第九回  女が兵士になるとき(後)

 

 日本の戦国時代に、武田信玄という人がいます。「風林火山」の旗印が有名ですが、このフレーズは『孫子』にある記述です。

「右向け、右!」
 孫武(そんぶ)は、老いた身体のどこのそんな元気があるのか、と問いたくなるほど大きな声で言いました。それがおもしろかったのか、女官たちは一斉に笑いだしました。もちろん、右を向く者など一人もいません。そもそも、彼女たちは、訓練ごっこだと思ってます。
 孫武は、女官たちの前に出ると、
「命令をはっきり伝えることができず、兵が指示に従えなかったのは、将である私の罪である」
と言い、軍吏を呼びました。そして、自分をむちでひっぱたかせました。老身にこたえないはずがないのですが、孫武はスクッと立ち上がりました。 
 孫武は、自分だけはバカ正直に軍令を守ったのです。彼はまた一から説明を始めました。
「もう一度言っておく。軍令に従わぬ者は、斧で首をはねるぞ」
 孫武の口調は、兵士に対するそれになっています。
「わっかりましたー」
 女官たちは、絶対にわかってないな、と思わせるに充分な明るい声でこたえます。
 孫武は、全く表情を変えずに、訓練開始を知らせる太鼓を鳴らさせました。

「右向け、右!」
 ・・・先ほどと、寸分違わず同じ結果になりました。王城の広場は、黄色い華やかな声に包まれました。このときの季節はわかりませんが、まるで春が来たようです。
「静まれっ!」
 その春風を引き裂くように、鋭い声が響きました。孫武の声です。
「軍令はすでに徹底している。それなのに兵が命令に従わないのは、もはや将軍の罪ではない。兵を直接指揮する隊長の罪である」
 王のもっとも寵愛する二人の美女が、隊長を任されていました。
「軍令違反は斬首するとすでに申し渡してある。軍吏! 隊長をつとめる二人の首を斬れ!」
 あまりの孫武の迫力に、今まではやや真剣みを欠いていた軍吏も「はっ!」と声を張り上げて、二人の美女を軍旗の側に引っ立てました。
「斬れ!」孫武は、冷たく言い放ちます。
 軍吏は、斧をかまえました。ここで初めて、女官どもは顔色を変えました。王も顔色を変えました。慌てて使者を孫武のところへ送りました。
 一刻を争うのだから直接言えばいいのに、と思いますが、おそらく、訓練時に王が将軍に何か言うには使者を出すのが常識だったのでしょう。ただ、この話では、わざわざ使者を登場させるのが面倒くさいという私の都合により、使者を省きます。
「卿(けい)の用兵の才、よくわかった。もう充分である。その二人は、今、余が最も愛している者たちだ。その二人がいなくなっては、余は寂しい。斬らないでほしい」
 男からすれば羨ましいであろうセリフで、王は二人の美女の助命を要求しました。
 孫武はこたえます。
「王よ、私は王により将軍に任命されました。軍隊においては、将は絶対であります。たとえ王のご命令といえども、軍令違反者を許すことはできません」
 自分をむち打たせ、しっかりと軍令を守った孫武ですから、説得力があります。
「斬れ!」

 孫武の命令は、実行に移されました。王城の広場は、しんと静まりかえりました。空気が一変しました。遊技場の空気から、戦場の空気に変わったのです。
 斬られた二人の次に王に寵愛されている二人が隊長にたてられ、訓練が続きます。
「右向け、右!」
 178人の女官──女兵は、一糸乱れることなく右を向きました。孫武の命令に従い、左を向き、後退し、しゃがみ、槍を振るいました。孫武は、訓練終了の太鼓を鳴らさせました。
「王よ、訓練が終わりました。女官方はすでに一人前の兵士です。王のために命をも捨てる覚悟を持った、精兵であります。どうぞ、近くでこの精兵たちをごらんください」
 そう言う孫武に、王はぶすっとして言いました。
「ご苦労さまでした。ですが、わざわざ近くで見たいと思いません。お疲れでしょうから、どうぞ今日のところはお引き取りください」
 丁寧な言葉遣い(孫武はまだ王の臣下ではありません。お客として招いたのです)ですが、内心おもしろくありません。愛する女性を殺されたのです、それも二人も。当然です。自分でまいた種なので、よけいにおもしろくありません。
 孫武は、こんな王の様子を見て、ため息をつきました。
「軍事は口先のことではないのです。非常にシビアな現実のことなのです。実際の戦争をお知りでないのは王でございますな」
 前半で、王は孫武の兵法書を、実際の戦争で役に立つか、疑問に感じました。
 王にとって、この言葉は手痛いしっぺ返しです。
 王は内心むかついていましたが、孫武の用兵の才は認めざるをえませんでした。重く用いることに決めました。ここらへん、暗君ではありません。

 どこかで、次のようなアニメを見た記憶があります。もしかしたら、私の夢か妄想かもしれませんが・・・。
 話の中で、首を斬られた二人の美女がいました。命令違反を犯した彼女たちは、軍吏によって、広場のすみっこの人目のつかないところに連れて行かれました。孫武が言います。
「私が合図をしたら、絶叫をあげてください。そうすれば、首を斬る必要はありませんから」
 軍吏は「ふんっ!」と斧を振り下ろします。孫武が合図を出します。美女二人の絶叫が広場に響き渡りました。もちろん、二人の首はつながってます。
 後は同じように進行します。私の孫武像からすると、こっちの方が近いです。
「怖い思いをさせて、申し訳ありませんでした」なんてことを言う孫武ですね。

 舞台は春秋時代呉(ご)の国です。「呉越同舟」の呉です。三国志の呉ではありません。
 王の名は、闔廬(こうりょ、闔閭とも書く)といいます。人によっては、春秋の五覇(春秋時代の五人の名君)に数える優秀な王様です。
 ちなみに、孫武は、実在が確認されていません。私は、いたと思ってますけど。