第九章  中国通史9 後漢[東漢]

 

 後漢(ごかん)は、どうも影が薄いような気がします。
『戦略戦術兵器事典』という本があるのですが、これの「中国古代編」に後漢のことがほとんど書かれてません。前漢があり、三国時代があるのに、その間の後漢がない! 中国古代の主要武将・名参謀を紹介するページに、後漢の人物が一人もいない!
 後漢のことを東漢(とうかん)とも言います。理由は、第七章の冒頭をご覧ください。ただ、私は後漢という言い方のほうが好きです。ゴカンという響きが好きなんです。

後漢[東漢]  25−220

光とともに復活し、混沌の中に消ゆ

[漢王朝の一族の劉秀(りゅうしゅう光武帝、こうぶてい)は、農民反乱を鎮圧し、25年洛陽を都に漢を復活させた。]
 劉秀という人は「中国史人物好感度ランキング」なんてものを行ったら、まずベスト5には入るだろう、と私は勝手に思っています。
 いい意味の軽さがあって、現代の匂いがする人なんです。「役職に就くなら執金吾(しつきんご。今でいえば警視総監くらい)、妻をめとらば陰麗華(いんれいか。美人だったのでしょう)」というのが人生の目標でした。何、贅沢なこと言ってんの! と言いたくなりますが、この人は前漢の一族なんです。場合によっては皇帝になってもおかしくない人ですから、控えめな性格だったと言っていいと思います。
 皇帝になった後、昔住んでいた近所のおばさま方に「あんたみたいなフツーの子が皇帝になるなんてねえ」と言われて「やめてくださいよ」と、はにかんで笑っていたそうです。
 ちょっととぼけたところがあるけど、芯は一本通っている。かっこいいですね。

 劉秀は、中国統一まで大変苦労しました。前章出てきた赤眉の乱を鎮圧したり、蜀の地に勢力のあった公孫述(こうそんじゅつ)ら各地の群雄と戦い、仕えていた劉玄(りゅうげん)という人に兄を殺され、自身も命からがら逃げのびたり・・・。
 ちなみにこの劉玄、一時期皇帝になっており、更始帝(こうしてい)といいます。日本語で解釈すると「あらたに始める皇帝」となります。始皇帝(しこうてい)を意識したんでしょうか。
 劉秀は、25年に即位して36年に中国統一を遂げます。即位するまでに3年、即位してから11年戦っていたのです。また、彼には「光武二十八将」と呼ばれる名将たちが仕えていました。武田信玄や徳川家康に、二十四将図や二十八将図なんていうのがあったと思いますが、それは、この「光武二十八将」からきているんですね。

[光武帝は、前漢の諸制度をおおむねうけつぐとともに、各地の豪族に依拠していちおう安定した政権をたてた。]
 光武帝、劉秀は名君でした。その彼をしても[豪族に依拠]せねばなりませんでした。ですから[いちおう安定した政権]だったのです。どうも後漢は、4代目の和帝(わてい)のときからダメになっていたようです。後漢は最後の献帝(けんてい)まで14代です。半分もいかないうちに崩壊の兆しが現れていたのです。
 積もりに積もっていた混乱の因子が一気に噴出して、あの混沌とした『三国志』の時代になったのかな、なんて思ってしまいます。

[匈奴攻撃をすすめた班超(はんちょう)が、西域都護となって西域支配につとめた。]
 引っかかる記述です。なんか班超がワルモノみたい──と感じるのは私が班超を好きだからでしょうか。
 西域は、前漢時代には中国の領土でした。後漢からしたら、いわば国土奪回なんです。この行為を「侵略」とする本を見たことがあります。侵略という概念を2000年近く前の時代に持ち込むのはどうでしょうか?

 光武帝の治世時には、西域という外の地へ討って出る力はありませんでした。ですが、光武帝が力を蓄えたために、その後西域への遠征が可能となりました。班超は、文人の家に生まれたのですが、42歳の時に軍人となって西域へ行きました。当時の42歳といったら、今の感覚でいえば60歳近い年齢です。年をとっても、班超のような気概をもって生きたいものです。
 学科の世界史から見れば、班超よりも大秦国(ローマ帝国)への使者となった甘英(かんえい)の方が有名ですね。彼は、残念ながらローマまでは行けませんでした。その理由がなかなかおもしろい。いつかお話しできたらいいのですが。

[2世紀なかばになると、豪族勢力は外戚となったり党派をつくったりして中央政界で実権をにぎり、宦官勢力がこれに対抗し、しばしば争って政治は乱れた。]
 光武帝がもっとも恐れていたこと、それは外戚と宦官が跋扈することでした。前漢の滅びた経緯を見れば、当然のことです。それなのに・・・。
 宦官には、あまりいい印象がありません。紙を発明した蔡倫(さいりん)をはじめ、素晴らしい人もいるのですが。
 皇帝が無能だと、国家が弱体化する。一人の人間の双肩に国家の命運がのしかかる。専制国家のネックがここにあります。

[このころ農村では、太平道(たいへいどう)・五斗米道(ごとべいどう)などの民間宗教がひろまっていたが、太平道の教祖張角(ちょうかく)は、184年に農民を組織して黄巾(こうきん)の乱をおこした。乱はたちまちのうちに全国にひろがり、これによって統治能力を失った後漢は、220年に滅んだ。]
 黄巾の乱は[農民を組織し]たとありますが、農民反乱ではありません。内乱と言った方が正しいでしょう。
 張角らが企図していたクーデター計画が、実行前に漏れてしまいました。そこで、一斉に蜂起して、内乱となったのです。それにしても、電話や無線機などない時代です。[たちまちのうちに全国にひろが]ったというのはすごいことです。張角の情報伝達ルートはかなり整備されていたと思われます。戦争に不可欠な情報力はあったんですが、いかんせん戦争に関しては素人の集まりです。1年もしないうちに、乱は鎮圧されてしまいました。
 後漢が滅びて、魏(ぎ)呉(ご)蜀(しょく)という三つの国と三人の皇帝が鼎立する三国時代になります。

 亭遠亭という名の由来になっている班超に関しては、『虎穴に入らずんば』(陳舜臣著。文春文庫『続・中国任侠伝』収録)と『異域の人』(井上靖著。新潮文庫『楼蘭』収録)がおもしろいです。これしか知らないんですけど。

 『天公将軍張角』という小説があります(海音寺潮五郎著。文春文庫『中国妖艶伝』収録)。この小説では、クーデターを立案したのは張角の二人の弟で、張角はむりやり首謀者にされてしまった、という書き方がされています。『三国志』を知っている人にとっては、張角というとインチキくさい「妖人」というイメージが強いかもしれません。ですが、それとは違った張角像がこの小説にはあります。
「教祖もつらいよ・・・」
 そんな張角のため息が、聞こえてくるようです。