生活科の方法論   フレームワークと3段階の見取り


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  はじめに
  (1)活動をより豊かにするための枠づくり(フレームワーク)
     フレームとは何か
     より自由になるために
     フレームワークの原則
     フレームワークの効果
     フレームワークと支援
  (2)3段階の見取り
     子供を見る目
     子供の内面を深く見取る
     深く見取るための仮説「視→観→察」
  おわりに


 はじめに

 子供たちは生活科が大好きである。
 そして,生活科の活動に夢中になっているときの子供は,とてもきれいに見える。
 それは,子供たちが3つの力を存分に発揮しているからだ。

 3つの力とは,「やりたがりの力」(行動),「知りたがりの力」(認知),「感じたがり,話したがりの力」(情意)である。(合い言葉として「3つのH」とも呼んでいる。Hand,Head,Heartである。)
 
 入学直後の1年生の目に,学校は広く,大きく映る。不安と好奇心が入り交じった目で教室や体育館を見つめているとき,
「学校の中を散歩してみようか?」
と投げかけると,一も二もなく「うん,行く!」と答える。
 音楽室に入る。
「あっ,カーペットだ!」
と言う声より早く,もう寝っころがっている子がいる。カーペットの柔らかさを体全体で受け止めている。楽器にそっと触れる子がいる。
「どんな音がするかな?試してもいいんだよ。」
と言うと,初めは遠慮がちに,やがて元気よく音を出し始める。あちこちで演奏が始まりだんだん雑然としてくる。しかし,子供たちの表情は輝いている。
「先生,カーペットは音がきれいに聞こえるように敷いてあるんでしょ?」
と話しかけてくる子がいる。
「なあるほど。」
と,大人のように応える子がいて,子供たちも教師も爆笑する。
 このように,毎日ちょっとずつ繰り返される「散歩」の中で,子供たちの3つの力は,存分に発揮される。「あそこで」「ぼくが」「〜をしたんだ」そして「〜を見付けたんだ」「〜ちゃんと一緒に」「楽しく」「だんだん〜ができるようになったんだ」というように。
 
 しかし,こうした「子供がきれいに見える時間」「自然なで伸びやかな姿」は,そう簡単には目にできない。
 子供本来の「やりたがり」「知りたがり」「感じたがり,話したがり」の力を存分に発揮させる生活科授業をつくるには,さまざまな要素が必要なのである。
 
 今回は,その中から次の2点を取り上げ,提言する。

(1)活動をより豊かにするための枠づくり(フレームワーク)について。
(2)子供の内面を深く見取るための仮説について。
である。      


(1)活動をより豊かにするための枠づくり(フレームワーク)

フレームとは何か

  生活科は,授業のスタイルを変えたという点でもその功績が大きい。これまでの授業では,ともすれば子供たちに選択・決定のチャ  ンスを与えずに,みんなが同じことを同じ時間や場所で,同じめあてに向かって進ませることが多くなりがちであった。このような学習を「レール型」と呼ぶことにする。
 しかし,生活科は,子供自らが自分の思いや願いをもち ,その実現に向けて自ら活動を連続させていく。
 活動は,自己選択・決定の連続である。自分で自分の活動を選 択・決定できる自由が,生活科の大きな特長の一つなのである。  しかし,自由とはいうものの,その選択や決定には,おのずと さまざまな条件が関係してくる。条件は,子供の外側のものと子供の内面のものとに分けられる。

外側の条件
  ・環境や素材の特徴  ・時間や空間  ・ルールやマナー  ・目的  ・その子を取り巻く人間  ・天候など
内面の条件
  ・好み  ・体力  ・習慣   ・既有経験   ・家族・友達関係   ・タブーなど

