お兄ちゃんの水風呂

2009年8月19日発行 学校便り「ひつじがおか」巻頭言

 私は銭湯が好きで、週末には自宅近くの銭湯によく行きます。
 先日、のんびりと浴槽につかっていましたら、若いお父さんが二人の小さな兄弟を連れて入ってきました。お兄ちゃんは1年生くらい、弟の方は4歳くらい。なかなか元気で、二人してあちこちでキャッキャと楽しそうにしていましたが、そのうちにサウナの隣にあった水風呂に興味を示したようでした。そこは深さが90cm以上で、小さな子には危険です。
 最初は、手を入れて、水の冷たさにはしゃいでいましたが、やがて片足を入れては「冷た〜い!」とまた大はしゃぎ。すかさずお父さんが「そこ、深いから入ったらダメだよ。」とおっしゃいました。二人は顔を見合わせましたが、お父さんの方をチラチラと見ながら、お兄ちゃんがまた片足だけ入れました。

 私は、「これは、やるぞ。」と思いました。案の定、直後にお兄ちゃんがすっぽりと肩まで入ってしまったのです。そして、得意げな顔で「僕、入れた!」とお父さんに報告しました。お父さんは、「ダメだって言ったでしょ。もうしたらダメ!」と叱りました。

今は成人した我が家の長男も、同じくらいの時、同じ水風呂で同じように私の目を盗んで入り、同じように叱ったことがあったので、私はその一部始終をとても懐かしく、微笑ましく思って見ていました。

子供は、小さな冒険や小さな反抗によって成長を確かめようとすることがよくあります。大人は、普段は子供の成長を少し距離を置いて見守りますが、ときには、このお父さんのように叱ります。子供は、こういう大人の反応によって、自分の世界をつくり上げていくのです。今、子供たちを叱る大人が少なくなっているようですが、それでは子供は豊かに成長していけません。故・河合隼雄は言います。

 子どもは成長してゆくとき、時にその成長のカーブが急上昇するとき、自分でもおさえ切れない不可解な力が湧きあがってくることを感じる。それを何でもいいからぶっつけてみて、ぶつかった衝撃のなかで、自らの存在を確かめてみるようなところがある。そのとき子どもがぶつかってゆく第一の壁として、親というものがある。親の壁にさえぎられ、子どもは自分の力の限界を感じたり、腹を立てたり、くやしい思いをしたりする。しかし、そのような体験を通じてこそ、子どもは自分というものを知り、現実というものを知るのである。いわゆる「理解のある親」というのは、このあたりのことをまったく誤解してしまっているのではなかろうか。(中略)
 厳密に言うなら、理解のある親が悪いのではなく、理解のあるふりをしている親が、子どもにとってはたまらない存在となるのである。理解もしていないのに、どうして理解のあるふりをするのだろう。それは自分の生き方に自信がないことや、自分の道を歩んでゆく孤独に耐えられないことをごまかすために、そのような態度をとるのではなかろうか。
(『こころの処方箋』 河合隼雄著 新潮社 より)


 今日から2学期。学校では、温かく子供たちを見守ることを基本としますが、ときには厳しく叱ることもあります。愛があるからこそ叱るのです。愛があるからこそ手を引かずにかかわるのです。
 2学期も、理解のあるふりをせずに、温かく厳しく指導していきたいと考えています。

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