大げさではなく起こったのだ。

 ついこの前まで、泣いても暴れても(!)出来なかったことが出来る、足が動く、先生の踏んでるステップが分かる、カウントが取れる。そんな風に、
ほんの少しでも自分の思い通りに体が動くことに、何ともいえない快感を覚える(!)そうするとやっぱり楽しくなってくる。楽しいと好きになる。でも好きになるということは、また出来ないことが出てきて”キライになる”始まりなのだ。再び挫折と葛藤の日々入。ぴーぴー言いながら、でもめげずに練習する。

 そんな調子でどうにかこうにか続けていると”ああ、キライになるまでやるってこういうことか”って、何だか骨身に染みて分かった気がする。
そうしてねずみさんっていう人は、そんな質問にも、さりげなく奧が深い言葉が出る人なんだろうなあって思う。。単に練習頑張るっていうよりは、もっと今までの経験とかそういうのに裏打ちされて出てくる言葉だから、そういうのって気持ちに響く感じで、”ようしやるぞ!”ってほんとの意味で励みになる。

 今ちょうどその”キライなバイオリズムですが。〜当分、キライかも。でもいつまでキライなんだろう(汗)

00/12/5


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