 例えば,「町の探検」で,自由にグループを作った。ある子は仲良しの子と一緒のグループを作りたがり,ある子は近所の子と一緒の方がよいと主張する。このように,子供たちの選択や決定にはさまざまな条件からの判断があることが分かる。自由とはいうものの,ある条件内での自由であるわけである。
 この,「子供たちの選択・決定に関わる条件の枠」を,私は 「フレーム」と呼び,授業づくりの中で意図的に子供たちに示すことを「フレームワーク」と呼んでいる。
 生活科は「レール型」ではなく「フレーム型」の学習がふさわしいし,このフレームを意識することで,より豊かな活動を構成できるという仮説を持って取り組んでいる。
 
より自由になるために
 フレームに着目するのは,子供をより自由に活動させたいからである。                          
 そもそもどんな活動にもフレームは存在している。しかし,日常生活のフレームは,あまりにも身近すぎて意識されないだけである。子供の活動に枠づけをするというと,印象として教師の規制が強く感じられるが,子供たちの思いや願いがより自由に引き出され,力が存分に発揮され,実現に向かうために意識すべきだ という主張なのである。
 子供たちの日常生活のフレームは,もちろん,尊重すべきである。しかし,それはときとして子供の活動や見方,感じ方を広げ たり深めたりすることにマイナスに働く場合もある。子供たちの持ち前の情報や経験では,活動が連続・発展していかない場合は よくある。「環境は人を育てる」というが,せっかくのすばらしい環境を目の前にしながら,どのようにその環境にかかわっていけばよいかが分からず,また新たな活動への不安などから,易きについてしまい,自ら経験の機会を失ってしまうことも多いのが現実である。                     
 例えば「毎朝,自分でザリガニのお世話をしよう」というフレームを設けないと,いつまでたってもザリガニにさわることもできないばかりか,死んで異臭を放つザリガニの山が築かれることになることは想像に難くない。子供たちの生活を豊かにするために,それまでの生活のフレーム以外のフレームで活動させ,そのフレームを新たな生活のフレームとして無意識にもたせたいのである。

 また,フレームは柔軟にとらえたい。
 枝豆を収穫した。思ったよりもたくさん採れた。事前の話し合いでは「みんなで枝豆を食べよう」という目的だったが,「いつもお世話になっている6年生の教室に届けたい」という願いをもった子が,学級に呼びかけて,新たなフレームでの活動をつくっていった。このような動きこそ,生活科のめざす活動なのである。子供たちの思いや願い・活動をより豊かにするためのフレームなのであって,子供たちを狭めるフレームであってはならない。


フレームワークの原則
 
 フレームワークは,活動が豊かに連続・発展するためのひとつの方法である。そこからフレームワークを行う際の原則とでもいったものが,いくつか考えられる。

(1)子供の内面の見取りに立ったフレームであること
 教師が示すフレームが,子供にとって豊かなものになるかどうかは,子供の内面の見取りがどれだけフレームワークに生きているかによる。教師側のフレームを提示したとき,子供たちの多くが目の輝きを失うようでは,論外である。「ようし,挑戦するぞ!」という意欲を引き出すフレームでありたい。
 
(2)子供にとって「新鮮さ」が感じられるフレームであること
 子供たちと野原に行く。着くやいなやあちこちに飛んでいく子供たち。この段階では,フレームワークは,必要ない。次々にいろいろなものを見付けては,報告に来る。夢中になって,花を摘んでいる子もいる。この野原は,子供たちにとって十分に新鮮なのである。その魅力が子供たちを引き付けている。しかし,それも2度3度となると,やがて子供たちの動きに勢いがなくなってくる。そこで,ある日の活動はフレームをぐっと狭める。

(3)フレームは,短く明快に示す
 子供は,活動したくてうずうずしているのに,教師の話がだらだらと続く。これは,他教科でももちろんのこと,生活科でも絶対に避けたい。目安は,長くても3分といったところであろう。

(4)質問を受けつける
 フレームワークは,それを聞く子供に,具体的な活動をイメージさせる。活動に入る前に,質問を受けつけることは,そのイメージにそって,子供が自分の思いや願いをよりよいものにする動きを支援することである。

