第七章  中国通史7 前漢[西漢]

 

 なぜ、前漢(ぜんかん)かというと、この後に後漢(ごかん)があるからです。なぜ、西漢(せいかん)かというと、この後に東漢(とうかん)があるからです。前漢の首都は長安で、後漢の首都は洛陽です。長安の方が西にあった、という単純な理由です。
 どっちも漢王朝なんですが、後世の人が、便宜上、前漢とか後漢とか名づけました。当時の人が、西漢とか東漢とか呼んだわけではありません。

前漢[西漢]  前202ー後8

血なまぐさい風

[高祖(こうそ。劉邦)は秦の群県制をひきつぐとともに、一族・功臣を王・侯として支配地を与える封建制を復活させ、群県制と併用した(群国制)。]
 高祖というのは劉邦の死後に贈られた名前、廟号(びょうごう)なのですが・・・どうやら劉邦の廟号は「太祖(たいそ)」で(おくりな)が「高皇帝」だったようです。それが、いつしか合体して「高祖」になってしまったということです。
[功臣を王・侯とした]とありますが、王になった功臣のほとんどが粛清されました。斉王になった名将韓信(かんしん)は、やがて遠方の土地の王にされ、その後、侯に格下げされ、しまいには殺されてしまいました。彭越(ほうえつ)という功臣は、殺されただけでなく、塩辛にされて宴の席でふるまわれたとか。彼らの代わりに、劉の姓を持つ自分の一族を王にしました。
 高祖は「劉氏でない者を王にしてはならない」と命令したそうで、テメー何様のつもりだ、誰のおかげで皇帝になれたと思ってんだ! と言ってやりたいですね。高祖の恐妻、呂后(りょこう)も粛清に協力しました。彼女の怖さについては、雑文演義第十回でどうぞ。
 高祖の死後、この怖い皇后が権力を握りました。彼女は夫の命令を無視して、自分の一族をつぎつぎに王としました。しかし、呂后が死ぬと、すぐ彼女の一族は皆殺しにされました。

[前154年、漢王朝によってゥ王侯の権力がしだいにせばめられるのに反発して、呉楚七国の乱がおこった]
 功臣を粛清して、わざわざ劉氏一族を王にしたのに、結局こういうことになりました。
 地方を支配する王たちの力が強すぎる、と思った中央の皇帝は、王たちの領土を少しずつ削っていきました。それに王たちが怒って反乱を起こしたのです。この反乱は、景帝(けいてい)によって鎮圧されました。当然、反乱を起こしたをはじめ七国の王の力は弱まりました。戦争によって、地方の王たちの力が強すぎる、という問題が解決したわけです。
 ただ、この反乱の中心人物となった呉王は、個人的に景帝を恨んでました。呉王は、皇帝になる前の若かりし時の景帝に、息子を殺されていたのです。景帝と呉王の息子がゲームをしていたときエキサイティングしすぎて、景帝が呉王の息子を殴りつけ、当たり所が悪かったらしく死んでしまったのです。息子さんを亡くした呉王には同情しますが、私情が反乱に発展したようなものです。なんともくだらない原因の反乱です。

[武帝(ぶてい)のとき、その中央集権体制は確立した。武帝は、領土の拡大をめざし、北方では匈奴を攻め、西域地方を服従させ、さらに朝鮮北部を支配して朝鮮4群をおいた。南方では南越国を滅ぼして9群をおき、いまの中部ベトナムまでを領土とした。]
 武帝の前の2代、文帝(ぶんてい)と景帝は名君でした。財政は豊かで、蔵は食物であふれ腐ってしまうくらいでした。呉楚七国の乱を鎮圧することにも成功し、地方の王の権力を削りました。前漢の最盛期と言っていいと思います。武帝は今日、太陽王と呼ばれたりましますが、私としては、本当の太陽王は文帝と景帝ではないか、と思います。武帝は、二人の太陽王が放った光を何百倍にもした皇帝だったのではないでしょうか。
 この時代には、私と同じ名を持つ衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)といった名将が出て、一気に領土を広げました。
 霍去病は、若いときに高い地位に昇ったので、世間知らずなところがあり、部下をいたわることを知りませんでした。それなのに、部下から人気があったという不思議な人です。「病が去る」の名もむなしく、20代前半で病死しました。
 あの『史記』を書いた司馬遷(しばせん)は、この武帝のときの人です。

[武帝の死後、その政策の継続をめぐって官僚間に議論がおこり、やがて外戚や宦官が権力争いに加わり、また豪族も広大な土地を私有しはじめるなど、皇帝の権力は衰えて、1世紀はじめ、外戚の王莽(おうもう)が皇位をうばって新(しん)をたてるにいたった。]
 外戚というのは、皇帝の奥様、即ち皇后の一族です。皇帝が無能だと、こいつらが幅をきかせることになります。宦官は、女性ばかりの後宮で、過ちを起こさず働けるように去勢した男性です。常に皇帝の傍らにいられますから、やはり皇帝がバカだと、こいつらにいいように操られます。
 武帝の数代後に、宣帝(せんてい)という名君が出ました。この人は、若い時は民間で暮らしていましたから、庶民の気持ちがよくわかる皇帝でした。なぜ、民間で暮らしていたような人が皇帝になれたかというと、宮廷にお決まりの血なまぐさい出来事があったんですね。
 宣帝の後約40年で、前漢は外戚の王莽に乗っ取られる形で滅亡しました。
 まさしく、国家は内から滅びるものです。

 孝文帝、孝恵帝という皇帝の名をよく見ますが、これは、文帝、恵帝のことです。前漢の皇帝のおくりなには、皆「孝」の字が頭につくのです。
 前漢というと、高祖劉邦と武帝が有名ですが、私は恵帝(けいてい。雑文演義第十回)や景帝、文帝、宣帝といった人たちの方が好きです。宮城谷昌光さんの小説『花の歳月』(講談社。文庫も出てます)を読めば、文帝のファンになっていただけるかな、と思います。