コバルトブルーの女王



「マーシュ!」
 五時間目の授業が終わり、あと一時間ほどの苦行を堪え忍べば解放されるという時にな
って、甲高い声が彼の名を呼んだ。
 彼は妹の声が聞こえないふりをした。貴重な十分間の睡眠時間を奪われたくなかったか
らだ。
 もちろん、無駄な抵抗だった。
「寝たふりしないでよ。起きてんでしょ」
 アンナは、机に突っ伏したまま動こうとしない彼のところまでやってくると、襟首をつ
かんで頭を持ち上げた。
「なんだよ、何か用か?」
 マーシュは眠そうな声で尋ねた。事実、半分徹夜した翌日のこの時間になると、冗談抜
きで眠くて仕方がなくなる。成長期の高校生にとっては実にきつい。
 アンナはそんな事情は知らないし、知っていても気を回したりはしない。第一、彼女は
いくら気に入った本だからといって、それを読み通すために睡眠時間を切りつめるような
不健康な真似をしない。
 つまり、彼がどれだけ眠いかなんてことは体験的に分からない。
「今日の放課後、約束したでしょ」
「……何だっけ?」
 とぼけてではなく、本当にど忘れした声で返事が返ってきた。もう少し意識がはっきり
していればまともに返せただろうが、この瞬間、彼は完全に寝ぼけていた。
 アンナは黙って半年違いの兄の頭をシェイクした。
「うぉわぁつ、ま、待てぇっ」
「目、覚めた?」
 にっこり笑って尋ねる。この笑顔にだまされて、マーシュの同級生の間でも、結構彼女
の株価は高いらしい。
「……」
 不機嫌そうに黙り込む。さすがに寝直すこともできない。
「今日の放課後……」
「今日は日が悪い」
 もう一度頭を掴まれそうになったのをかわし、目をこすりながら尋ねた。
「もう完成したのか、あのオモチャ」
「まだ。今日は試運転」
「じゃ、おまえがやれよ」
「そのつもりだけど、データ読むのをお願いって、昨日も言ったじゃない」
「俺が読んでも他の奴が読んでも、たいして違いもないだろうが」
 口ではそう言ったが、実際には大きく違う。マーシュはテストパイロットの父に連れら
れ、よくモビルスーツの稼働試験に立ち会った。頭の回転の速い彼は研究員たちにもかわ
いがられ、こうした時にMSの操作法だけでなく、試験データの読み方も教わっていたの
だ。
 このため、彼は十六歳という年齢に不相応なほどMSの操縦やデータ評価に詳しい。好
きなことなら徹底的にのめり込む性格もそれを助けたのだろう。レストアしたMSの起動
試験に立ち会わせるにはこれ以上の人材はいない。
 そのあたりはアンナも承知していた。だから帰宅部のマーシュを引き込もうとしたのだ
し、頼まれれば彼が引き受けないはずはないということも分かっていた。いちいち突っか
かっているのは彼の性分みたいなものだ。血が繋がっていないとはいえ、このあたりの呼
吸は兄妹らしくしっかりと理解していた。
 言うだけ言ったあと、マーシュは鼻を鳴らして尋ねた。
「で、何時からだ?」
「最後の準備は四時半から。テストは五時から」
「じゃあ、五時に行けばいいな」
「うーん、配線とかのチェックを手伝って欲しいな、とか思ってんだけど」
「面倒くさい。それくらいおまえらで出来るだろうが」
「実験の時には何一つおろそかにしないって、いつもいつも−」
「そりゃパイロットの話だ」
「マーシュも乗るんだよ」
「……なんで」
「あたしじゃデータの取り込みを完全には出来ないもん。最初はあたしが乗るけど、次は
マーシュ」
「……だったら、俺が先に乗るわい」
「あ、そ。じゃ、そうして」
「……」
 マーシュは妹にうまく言いくるめられたことに気が付いた。面白くはないが、言った以
上仕方がない。
 まあ、口に出して言うのは癪だが、俺たちよりも年を食ったザクを、レストアして乗っ
てみるというのは悪くない。なかなか出来ることじゃないよな。
 そう考えて自分を納得させることにした。

 六時間目が終わった。
 いったい誰が日本語のグラマーなどという非論理的な代物を考案したのだろうか。マー
シュはそんなことを思いながら教室を出た。
 まあいいか。そのおかげで睡眠時間が稼げたんだし。ナカヤマ先生も、この授業ばかり
は寝ていてもあまり文句を言わないもんな。こんな授業を受けなくても日本語は使えるし。