(5)個別にフォローを
 特に,子供が心理的な抵抗感をもつ活動の場合は,フレームワークを行うと,子供たちから「エ〜…。」というためいき混じりの声が聞かれることもある。例えば,砂遊びの活動では,手や体を汚すのをいやがる子供に,「はだしになって砂場に入ろう」というフレームワークを行うと,先に述べたような声が聞かれる。 
 こうした場合,フレームワークをかたくなにとらえるのではなく,「いやかい?」と問い返して話を聞いたり,「先生と同じ場所でやろうよ。先生もはだしになるから。」などと個別にフォローすることが大切である。

(6)フレームの中での選択・決定は尊重する
 子供はそれぞれの思いや願いをもって,活動に入る。内面,そして外側のフレーム,さらに教師のフレームワークの中で,精一杯の選択・決定を繰り返しているのである。それを尊重し,一人一人の違いをどれも大切にしていきたい。示したフレームの中でなら,基本的にはすべての活動を認めていく。

(7)フレームからはみ出た場合は,きちんと対応する
 中にはフレームワークを無視して,自分だけの思いや願いで活動する子もいる。そういう場合は,きちんとした対応が求められる。個別に声をかけ,めあてを再確認したり,ルールやマナーを教えたり,毅然とした態度で叱ることも大切なことである。こうしたことも含めて「自立への基礎」に向かえるのである。
 
(8)活動のめあては子供がつくる
 目的的なフレームを示すことはあるが,具体的にそのとき何をすればよいのかまでを教師が指示するのはできるだけ避けたい。例えば,「お年寄りと仲良くなろう」という目的的なフレームを示し,「あなたはどんなことをするの?」というように,活動を子供に委ねていく。


フレームワークの効果

 フレームワークの効果を要約すると,「思いや願いが明確になり,活動が連続・発展する」ということになるだろう。そのほかにも次のような効果もある。                                     

(1)安全性が確保される
 探検活動では,子供たちだけで近付いてほしくない場所も多い。また,製作活動では刃物を使う場所や方法を明確に示すことで,かなりのけがが防げる。ただし,安全性の確保にばかり気を取られて,子供に冒険の機会を与えないのは論外であるが。
 
(2)新たな人との出会いが図られる
 グルーピングを子供たちにまかせると,おうおうにして同じ仲良しの子供同士がくっつきあって,閉鎖的になることがある。そういう場合は,グルーピングに「男女混合で5人」などとフレームワークを行うことが効果的である。また,探検活動では,「まだ話したことのない人とお話しして,サインをもらっていらっしゃい。」というフレームワークによって,子供の世界が広がる。ただし,これも初めからでなく,子供たちの活動が広がらなくなった様子を見取ってからすることが大切である。
 
(3)集団の学習と個の学習の両立が図られる
 フレームワークは,ときに子供たちの活動を狭める。狭められることで,子供たちには共通の話題ができるというメリットが生じる。すると,自然に交流が始まったりする。
 
(4)見取りが容易になる
 Bと関連するが,フレームの中では子供の選択・決定が見易くなる。それは,同じような場にあって,違う選択・決定をしている背景が見易くなるからである。くわしくは,見取りの項で述べる。
 
(5)新たな気付きが促される
 たとえば,野原で自由に走り回っているときには,気付かなかった足下の生物。かくれんぼをすると,見えてくる。
 「あいうえお50音を全部使ってカルタを作ろう。」というと,思いもよらない名文が飛び出してくる。限定されることで,見えてくることも多いのである。
(6)自己評価の基準となる
 特に目的的,ルールやマナーに関わるフレームワークを行うと子供たちが自らの活動を振り返る際の自己評価の基準ともなる。 「おじいちゃん,おばあちゃんと昔の遊びをして,うんと仲良しになろうね。」というフレームで活動すると,振り返りは自然に 「ぼくね,〜をして〜さんと仲良しになれたよ!」という形になってくる。教師のフレームワークを聞いているとき,子供はその明確な条件の中で自分は何をしたいかイメージしている。それは活動の構想となり,エネルギーとなる。よく振り返りの場面で, 「面白かった」「楽しかった」くらいしか発言しない子がいる。それは,構想が十分でなく,したがって自己評価も振幅の少ないものになっていることが多いのである。

