日本語で「シン」と発音する国が、中国には複数あります。
主なものを挙げれば、始皇帝(しこうてい)の秦と、最後の王朝で、映画『ラストエンペラー』でも有名な清でしょうか。他にも、周(しゅう)の時代の晋や、三国時代の司馬懿(しばい)の孫が起こした晋、いわゆる五胡十六国時代の秦・・・そして、今回取り上げる新。
とても覚えていられません。
[外戚の王莽(おうもう)が皇位をうばって新(しん)をたてるにいたった。王莽は、儒教の古典に描かれた周代を理想として、土地国有化政策や商業抑制策などをすすめた。また官職名や地名を周代と同じに改めたり、貨幣の改鋳をすすめたりしたが、時代錯誤の非現実的な政策であった]
王莽は、作家の陳舜臣さんをして「改名マニア」「聖人きちがい」と言わしめる人です。
周の時代を理想としていたことでは、孔子(こうし)も同じですが、孔子は現実を見る目を持った理想家でした。しかし、王莽は非現実的な理想家でした。それは夢想家と呼んだ方が正しく、迷惑をのんのんのんのんと吐き出す機械人間のようなものです。
その迷惑が、後の時代にまで及ぶのですからたまったものではありません。いい例が匈奴(きょうど)です。匈奴というのは、簡単に言えば北方の異民族です。
儒教には、華夷思想(ようするに中華思想)というのがあります。儒教の神様、孔子も「中国に君主がいなくて、夷狄(中国周辺の未開民族の蔑称)に君主がいたとする。それでも中国の方がいいなぁ」という、人間味あふれる? 発言をしたと『論語』にあります。聖人(孔子ももちろん含みます)大好きの王莽は、匈奴をバカにした態度をとり、見下しました。当然のごとく匈奴は怒りました。中国と匈奴、両者の仲が悪くなったのは言うまでもありません。
職名はともかく、地名をいきなり変えられた当時の人々は困惑したことでしょう。王莽からすれば「自分が皇帝になったんだぞ」ということを宣伝したかったのかもしれません。皇帝の権力は何でもできる、ということを見せつけたかったのかもしれません。
ただし、皇帝ひいては国家とは、人民の利益のためにあるべきもので、それが存在価値でもあるのです。人民を、たいした意味もなく混乱に陥れた王莽に、皇帝として及第点をあげることはできません。
貨幣は、秦や漢時代の円形から、わけのわからない形に変えました。いくら周の時代の貨幣がそんな形だったからって、わざわざ不便にすることはないでしょうに
[混乱をもたらし、赤眉(せきび)の乱など各地の農民反乱によって、新は23年に滅んだ。]
新は、15年続いた王朝ということになります。「よく15年も続いたな」という感じがします。王莽という人が、決して無能ではなかったという証拠でしょう。
彼は、過去や形式という外面を気にしすぎて、内面のことをおろそかにしました。また、この人は外戚ですから皇帝の親戚なんですね。今で言えばエリートのようなものです。聖人好きのエリートさんですから、下々のことを考えることができない、という統治者として決定的な欠点が王莽にはあったのです。
赤眉の乱は、味方と敵を識別するために眉に紅い塗料を塗った集団が起こした反乱だったため、こう呼ばれました。「なぜ、そんなめんどくさいことをやるの? もっと簡単な方法があるじゃない」と思われる人もいるでしょう。三国志で有名な黄巾(こうきん)の乱のように、頭に黄色い布をつけるとか。
理由はというと、赤い塗料がいっぱいあったからです。なぜ、いっぱいあったかというと、聖人大好き王莽が孔子廟の修復のために赤い塗料をいっぱい用意していたからです。食糧や武器を強奪したときの積み荷に、塗料もあったんです。「いっぱいあって、使い道もないから」赤眉になった、というわけです。孔子廟は赤かったんですね。仮に、孔子廟が青かったら「青眉の乱」になっていたのかもしれません。
この赤眉軍の土台となった集団は、一人の女性が作り上げたということです。彼女は、息子を役人に殺されました。その復讐のために人を集めたのです。
母の愛は、国よりも強し、ということです。
反乱を起こした人たちの中には、後の後漢(ごかん)王朝の創始者、劉秀(りゅうしゅう)もいました。
私は、王莽という人に、新しいもの好きというイメージを抱いていました。だから、国号が「新」しい、なのかな、と短絡的に考えてました。ものの見事に違いました。彼が前漢から始めに「新野侯」に封じられたことから「新」の字をとったということです。新野、と聞くと、赤くはない眉をピクッと動かす三国志ファンがいたるところにいそうな気が・・・。
王莽という人は、独占欲が強かったのでは、と私は思うのです。土地も人民も自分のものと考えていたのではないか、と。自分の所有物の名前を変えてどこが悪い? なんて思っていたのではないでしょうか。人間、だれしも独占欲を有していますが、それもほどほどにしないといけません。こんな王莽さん(私の勝手な王莽像にすぎませんが)には、『論語』より子路(しろ)のこの言葉を贈ります。
「わたくしは、自分の車や馬や着物や外套を友だちと一緒に使って、これらのものがいたんでしまっても気になどしない、そんな人間になりたいと思います」