 父や母の仕事の都合で何度も引っ越しを繰り返したマーシュは、必然的に数カ国語を話
せるように育てられた。この時代、公用語である英語以外の会話能力を要求されることは
あまりないが、授業の一環として複数の語学を選択させられる。コロニーや月面など、複
数の人種が入り混じっている世界ではあまりやかましくないが、地球では昔ながらの「国
語」を残している地域が多い。日本もその一つだ。
 ただし、マーシュはサイド6で暮らしていた頃に、基本的な日本語の会話ならすでにマ
スターしていた。さすがに漢字は手に余るが、日常会話程度なら不自由しない。このこと
は彼の姉も妹も同様だった。姉のラシーダは文字方面を、妹のアンナは会話方面を得意と
していたが、これは性格と才能がもたらしたプラスアルファであって、基本的な能力ので
は一家の誰も不自由していなかった。
 とくに、ラシーダの能力は傑出していた。この地に引っ越して一年すこしの間に、比較
的修得が難しいと言われている日本語の読み書きや、掛け値なしに難しいと認められてい
る文法ですら、日本人の生徒を凌ぐほどに熟達していたのだ。
 廊下を歩きながらふと窓の外を見る。一目でラシーダが歩いているのが分かった。いつ
も付けているコバルトブルーのヘアバンドが日光を反射したからだが、それだけではなか
った。
 彼女の場合、頭の作りだけでなく顔や身体の作りも常人のレベルを超えていた。
 マーシュの同級生たちは、月並みな褒め言葉を一通り並べただけでは話にもならないし、
辞書をひっくり返しても追いつかない、なんて泣き言を言っていたものだが、そのあたり
は九年間彼女と暮らしてきた彼にもよく分かった。同性に褒められる美人は本物だという
が、彼女の場合、それもクリアしている。家族として一緒に暮らしている妹や母が一番熱
心な賛美者だろう。普通長年一緒に暮らしていると、もう少し冷静になれるものだが、彼
女たちは例外らしい。
 人の欠点を見つけることに長けたマーシュに言わせると、ああもボケボケした人間も珍
しい、ということになるのだが。この点にしても彼女の賛美者たちに言わせると、「それ
がまた神秘的で」ということになるから始末に負えない。確かに、ラシーダには神秘的と
いうか、なにかしら人を寄せつけ難くさせる雰囲気があった。
 そうしたこともあり、衆議一致した彼女の称号が「女王」だった。
 この「女王」は、シャレにもならない「魔力」をいくつか持っている。そのうちの一つ
が、やたらと勘の鋭いことだった。この時も、二階の窓から彼女の背中をちらと見たマー
シュに気付いたらしい。ゆっくり振り返ると、迷いなく彼に視線を合わせた。
 マーシュはラシーダのライトグレーの髪が揺れるのを見てそれを知った。軽く手を振っ
てみせる。
 それで充分だったらしい。ラシーダは表情を変えることもなくそのまま身体の向きを戻
すと、何事もなかったかのように歩き出した。マーシュにとってもそれで充分だった。ア
ンナ同様、彼女とも血は繋がっていないが、それでもやはり姉弟であることには違いなか
った。
 時計を見た。四時二十五分まであと三分しかない。周りにいた数人の男子生徒が惚けて
いるのを無視して、妹の待つ機械部の格納庫へと急ぐ。軍の基地を改造して造られたこの
高校は、なにかにつけ日本の建築物とは思えないほど大振りに出来ており、校舎から格納
庫までは結構な距離があったのだ。

 コクピットの中をのぞき込んだ瞬間、マーシュは顔をしかめた。
 一年戦争期のジオン製MSの代表格とはいえ、中身はほとんど別物だ。二十年近くも経
っているのだ。電子機器などは生き残っているはずがない。当然、その後に生産されたパ
ーツを代用している。
 しかしマーシュが見たところ、この「ザク2」のコクピットは、ヤミ鍋同然の有様だっ
た。
 ベースはハイザックのものらしい。おそらく一番最初に開発され生産数も多かったJT
S−17シリーズらしい。「連邦製ザク」などとも呼ばれたハイザック用のコクピットだ
けあって、全天周囲型モニターを搭載したリニアシートの割にザク2の機体にそれほど無
理なく収まっているし、またそれ以前の問題として、生産数が格段に多かったことから、
他のものと比べて比較的手に入れやすかったのだろう。
 マーシュにしてもハイザックのコクピットは見慣れている。それに機械部の所有する唯