(7)社会的なルールやマナーの獲得を促す
 フレームワークに沿って活動すると,適度にルールやマナーが身に付いてくる。学校探検で,「サインをもらったら,どうしたらいいのかな?」と問いかけ,きちんとお礼をすることの大事さについてふれておくと,内面に心理的なフレームができ,お礼を言う体験が積み重なり,そのときのさわやかさや伝わる温かさが内面化したフレームとなっていく。

(8)恐れや恥ずかしさ,タブーを破る
 子供の選択や決定は,意外と恐れや恥ずかしさ,あるいはタブー視していることによって狭められていることが多い。日常生活のフレームで活動させると,いつまでもその範囲だけで活動してしまい,子供の世界がちっとも広がらないといったこともある。
 一人っ子の男の子が,乳幼児と触れ合う場面があった。0〜4才までの5人の乳幼児を前にして,彼はしばし動けなかった。しかし,「小さな子と遊ぼう」というフレームの中で,彼は恐る恐る4才の子に手を延ばし,やがて0才の子を抱きあげるにいたった。帰宅すると同時に彼は,母親に「赤ちゃんはとてもあったかかった。」とニコニコ顔で報告した。


フレームワークと支援

 心理学では,「支援」の反対語は「支配」である。子供を知識や規律の入れ物と捉え,教師の意のままに動かそうとするのでな く,子供をよりよく生きようとする主体と捉え,自立へ向けていこうとする思想が「支援」という言葉に込められている。

 生活科においては,「レール型」ではなく,「フレーム型」の授業がふさわしいと考えるのも,この思想の表われである。
 そして,フレームの中での子供の選択や決定を尊重し,その思いや願いの実現を何とかかなえさせてやりたいと願う。その心の 働きそのものが支援の第一歩なのである。
 次項では,この支援のための教師の評価について考えてみたい。


(2)3段階の見取り

子供を見る目 

 生活科では,評価と支援の一体化が強調されている。的確な評価は的確な支援と表裏一体である。子供の思いや願いを実現させてやるために,教師は活動に入る前,活動中,活動を終えた段階のそれぞれで子供の内面を見続け,読み取り続けなければならない。
 ところで,子供を見る目にもいろいろな目がある。
 子供の活動を共感的に見守る「温かい目」もあれば,子供の変化を発達段階と結び付けてみる「冷静な目」もある。今はできなくてもよいとするゆとりに満ちた「長い目」もあれば,この1時間でこれを気付かせずにはといった「迫力の目」もある。
 ここで提言するのは,子供の活動を,その背景までをも視野に入れて見ようとする「深い目」に関する仮説である。

