アンニョン,アンニョン
1.日本語が話せない子を迎える〜韓国語SOS!
1年生3学期の教室に,一人の転入生を迎えることになった。韓国の子だ。名前はファンファン(仮名)。日本語がまったく話せないという。5年生の兄も転入するという。転入の話を聞いて,私はすぐに本屋へ走った。韓国語の入門書を2冊買った。そして,日常会話,中でも学校で使いそうな会話を調べ始めた。
例えば「みんなで遊ぼう!」は?「トイレに行きたくありませんか?」は?
しかし,購入した本には,こうした会話例は載っていなかった。
途方に暮れた。そして,村井さん(仮名)のことを思い出した。村井さんは,担任していた学級の保護者だった。確かお母さんのお父さん(受け持っていた子のおじいちゃん)が韓国籍だと家庭訪問で聞いていたのだ。
すぐに,村井さんに手紙を書いた。
「韓国から転入生が入ることになりました。日本語は,まったく話せないとのことです。つきましては,SOSです。次のことを韓国語でどのように言えばよいか教えてください。カードにハングルを書いていただいて,それを見せるような形でもよいかと思っております。よろしくお願いします。」
次の日,すぐに村井さんからお助けの手紙が来た。
「韓国からの子が,横藤学級に転入するとのこと。その子にとって,何てラッキーなことでしょう。きっと,すぐに先生が,学級の仲間が,二条小学校が,そして日本が大好きになってくれることと思います。では,ご要望のあった会話と,あととりあえずいくつか私が選んだものをお知らせします。敬語ですと,ますますむずかしくなりますので,子供の使う簡単な会話にしました。子どもは3ヶ月もするとすぐ日本語をしゃべり出すそうですから心配はいらないと思います。なさけないことに私自身ほとんどしゃべれないので,あまりお役にたてなくて本当に申し訳ないのですが,父に聞けばすぐ分かりますので何かありましたらいつでもご連絡ください。父も,ファンファン君のようなお友達が入ってきたことを大変喜んでおりました。大変なことと思いますが,どうか頑張ってください。」
そして,便せん3枚に韓国語のアンチョコが書いてあった。助かった!同時にファンファンもやって来た。私は,アンチョコを見ながら,語りかけた。しかし,ファンファンは無表情だった。発音が悪くて通じていないのだろうか?
(以下は,アンチョコの内容。見やすく表にまとめた。)
日本語 | 韓国語 | 備考 |
おはようございます | アンニョン ヒ チュム ショッスン ニカ | 語尾を上げる。子供同士の場合は,すべて「アンニョン」でいいと思います。 |
こんにちは・こんばんは | アンニョン ハーシムニカ | |
さようなら | アンニョンヒ カーシプシヨ | |
みんなと一緒に遊びましょう | チングドゥル グァ カッチ ノラ ラー | |
体育館で | チュ ユク クァン エソ | 体(チュ)育(ユク)館(クァン)で(エソ) |
トイレ(化粧室)へ行きましょう | ファ ジャン シ レ カジャー | 化(ファ)粧(ジャン)室(シ)へ(レ) |
好きな絵をかいてみなさい | チョワハヌン クリムル クリオポワラー | |
みんなで食事にしましょう | ターガッチ シクサ ハプシダー | |
きらいなものはのこしていいですよ | シルンゴスン ナム ギョド チョワー | |
家に帰っていいですよ | チベ カド チョッター | |
明日も学校に来てね | ネイルド ハッキョエ オヌラー | 学校(ハッキョ) |
私の名前は○○です | ネェー イルムル ○○ イムニダー | 名前(イルムル)です(イムニダー) |
勉強しましょう | コンブ ハジャー | 勉強(コンブ) |
これ できますか? | イゴスル ハルスインナン? | 語尾を上げる |
これ 分かりますか? | イゴスル アルゲッソ? | 語尾を上げる |
外に出て雪遊びしよう! | パッケナガ ヌン ノリ ハジャー! | 雪(ヌン)遊び(ノリ) |
スキーをやってみよう! | スキー ルル へ ボジャー! | |
一緒に遊ぼうよ | カッチ ノリジャー | |
どこか具合が悪いの? | オディガ アップ ニャー | 語尾を上げる |
どうしたの? | ウェー? | 語尾を上げる |
危ないですよ | ウィッテ ハダー | |
一緒に歌を歌いましょう | カッチ ノレ ハジャー | 歌(ノレ) |
どうもありがとう | カムサ ハム ニダー | 感謝(カムサ) |
ごめんなさい | ミヤ ナンミダー | |
先生 | ソンセニム | |
これは面白い! | イゴ チャム チェーミイッタ! | |
お父さん | アボジ | |
お母さん | オモニ | |
お兄さん | ヒョンヒム |
2.日本での学校生活が始まる
ファンファンは,転入してきたその日,学級のみんなに堂々と日本語で挨拶をした。それは,誰かに原稿を書いてもらって暗記してきたものらしかったが,流ちょうで立派な内容・分量のものだった。
「よろしくお願いします。」と締めくくったファンファンにみんなで拍手した。
さっそく席に着かせようとして困った。「あなたの席はここですよ。」はアンチョコにはない。幸い,この日は通訳の方が同行していたので,その方に伝えてもらった。
アンチョコを数部コピーして,教卓・ポケットの中・通勤の車の中・我が家のトイレの壁など,そこでも目に付くところに置いた。そして,受験勉強よろしく覚えまくった。また,よく意味は分からなくても,韓国語のリズムやイントネーションを学ぶため,カセットテープを購入してそれを食事の時なども流しておいた。
