『赤ちゃんと僕』というマンガが好きです。
昔の中国には、洗児(せんじ)という行事がありました。これは、生まれて3日目の赤ちゃんを湯に入れて、お客様を招き誕生を祝う宴を行うというものです。例によって、今も行われているかは知りません。
とある年の新年を迎えたばかりの1月3日。後宮で洗児が行われました。
ただ、一般に行われる洗児とは大きく異なるところがありました。それは、異様なまでの赤ちゃんの大きさです。体重が、200sある赤ちゃんでした。
世界一大きな赤ん坊の世界記録は知りませんが、古今東西でおそらく世界一でしょう。この赤ちゃんの名は安禄山(あんろくざん)。
母の名は、楊貴妃(ようきひ)といいます。楊貴妃は、時の皇帝に寵愛された宮女で、貴妃というのは簡単に言えば官職名です。姓が楊で、名は玉環(ぎょくかん)というらしいです。
安禄山は、皇帝との間にできた子どもではありません。後宮の宮女が皇帝以外の男性の子どもを生むことは、普通は無理ですから養子ということになります。母子の年の差は、14歳。いや、−14歳というべきでしょうか。
母である楊貴妃の方が、14歳若かったのです。
このとき楊貴妃は20代後半でしたから、安禄山は40歳前後ということになります。
安禄山の誕生日は、1月1日でした。そんなわけで、それから3日後の1月3日に楊貴妃は「母」として、彼女の「息子」のために洗児を催したのです。もちろん、冗談半分、おふざけ半分だったのでしょう。
40歳に近い安禄山は、金銀刺繍で飾られた豪奢なオムツをはかされ、官女たちがかつぐ輿に乗せられました。この様子を見て、楊貴妃をはじめ、みな笑い転げました。
やがて、皇帝がやって来ました。
「なっ・・・」
目の前に繰り広げられた光景に、皇帝は言葉を失いました。輿上の安禄山と目が合いました。彼のかっこうをまじまじと見つめます。200sのいい年した巨体のオッサンが、オムツ姿で官女に担がれた輿に乗っかっている。普段の安禄山は、国境警備軍の将軍ともいうべき地位にある武人なのです。
大笑いしました。あまりにおかしかったので、ご褒美に金銀財宝や豪邸をプレゼントしました。それだけではあきたらず、安禄山の息子や彼自身を出世させてもやりました。
度量がでかいというのか、財布のひもがゆるいというのか。
それにしても、昔の中国人の笑いのツボがまったくわかりません。
唐(とう)は、玄宗(げんそう)の時代のお話です。
玄宗、楊貴妃、安禄山。3人ともけっこう有名な人物ですね。
安禄山──世界史でいえば唐の屋台骨を崩した、安史(あんし)の乱を起こした人物です。安史の乱なんてかっこいい反乱名、と思っていたのですが、実際はそうでもありませんでした。この乱を起こしたのは、安禄山ともう一人史思明(ししめい)という人です。安禄山と史思明、二人の頭文字を取って「安史」の乱・・・なんて安易。ちなみにこの二人、ともに息子に殺されるという最期迎えることになります。
上述のような仕打ちを受けて、当の安禄山はどのような心境だったのでしょうか。後に反乱を起こした事実から考えると「おのれ楊貴妃、この屈辱晴らさでおくべきか」と激怒していたように思えますが・・・。
私は、安禄山は楊貴妃のことが好きだったのでは、と思うのです。男としてではありません。実際の関係は「母子」です(もちろん義理)が、わがままな孫娘を問答無用に可愛がる「祖父」として、楊貴妃を愛していたのでは、と思うのです。でなければ、あんな情けない行為はできません。いくらなんでも皇帝や楊貴妃に気に入られるため、という目的であんなことはできないでしょう。
一方、安禄山はよく「危険な道化者」と形容されるようです。皇帝や楊貴妃に気に入られるためならなんでもやったからだ、というのが理由です。
どちらが、安禄山の真の姿だったのでしょうか。
安禄山は、反乱の名分として「皇帝の側にいて災いをもたらす奸臣を排除する」というスローガンを掲げました。彼の言う奸臣とは、楊国忠(ようこくちゅう)。楊貴妃の従兄です。