子供の内面を深く見取る

 プールで,水に浮く乗り物を作って浮かばせようとする活動があった。その製作時,A男の持ってきたペットボトルをB男が「これちょうだいね。」と言いながら,持っていこうとした。すると,A男が叫ぶように「ダメ!」と大声を出した。静まり返る教室。B男はどうしてよいか分からないで突っ立っている。A男は,B男の手からペットボトルをもぎ取ると,見る見る泣き顔になっていく。
 こうした場合,この「ダメ!」の背景が見えないと,的確な支援はできない。
 幸い,担任はこの「ダメ!」の背景が見えていた。A男の父親は単身赴任をしていたが,たまたまこの日の前日に帰宅していた。A 男は,そのうれしさもあったのだろう,翌日にもっていくペットボ トルの準備を忘れ,朝になってからペットボトルを持っていくと言いだした。母親は,「今頃言っても知りません。」と叱ったが,父親が近くのコンビニエンスストアへ行き,買ってきた。そして朝食の後で「喉が渇いた。」と言って,たくさん飲み,そのペットボトルを持たせたというのである。A男にとって,それはどんなにうれしいことだっただろう。そのペットボトルは,それまでに集めたものと同じではなく,A男にとっては特別なものだったのである。
 担任は,朝うれしそうに「お父さんが今朝買ってくれた。」と話すA男の報告から,大体の事情を推察し,ほかの子にも聞こえるように「これ,お父さんがわざわざ買ってきてくれたんだものね。大事に使おうね。さて,B男君にだれか一つ貸してあげてくれないかな。」と切り替えた。すると,たくさんの子がペットボトルを差し出した。(余談であるが,このことを連絡帳で伝えたところ,母親からは「一人一人の思いを汲んで下さり,配慮して頂いて親としては感謝の思いで,学校の方に向かって手を合わせました」由の返信が,さらに4日ほどたってから,福岡の父親からもお礼の電話をいただいた。)
 「ダメ!」という言葉に,「そんなこと言わないで,みんなで分け合おう。」と言うこともあれば,「B男君,ちゃんと相手が『いいよ』って言ってから持っていかなくちゃ。」と言うこともある。
 肝心なのは,その子の内面が深く見えているかどうかであり,こういう場面ではこういう支援をすればよいという公式的な方法論の決定を急いではならない。


深く見るための仮説〜「視→観→察」

 しかし,深く見るとは言っても,そのままでは単なる心がけ論の域を出ない。
 そこで,子供の内面に3段階で迫ってみようという仮説をもって見ることを試みる。それが,「視→観→察」である。これは,論語の一節にある人間観察の方法論から転用したものである。

其の以す所を視,其の由る所を観,其の安んずる所を察すれば人焉んぞ痩さんや。
(その人がすることを良く見て,その行動の理由を推測し,その人の喜びとするところや誇りとするところを想像するならば,その人のことがあらわにわかるものだ。)   

 これを,生活科の授業に生かすことで,子供の内面世界にいくらかでも迫ることができるのではと考える。 では,実際に「視→観→察」それぞれの段階で,教師は何をどのように見れば良いのだろうか。
          
「視」段階の見取り

 「視」は,まず活動の姿そのものを見るのである。ただし,ポイントを決めて見ないと「あれども見えず」ということになる。
 「視」では,ドキュメントの手法で,ポイントとなるところを切り取ることが大切となる。では,どんなところを切り取れば良いのだろうか。

(1)発言やつぶやき
 生活科の活動中,子供たちは実によくしゃべる。一人でブツブツと何事かをしゃべっているかと思えば,友達や担任はもちろん,参 観者にまで何事かを話しかけてきたりする。低学年の時期は,ヴィゴツキーの言う「外言から内言への移行段階期」にあたるので,子 供たちは話しながら,言語のもつ「印象の意識化・明確化・整理化作用」を行なっていると考えられる。だから,子供たちの内面で動 いている活動の印象をここから見取ることができる。
 
(2)表情
 「目は口ほどにものを言い」という。何かに気付いたとき,子供の視線は1点に集中する。別のアイディアを求めるときは,視線が 移る。弛緩しているときは,視線はさまよう。このように視線からは「集中と緊張」が読み取れる。
 興奮すると,子供の口や鼻の穴はふくらむ。意気消沈しているときはしぼむ。このように口元や鼻からは「興奮」が読み取れる。心 理学では,目,鼻,口の形態で「フェイススケール」という,感情の尺度を提唱しているが,参考になるだろう。
 
(3)動線,スピード
 目的を持っているときの子供の動線は,直線的である。また,その動きには勢いが感じられる。すっくと立ち上がる。小走りで動 く。はたと動きを止める。仁王立ちになる。へなへなと坐り込む。 ぽんと手をたたくなど,そのときそのときの子供の「目的意識」や 「思いや願いの成就感」などが読み取れる。
 
