子供に見られている

2011年5月31日発行 学校便り「ひつじがおか」巻頭言

 担任時代、私はよくその日の子供たちの様子を、座席表に書き込みました。
 この子は今日、どんな表情で国語に取り組んでいただろうか。算数の時間にはどんな発言をしていただろうか。休み時間には、誰と何をしていただろうか…。
 あるとき、それを見ていた先輩教師が声をかけてくれました。「がんばってるね。そうやって、一人一人をしっかりと見ようとしていることは、とてもいい。」ちょっと強面の先輩からほめてもらいホッとしていましたら、先輩は続けました。「でも、今ヨコさんがしているのは、教師から見た子供の記録だ。教師は子供を見ているけれど、同時に子供に見られている。子供はヨコさんをどう見ているか、という目で振り返ってみることも大事だよ。」

 さっそく私は、新しい座席表を取り出して、一人一人がどんなふうに自分のことを見ているのかを書こうとしました。ところが、書けないのです。行動や発言といった外形的なことは見えても、自分の言葉やふるまいは一人一人にどのように映っているのかとなると、いい加減な予測しか書けないことに、とても情けなくなりました。
 数か月たって、ようやく一人一人が自分の言葉やふるまいをどう見ているかを書けるようになったころ、学級にあった小さないくつかの問題は自然に消えていました。一人一人の思いを見ようとしたことが、子供たちを安定させたのだと思います。

 さて、今週末は運動会です。今、子供たちは、たくさんの人に練習の成果を見てもらおうと、練習に汗を流しています。また、保護者や地域の皆様も、そんな子供たちの輝きを見ることを、心待ちにしていることと思います。
 しかし、運動会は、保護者や地域の皆様が子供たちに見られる場でもあります。
 短距離走などで入賞できなかったときにかける言葉や表情、勝ち負けのない表現に送る拍手、立ち見の場所の確保の仕方や譲り合い、トイレや敬老席の使い方、そして後始末…。運動会では、保護者や地域の皆様も、そしてもちろん教職員も子供たちに見られています。
 茨木のり子さんの詩「こどもたち」に、次の一節があります。

青春が嵐のようにどっとおそってくると/こどもたちはなぎたおされながら/ふいにすべての記憶をつむぎはじめる/かれらはかれらのゴブラン織りを織りはじめる/
その時に/父や母 教師や祖国などが/うみへびやどくくさ こわれたかめ/ゆがんだ顔の  イメージで/ちいさくかたどられるとしたら/それは やはり哀しいことではないのか


 子供たちに「ちいさくかたどられ」ないように、私たち教職員もがんばります。子供たちが保護者や地域の皆様をあこがれのまなざしで見ることができるよう、ご協力をよろしくお願いいたします。

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