第五回  親の心、子は迷惑

 

 もう何度目の逃亡なのか。
 もう何度目の敗戦なのか。
 喚声の飛び交う戦場で、劉邦(りゅうほう)は考えていた。端から見たら、呆けているようにしか見えない。それもそうだろう。なにせ、劉邦は五十六万の大軍を擁していたにも関わらず、僅か三万の敵軍にこてんぱんに蹴散らされたのだ。
「そうだ。項羽(こうう)だ。敵が項羽だからだ」
 他者が聞けば、何を今さら、と言い捨てたくなったに違いない。
 劉邦のところに入った情報では、項羽は他の戦場で身動きが取れない、とのことだった。
 油断が生じた。劉邦は、今までさんざん項羽に破れてきたというのに、まだ項羽を甘く見ていた。項羽はまさしく戦争の天才なのだ。でなければ、いかに自分が油断していたとはいえ、三万の軍で二十倍近い数の軍勢を撃破できようか。
 劉邦の乗る戦車が大きく揺れた。思考が中断され、現実に目をこらす。
 敵軍の鬨の声が、一際大きくなっている。天から降ってくるような圧迫感に劉邦は震えた。
 身体に何かが触れた。二人の子供が劉邦に抱きついてきた。
「父上」
 心配そうな息子と娘に、劉邦は親らしい応対を示した。
 二人を両腕に抱きかかえたのである。
 そして・・・。



 小説っぽく入ってみました。
 文中に戦車、とありますが、もちろん大砲とキャタピラのついた戦車ではありません。今から2200年くらい前のことです。あったら、それはそれでなかなかおもしろいことになりますがありませんから、馬車みたいな戦車です。
 劉邦という人は、中国史ではけっこう有名な人です。作家の司馬遼太郎さんや漫画家の横山光輝さんの『項羽と劉邦』でご存じの方もいらっしゃるかと思います。後に、大帝国を建国する人です。
 その劉邦が逃げています。
 追うは項羽。羽は字(あざな)で、名は籍(せき)ですが、項羽という呼び名がしっくりきます。
 この人もかなりの有名人です。
「力山を抜き、気世を蓋ふ・・・」
 俺の力は山を抜き、英気はこの世界を覆う・・・。という、何とも壮大な詩を詠んだ人です。すごいですね。生半可な自信の持ち主ではありません。事実、実力もともなってました。
 この人には愛する女性がいました。先ほどの詩の後半に登場します。虞(ぐ)という人です。
 好きで好きで、戦場にも連れてました。私なんかは、危ないじゃないかと思ってしまいますが、この項羽という人は、自分が負けるなんて思いもしなかったのでしょう。
「勝てば危険などないではないか」
 と、自信たっぷりに豪語するような人でした。
 
第二回で登場した幽王は愛する女性のためにバカな行為をやりました。項羽は愛する女性のために、ただでも強いのにさらに強くなれたのかもしれません。愛する女性のためなら、男はバカにも強くもなれるのでしょうか。男は、女の付属物ではないか、なんて考えてしまいます。

 項羽は強い。めちゃくちゃに強い。劉邦なんて相手にならない。いつもメッタメッタにやつけます。
 劉邦は逃げる。項羽は追う。項羽VS劉邦はいつもそうです。劉邦もしつこい性格をしてます。
 劉邦は戦車に息子と娘を乗せてました。逃亡中に見つけて拾い上げたのです。
 すでに敵に捕らわれていると思っていた二人を救えたのです。嬉しかったでしょう。ですが感動の再会を喜ぶ暇もありません。敵軍が迫っていたからです。
 いよいよ敵の騎兵に追いつかれそうになると、劉邦はとんでもない行動にでます。
「父上ぇー!」
 悲痛の声が聞こえてきそうです。あろうことか、二人の子供を放り捨てたのです。
 戦車を操っていた人が、どうにもいたたまれなくて子供たちを拾い上げて戦車に乗せました。
 劉邦は、自分の子供たちにどの面さげていたのでしょうか。
 しばらくして、また危うくなりました。また放り捨てました。また拾い上げました。
 同じことがもう一度。なんとか劉邦一行は無事、逃げおおせることができました。

 この劉邦の行動には、二つの解釈があります。
 一つは、ただ単に自分の命が惜しかった、というもの。もう一つは、長年仕えてきた家臣(戦車を操縦していた人)を失いたくなかった、というもの。
 私は前者だと思います。というより、後者は考えられない。
 二度目以降は、子供を放り捨てても家臣が助けに行くことくらい誰にだってわかります。なのに捨てた。捨てれば、危ないのは子どもを救いに行く家臣です。ただ必死で、助かりたいの一心、無我夢中で放り捨てたのでしょう。
 子供二人分軽くなったといって、たいして馬のスピードも上がるとは思えません。仮に、速度が上がるにしても、家臣が子供が捨てられるたび、助けに行くのです。結局は逃亡速度を遅めてしまいました。
 何をやってるんでしょう、この人は。
 確かに、劉邦は死んではいけない人でした。何十万という兵士の大将ですから。自分の安全を考えるのは義務といってよいでしょう。
 でも、釈然としないものがあります。私が、現在の倫理観を持ち合わせているからでしょうか。

 この子供たち、この出来事がトラウマになることもなく、無事に育ったようです。しかし、息子は後に、今度は母親(劉邦の妻)によってひどいめにあわせられてしまいます(第十回)。
 何をやってるんでしょう、夫婦そろって。
 項羽と彼の愛した虞(一般には、虞美人とかいわれます)の方が、ファンは多いようです。
 そういえば、小説や漫画のタイトルは『項羽と劉邦』ですね。最後には負けた項羽が先で勝った劉邦が後。
 『劉邦と項羽』
 どうもさまになりません。

 ちなみに、劉邦が建てた大帝国というのはという国です。中国人や私たちの使う文字は「漢字」です。よく中国人のことを「漢民族」といいます。は、中国の代名詞のような大帝国なのです。
 なぜ、今回の話でいう限り、いまいち格好悪い劉邦が項羽に勝てたのか。そして、なぜこのような国を作れたのか。そのからくりはまた別のお話です。