(4)活動の持続時間・変節点
 ひとつの活動が持続するということは,思いや願いが連続・発展していることを意味する。しかし,注意深く見ると,活動は一定の時間で変化し,節を作っていることが多い。
 
(5)誰と一緒だったか
 活動を誰と(あるいは一人で)していたかも,見取りたい。子供 は本来「頼りない存在(helplessness)」であると言われる。だから 子供は活動を共有する人を欲しがる。一緒にそばにいてくれる人から心理的・技術的に援助を受け,子供は主体性を発揮する。一人で 活動することもある。時には一人で孤独にがんばる場面があってもよい。
 しかし,そのグループの中で,その子が主体性を発揮できなかったり,本当はみんなと一緒にやりたいのに,独りぼっちでやらざる をえないこともある。こうしたことを,しっかりと見取っていきたい。
 
(6)かすかな動き
 子供の内面の変化は,指先や口元などのかすかな動きとなって表出することが多い。逡巡から一歩踏み出そうとする動きを見逃さなかったとき,子供は大きく変化する。

 このように,ある切り込み口を設定して,子供の活動をドキュメ ントの手法で切り取っていくのが「視」である。


「視」の記録は事後に形容詞とマップで

 子供が活動しているとき,教師は子供の活動を見守ったり,一緒に活動を楽しむことが多い。子供が活動しているときに,あちこちと「支援」と称して求められもしないサービスをして歩いたり,カードにこまごまと子供の様子を記録して歩く授業を見かけるが,活動中はまずしっかり子供を見ること,記録は事後に行なうことを基本と考えている。ただし,写真などを撮るのは子供たちにも励みを感じさせるし,後で背景を考えるうえにも有効であるので,適度に行なっている。
 子供たちが帰った後で,その日の活動を振り返り,記録する。その際は,形容詞を使い「すごい勢いで飛んできて『〜』と報告」などのように記録するように心がけている。また,子供たちの活動が広がる場合は,マップ形式で記録すると,グルーピングの特徴や興味や関心の対象,活動の傾向などが把握しやすい。


「視」から「観→察」へ
 
 「視」でとらえたことから,子供の内面へ入っていくのが,「観→察」である。その行動の背景をさぐっていくのである。
 ある行動の背景は,その行動とストレートに結び付く場合もあれば,まるで反対の場合もある。
 例えば,ある子がいつも決まって別のある子と一緒に活動していると見えた。その場合,その子は一緒にいる子が好きでそうしている場合もあるが,ときとして「いやなんだけれどなぜか離れられない」という場合もあるのだ。あるいは,ニコニコとしているけれど,一緒にいるのは,心理的な強制が働いているという場合もあるのである。
 こう考えると,背景を捉えるのは大変むずかしいことである。しかし,ここをさぐることなしに,確かな支援は行えない。
 
 この際,「観」は,インタビューの手法をとることが多い。つまり,なぜその子がそういう行動をとっているかを本人や保護者などに聞いてみるのである。
 
 そして,その子の喜びや誇りとするところを,さまざまに推察してみる。ここが「察」である。この際は,カウンセリングの手法でいささか抽象的な表現で恐縮だが,「心と心が響きあっている」感じを得られるようにしていく。
 この「観→察」の段階は,「視」に比べて個別的であり,感覚的であり,さらにはっきりと線を引くのも難しいところであるので,以下,いくつかの事例で考えていきたい。
 