一のMSもハイザックなので、作業を行った連中もそれほど苦労しなかっただろう。
 問題はその中の機器だった。中途半端にいろいろなジャンクパーツが入り乱れているの
だ。
 もっともそれをいうなら、ハイザックのコクピットからしてどこからか拾い上げたジャ
ンク品らしかった。拾い上げたときにはどれも剥ぎ取られた後だったのだろう。計器類や
各種モニターなどはほとんど別物に置き換えられていた。
 マーシュはヘッドセットの電源が入っていることを確認すると、格納庫の片隅に陣取ら
れた「指揮所」に陣取ってモニターを見ている妹に尋ねかけた。
「なあ……」
「大丈夫、動くって」
 アンナはマーシュの質問を先取りして答えた。
「根拠は?」
「あたしたちの仕事を信じて!」
「悪いけど、帰らせてもらうわ、俺」
「嘘じゃないって、ちゃんとチェックもしてるから。そりゃMS全体の起動試験は今日が
初めてだけど、部分部分のテストは昨日までかかりっきりでやってたんだから」
 マーシュは顔をしかめたままコクピットに乗り込んだ。ザク2の場合、胸部装甲の一部
をスライドさせて滑り込むようにして搭乗するやり方が一般的だが、胸部装甲全面を前に
展開してコクピットを完全解放することもできる。整備の場合などはもっぱらこちらの方
が好まれた。
 このザクも胸部装甲を展開しており、どうも不似合いなリニアシートを剥き出しにして
いる。本来のコクピットを排除してハイザックのリニアシートを搭載しているので、胸部
装甲を展開しないことにはいろいろな部分が干渉してしまうらしい。
 やっかいだったのは、格納庫にザクを立たせるだけの高さがなかったため、トレーラー
に横たわったままであるということだった。シートは重力方向に垂直、要するにごく普通
の方向に据えられているため、MSが横たわった状態の場合、上向きに座らなくてはなら
ない。これもまあ慣れの問題だが。
 メーカーも規格もまちまちのモニターやスイッチ類に目を走らせる。どうにかハイザッ
クのコクピット配置に合わせているつもりらしい。
 さて、始めるか。本来ならば、チェックリストを挟み込んだボードをコンソールに固定
してそれを見ながら行う作業だが、機械部の連中がそんな気の利いた代物を用意してくれ
るはずがなかった。マーシュは記憶をたぐって、最低限必要そうな手順を頭の中に並べて
みた。まあ、なんとかなるだろう。
「メインスイッチ、入れていいか?」
「どうぞ」
 システムを立ち上げる。いくつかのチェックプログラムが走り、メモリーやハードに損
傷がないか確かめる。本来ならばこの次にログイン名とパスワードをチェックするはずな
のだが、面倒くさがった誰かがチェックを外したのだろう。チェック画面は出てこなかっ
た。そのままシステム起動。
 通常の手順なら、そのまま操縦用のプログラムに進むが、今回はその手前でストップ。
替わりにメンテナンス用のプログラムが呼び出される。
 マーシュはメニューの一つを選び、機体各部位の状態をメインディスプレイに表示させ
た。これと全く同じ情報が、「指揮所」のディスプレイにも流し込まれているはずだ。一
応そこには、ザクのコクピットにあるそれと同じ数だけのディスプレイが置かれている。
 一番気にかかっていた動力関係は問題なし。もっとも、ほんの少しでも問題があれば、
こんな試験などやってはいられないはずだが。
 動力伝達系……チェックルーチンが主張するところによると、問題なし。まず問題はな
いはずだが、センサーがフォローしきれないレベルで予想外の問題が発生していることも
ある。特に今回は素人が組んだ機体だ。関節部のギアの一つに異物が挟まっていた、なん
ていうケアレスミスが生じていないとは言い切れない。もっとも、センサーが問題を捉え
ていないという以上、問題が出てくるのは機体を動かしてからのことになる。ま、おそら
く、そんなこともあるまいが。
「知覚系に火を入れるぞ」
「どうぞ」
 メニューを選択し、機体機能の一部、知覚系の機能を起動させる。これで機体各部のセ
ンサーが外部の映像を捉えるはずだ。
 リニアシートの内側全面を覆う全天周囲モニターに格納庫が映し出される。ザクのモノ
アイや機体各部のサブセンサーに入った映像を合成したものだ。アンナたちも同じ映像を