次の日は,スキー学習の日だった。グラウンドのスキー山で学習するのだが,ファンファンはスキーをしたことがない。高学年はバスでスキー場に行くが,ファンファンの兄もスキーをしたことがないので,ファンファンと一緒に1年生のスキー学習に参加することになった。
他の子は,4回目のスキー学習だったが,まだうまく一人でスキー靴が履けない子や,スキーをつけてはにっちもさっちもいかない子もたくさんいる。また,ファンファンより1週間ほど前に転入してきた子は,それまでずっと不登校だった子(悠介)であり,スキーも始めて,特別な配慮を必要とした。(「たった一人の入学式」をご覧ください。)幸い,学年TTプラス総務の先生の3人体制で指導に当たってくれたので,私はファンファン達と悠介にかかわる時間を結構持つことができた。(とは言え,私はシャツまで汗びっしょりで駆け回っていたが。)
ファンファンや兄を,何度か私のスキーの前に乗せて滑り降りてやった。はじめのうちは頬に当たる風に腰が引け気味だったが,すぐに慣れて喜んでいた。その日から,ある子のアイディアで,下校の時にみんなで声をそろえて「アンニョン!」で解散するようになった。ファンファンと兄の目が丸くなって,そして笑って彼らは帰っていった。
その次の日から,アンチョコ片手の授業が始まった。一番楽だったのが算数だった。数字は日韓共通だし,ファンファンは計算が得意だった。国語は,まず平仮名をハングルに対応させ,ローマ字表記した50音表を渡し,覚えてもらった。ハングルが,ローマ字と同じように「母音+子音」で構成されていることは,このときはじめて知った。彼は,すぐに平仮名を覚えた。すごい吸収力である。
ちなみに,この対応表をプリントして他の子にも渡し,自分の名前などをハングルで書いてみるという学習も入れてみた。子供たちはとても喜んだ。また,「大きなくりの木の下で」などを韓国語で歌ってみるなどもした。「パム ナム ミッテ トゥリ アンジャ ソー」と元気に歌う仲間を見て,ファンファンはうれしそうだった。
3日もたつと,ファンファンは友達と元気に外で遊ぶようになった。
3.日本語をしゃべり出す
10日も過ぎる頃,ファンファンは日本語をしゃべり出すようになった。初めてしゃべったのは「バカ」だった。次は「オマエ」だった。何かの本で,子供は悪口から覚えると読んだ記憶があるが,その通りだった。
下校の際,みんなで「アンニョン!」と声をそろえると,ファンファンが「サヨナラ!」と返したので,爆笑になったこともあった。
2週間を過ぎる頃には,教科書の音読がすらすらとできるようになった。まだ,うまくできない子も何人かいたが,追い越してしまったのだ。算数は,文章題も解けるようになり,学級でも上位の取り組みを見せるようになった。
ファンファンは,どちらかというと引っ込み思案な方で,授業中に指名すると「答え」は言うけれど,「考え」はなかなか言えなかった。あるとき,「韓国の学校では,どんなことをして遊んでいるの?」と聞くと,それだけで目に一杯涙をためてしまったこともあった。「きっと,うまく日本語で表現できないんだね。」とフォローしておいたが,その後お母さんに聞くと「ファンファンは,韓国でも話すの苦手でした。」とのことだった。
このお母さんも,2月の懇談では立派な日本語のスピーチをされた。ファンファンを受け入れてくれた学級の子供たちの優しさに感謝する内容で,他のお母さん方から拍手が湧いた。
ファンファンに私が韓国語で話しかけると発音を訂正することもあった。
4.進級2,3年生へ,そして別れ
こうして,ファンファンは日本の学校になじんでいった。
日が経つに連れて,日本語はどんどん上手になっていった。表情も明るくなっていった。この学級を2年生も持ち上がったが,その頃にはまったく韓国の子だということを意識させないほどだった。ただ,反対にお母さんから「この頃韓国語を忘れることがある」とも聞いた。
ファンファンは,運動能力にも長けていた。ドッジボールなどは,前面でボールを受け止めて,力強く投げ返していた。
学習中に独り言で「ソリャ,ナイデショウ…」などとつぶやき,他の子たちが思わず爆笑。ファンファンは,真っ赤になりながらもうれしそうだった。放課後の遊びも,活発になって,順調であった。
3年生に上がるとき,私はこの学級と泣いて別れた。ファンファンも泣いていた。
「韓国語SOS」を寄せてくださった村井さんから手紙が来た。ご自分のお子さんのことなどが書いてあったあとに,
「実は,私に韓国の血が入っていることを子供たちにははっきりとした形では言っていなかったのですが,ファンファン君を迎え入れることをきっかけに,とても自然な形で子どもたちに伝えることができました。本当に感謝しております。先生が,さまざまな境遇のお子さんを次々に受け入れ,優しくそして明るく導いていく姿に,私たち親たちもいつも感動させられました。」とあった。
3年生の途中,お父さんの仕事の都合でファンファンは韓国に帰ることになった。目に一杯涙を浮かべて,ファンファンとお母さんが挨拶に見えた。
お母さんが「先生のおかげで,…。ファンファン,先生一番好きの先生です。」と言葉少なに言ってくださった。ファンファンは,涙を浮かべて「先生,ありがとう」と言うのがやっとだった。
玄関まで見送った。帰っていく親子の後ろ姿に「アンニョン,アンニョン」と何度もつぶやいた。
その後,ファンファンからは手紙が数度来た。99年秋,日本に5年ぶりに来られたお母さんから電話があった。「もうすっかりファンファンは日本語を忘れてしまいました。でも,週に1度は文集や写真を見て,先生やみなさんのことを思い出しています。」と言っていた。