(1)パニックから
 S男は,軽い自閉傾向のある子であった。プールで自分の作った船を浮かべていた彼は,いきなりそばにいたM男になぐりかかっ
た。担任は,それに気付くとそばに行き,訳を聞いた。S男は興奮して「M男がこわした。」と訴える。M男は,「俺はしらねえよ。」と言う。ふだんから,S男のパニックに,子供たちはある程度は慣れているが,さすがにM男の表情もこわばっている。回りの子の言うことを聞いても,どうやらM男は何もしていないらしい。
 担任はS男に,「先生と一緒に直そう。大丈夫。すぐに直るよ。」 と話しかけ,一緒にプールから上がった。その動きは,いつもよりもずっと強く確かな直線的なものであり,担任はS男の動きに強く興味を引かれた。S男は,プールサイドの「修理工場」に行くと,直し始めた。その表情を見ていると,それまでの取り組み方と違って,強い意志と集中力が感じられた。そこで,担任はS男のそばに腰を下ろし,見守ることにした。約5分間,彼は無言で修理し続けた。手先があまり器用ではない彼にとっては,ずいぶんとがんばった活動であった。しかし,「できた。」と言った彼の船は,また水に入れると分解してしまいそうだった。そこで,担任は「ねえ,先生にも1回だけガムテープやらせてくれないか。」と話しかけてみた。そのとき,彼は実に軽く「うん。いいよ。」と答えた。決して外れないように担任がひと巻きした船をもって,彼はプールに戻った。このときを最後に,彼はパニックを起こさなくなった。
 黙々と修理を続ける彼を見ていて,担任は彼の船に対する思いの強さをひしひしと感じていた。だから,船が分解した時にそばにいたM男になぐりかかったのだろうし,彼が「自分で直すんだ」という意志をもち,やりとげた自分に誇らしい気持ちを感じているから,担任の申し出にも素直に応じることができたのだと感じた。
                           
(2)文章から
 文章から,子供の内面が読み取れる。低学年の子供は,心に感じたことをそのまま文字にする。生活科のカードなのだが,読んでいると詩のように感じることも多い。
 「ジャンプしたらかげもジャンプしたよ。
 あしが下についたら、かげももどったよ。
 みんなのかげもうごいていたよ。
 よく見たら,わたしのかげが,みんなのかげになっていたよ。」
 これは,影遊びをしたときのカードに書かれていたものである。影遊びをするこの子の心がはずんでいることがリズミカルな調子の文章から感じられる。また,「みんな」という語が繰り返され,ここから仲間と一緒に活動することの心地よさを感じていることが分かる。
  さらに,表現活動のフレームとして,アクロスティックなどの言葉遊びを取り入れるのも,内面がよく表現され面白い。
 
(3)絵から
 絵も,子供の内面を物語る。心理学では,バウムテストや絵画療法など,絵から内面に迫る方法が一般的なものになっているが,生活科の見取りにも生かしていきたい。


おわりに

 フレームワークや深い見取りについて,それを仮説にして研究の対象にしようという話し合いの際 「フレームワークなんてすると,子供は与えられた枠の中だけでしか動けなくなるのではないか。」 とか「教師が,子供の背景までをも理解しようとするのは,土台無理な話だし,子供にとっても迷惑なんじゃない?」というような危惧の声もあった。 机上で考えると,そういう気もする。しかし,実際に取り組んでいくとそうではなかった。

 ていねいにフレームワークを行うと,子供の活動はどんどん発展し,やがて自分たちでフレームを広げていくようになった。 活動の背景までをも見ようとすると,子供は教師を深く信頼し,新しい顔をどんどん見せてくるようになった。

 子供本来の「やりたがり」「知りたがり」「感じたがり・話したがり」の力を存分に引き出す教科,それが生活科である。そのためのフレームワークであり,見取りである。そして,この「やりたがり」「知りたがり」「感じたがり・話したがり」の力は,実にすばらしい広がりと奥行をもっているのである。
 先に「フレームワークがなくても子供が豊かに活動を連続・発展させていけそれに越したことはない」と書いた。もっと言えば,支援などもなくても子供がどんどん活動を進めていければそれに越したことはないのである。
 しかし,理想と現実は違う。現在のところ,この2つを効果的な指導方法であると考え,実践を積み上げているところである。
 今後も,より子供たちから学びながら,また心理学や教育学に学びながら,子供たちの力が雑草のようにたくましく伸びていく生活科の授業づくりをさぐっていきたい。

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