見ているのだろう。ヘッドセット越しに歓声が聞こえた。
「なんだ、このチェック、まだやっていなかったのか?」
 忙しく各センサーの捉える映像をチェックしながら尋ねた。
「昨日やったんだけどね。やっぱほら、感動よもう一度、みたいな……」
「つぎ行くぞ。駆動系だ。右腕からな」
「……了解」
 メニューの中から駆動系テストプログラムを選択する。自分の手足なら違和感なり痛み
なりが問題あり、という情報になるのだが、機械の場合はそうはいかない。センサーの捉
える情報だけが頼りだ。
 こういう作業を行う度に人間の偉大さが身にしみる、などと年齢不相応な感想を抱きな
がら、マーシュは手早く設定を行った。まずは右腕から。
 極力負担をかけないよう、ゆっくりと右手の親指が動き出す。試験モードでは、右左二
本のコントロールスティックにそれぞれ五つずつあるトリガーは、両手の指に対応してい
る。彼がトリガーに込める力に従って、半開きの状態から手のひらまで曲げられ、また戻
る。次は人差し指。同じような作業が繰り返され、五本の指全部が握られ、開かれる。
 次は手首。ゆっくりと回る。時計回り、反時計回り。完了。肘関節。ゆっくりと前腕部
が起きる。鉄アレイを持ち上げるような感じだ。問題なし。肩関節。腕が振り上げられ、
降ろされる。本来ならば右肩に付いていたはずのショルダーシールドは外されており、変
に干渉するものもない。
 右腕は問題なし。では左腕。
 同じ作業が繰り返された。ちなみに、左肩に付いていたスパイクシールドも除装されて
いる。
「いい感じじゃない。数値の方も問題ないみたい」
 アンナが言った。たしかに、今のところ妙なストレスは発生していないらしい。
「よし、じゃ、脚のチェック行くぞ」
「うん。それもいいけど、歩けない?」
「チェックが終わってからだ。急ぐのは素人の悪い癖だぞ」
 マーシュは、アンナが一番言われたくないだろう言い方を選択して応えた。内心では彼
らがよくここまで整備できたものだと感心していたが、素直に声に出すのも少しばかり癪
だった。
 もっとも、アンナが気を悪くしていたのも短い時間だけのことだった。重力下の環境で
は、脚の状態をチェックするためには歩くのが一番だからだ。すぐにマーシュは歩行試験
に移ることを伝えた。

 格納庫の周りには人だかりが出来ていた。報道部の連中がカメラを回している。機械部
の手すきの連中が、トレーラーの出る場所をつくるために、それを下がらせようとしはじ
めた。
 一人がトレーラーのシートに座る。ザクのコクピットに通信が入った。全天周囲モニタ
ーの一部にウィンドゥが開く。二年生のアミだった。ラシーダの同級生で、馬鹿でかいサ
ムソン・トレーラーの車庫入れをさせたら右に出る者はいない。大型自動車の免許は持っ
ていないが。まあ、校門より内側は治外法権だ。
「よ、マーシュ。いまから出すからね。ちょっと揺れるよ」
「ああ。急がないですからね。ゆっくりやってくださいよ」
「まかしとき」
 トレーラーは頭からつっこんでいたので、バックで出さなくてはならない。が、アミは
危なげなくトレーラーを校庭に導いた。
 さぁて、はじめるか。マーシュは「指揮所」のアンナに呼びかけた。
「現状で問題なし。外から見て、何か問題あるか?」
「あぁ、ちょっと待って」
 舞台が校庭に移ったところで、「指揮所」も引っ越しを行うらしい。モニターにウィン
ドゥをつくりズームさせる。なにやら慌ただしげに端末やらカメラやらを持ち出そうとし
ているのが見えた。向こう側の通信機も、デスクトップのモニターから携帯型のものに変
わったらしい。開きっぱなしの回線ごしに、アンナたちが移動しているのがよく分かる。
 マーシュはザクのサブカメラの一つが格納庫を映し出せることに気づくと、その映像を
ズームした。軽トラックの荷台にいろいろと積み込んだ連中がこちらに向かってくる。
「おとなしくしてられないのか?」
 多少の皮肉を交えてアンナに言うと、アンナは大まじめに言い返した。
「今日のあたしたちはこれを見に来たの! 数字なんかじゃないもん」
「ごもっとも」



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