『孫子』という本があります。数年前、私がこの本を買いに行ったときのことです。本屋さんの本棚にありませんでした。そこで、お店の人に尋ねました。「岩波文庫の『孫子』ありませんか」すると、横にいた友人が、いぶかしげな目で私を見るのです。・・・ソンシ、という響きが悪かったようです。
この『孫子』、今回の話の主人公が書いた(とされる)軍事書です。
王城の広場には、180人の兵士が2組に分かれて整列していました。
これから、訓練がはじまるのです。この軍隊を率いるのは、孫武(そんぶ)です。
しかし、どうも緊張感がありません。
訓練の様子を見る王からして、家臣に笑いかけたりしています。あろうことか、兵士の中にさえ、笑っている者がいる始末です。
真剣なのは、孫武一人でした。
数時間前のことです。孫武は、この国の王に呼ばれました。
孫武の書いた兵法書を王が読んだためです。
「あなたの本は、実に興味深い内容であった。だが、実際の戦争で役に立つであろうか」
戦争は、理論通りに進むものではありません。幾たびも戦場に立っている王は、それを知っています。
孫武は、その兵法書に強い自信を抱いていました。よく書けた、と思ってました。
「もちろんでございます」
力強く、孫武はうなずきます。
「ならば、実際にやってみてくれぬか」
「王がお望みとあれば」
「では、後宮の女官を兵士としてやってくれぬか」
後宮というのは、簡単にいえば、王や皇帝の母親や妻、愛人、彼女らに仕える女官の住居です。王様専用ハーレム、といったら語弊があるかもしれません。
とにかく、後宮の女官ほど、兵士に遠い存在はいないでしょう。男は王以外誰もいない所で生きているのですから。つまり、王は、孫武をからかったのです。王は、孫武の著書にそれほど大きな感銘を受けなかったようです。
しかし、孫武は「わかりました」と了承します。普段、滅多に見せない、力強い口調でした。ありきたりな表現を使えば、その瞳からは今までと違った光が発されていた、というところでしょうか。
「女官の方々を立派な兵士とすればよろしいのですね」
「そのとおり、そのとおり」
王は笑ってこたえました。
できるわけがない、と思ったのです。
孫武は、女官180人を2組に分け、王がもっとも寵愛している二人を隊長としました。
王城の広場に集められた女官たちは、槍を手に、キャッキャ、キャッキャ言っています。中には、生まれて初めて武器を手にした女官もいたでしょう。女性が、珍しいものに歓声をあげるのは、いつの時代も同じようです。
指揮する兵士がこんなですから、孫武はバカ丁寧に訓練の説明をはじめました。
「皆さま、右はおわかりですかな」
「ハーイ、知ってマース」
城壁をも突き抜けそうな甲高い声が返ってきました。
「それは、大いにけっこう。では、私が、右向け右、と言ったら、右を向いてください。よろしいですか?」
普通に考えれば、この孫武の説明は、女官たちをバカにしているようにしか聞こえません。しかし、当の女官たちは、
「ハーイ、わっかりましたー」
と、これでもかと言わんばかりに陽気な声でこたえました。みんな、バカばっかりです。
続いて孫武は、左を向く、後ろへ下がる、立つ、座る、槍を振る、といった動作を丁寧に丁寧に説明していきました。
その度に、女官たちは明るい声を発しました。元気だけは本物の兵士に負けません。あまりに楽しそうな軍事訓練の様子に、王や家臣らも笑っていました。
長い時間をかけて、やっと説明が終わりました。
「皆さん、説明は以上ですが、わかりましたかな」
「ハーイ、オールオッケーでーす」
・・・もう言葉もありません。
「そうお気楽では困りますな。皆さんは、もうすでに、私という将に率いられる兵士なのです。軍隊には軍律というものがあって、軍律に従わない者は罰を受けるのです。この罰は、普通の法律よりずっと厳しくて首を斬ってしまうのですよ」
孫武は、斧を持った軍隊の官吏を指さしました。
顔も、手にした斧も怖いのですが、この軍吏たちもいまいち真剣みがありません。多くの女官に見つめられて、ちょっと照れちゃってます。
「わっかりまっしたー」
女官たちは、相変わらずの態度です。心配になった孫武は、もう一度説明を繰り返しました。浮きっぱなしの孫武が、ちょっと可哀想です。
何はともあれ、いよいよ本番です。
訓練の開始を合図する太鼓が鳴りました。
つづく。
私のイメージでは、孫武という人は、その強そうな名に反して、いかにも人の良さそうな「おとぼけじいさん」という印象があります。ですから、若いときの姿が想像できません。海音寺潮五郎さんの小説『孫子』の影響だろうと思います。
そんなわけで、一見やる気の感じられない「はぁ」というセリフが似合います。
本人に怒られてしまいますね。