授業研究から学ぶこと
T先生からの第4信
今、6月の授業研究にむけて校内研究を進めています。
近くの公園を使い、自然に親しむことをねらいに考えています。生き物や土石を使っての活動を想定します。
そこでの気付きを何かしらの方法で表現させたいと考えています。
先生から教えていただいたことを役立たせるように考えています。
今後ともよろしくお願いいたします。
T先生からの第5信
島根のTです。お世話になっております。
先日授業が終わりました。児童の活動中の教師の支援についてを中心に協議しました。一緒に喜ぶ、一緒に活動する、オーバーに反応する、安全面をきちんと指導する、全体が見渡せる場所の位置取り、などについて授業者は学びました。
活動中に気付きを表出しない子もいたので、今後の表現活動の中で表出できるようにしたいと考えています。表現活動で表れる気付きを教師がひろい、価値付けをしたいと考えます。
また、活動が多岐にわたると、ねらいにそわない活動も出てくるので、ねらいは、いくつかのねらいを(内容項目の1から8を)関連させたがいいと思いました。お気づきの点を教えて下さい。
また、環境教育でやっているのに、木を切ったり草をちぎったり虫を捕ったりすることはどうだろうかという新たな疑問も生じました。先生はどのようにお考えでしょうか。
まだ、まだ、程度の低い授業研究です。授業の質を高めていきたいと考えます。
私からの返信
T先生,授業研究,お疲れさまでした。また,様子をお知らせしていただき,ありがとうございました。
早い時期から取り組まれていたので,きっと得るものが多い研究になったことでしょうね。
さて,メールで分かる範囲でいくつか。
> 児童の活動中の教師の支援についてを中心に
> 協議しました。一緒に喜ぶ、一緒に活動する、
> オーバーに反応する、安全面をきちんと指導する、
> 全体が見渡せる場所の位置取り、などについて
> 授業者は学びました。
どれも,大切なポイントだと思います。ただ,「オーバーに反応する」に少し引っかかります。子供の内面に生じているドラマが本当に見えていれば,教師の感動はオーバーに表現しなくても伝わります。「オーバーに」とテクニック化させてしまうことで,子供に違和感を与えたり,教師自身が自分の心を見失ってしまいはしないかと心配になりました。きっと,「感動を素直に表現し,子供に返す」ほどの意味だと思いますが,言葉は一人歩きしますので,今後の発展を考えると再考が必要かと感じました。
「一緒に喜ぶ」という子供と一体化した支援と,「きちんと指導」という間接的な支援を共存させていることは,とてもすばらしい事だと思います。
> 活動中に気付きを表出しない子もいたので、
> 今後の表現活動の中で表出できるように
> したいと考えています。表現活動で表れる
> 気付きを教師がひろい、価値付けをしたいと
> 考えます。
言語等により,自ら積極的に表現しようとしない子はいたかもしれませんが,活動の中では「どの子も気付きを表出させている」と考えるのが前提だと思います。それを,私たち教師がどれだけ見えているか,そここそがポイントです。
これまで,私たち教師は,子供たちの発言を手がかりに授業を分析するという方法を多く採用してきました。T−C型の授業記録はその典型です。そして,その有効性は今も変わるものではありませんが,生活科や総合のように,具体的な活動が主体の場合は,その方法では子供の内面を見ることはできません。代わりに,「表情や身体のふるまいを見る」「参観者の感じ方を羅生門的に交流させる」などが有効です。(「ふるまい」は,文部省の嶋野先生の著作に詳しいです。「羅生門的アプローチは,アトキン氏の提唱です。用語辞典などを見ると載っています。今,Yahoo!で検索しましたらhttp://www.educa.nagoya-u.ac.jp/curr/rin/master/022.htmlに論文を見つけました。)
> また、活動が多岐にわたると、ねらいにそわない
> 活動も出てくるので、ねらいは、いくつかのねらいを
> (内容項目の1から8を)関連させたがいいと思いました。
> お気づきの点を教えて下さい。
ここ,「ねらいにそわない活動」が気にかかります。生活科では,教師がねらいをもつことは必要ですが,評価はそのねらいにしばられないことが大切です。
「ねらいにそわない活動」が具体的にどのようなことを指しているのかが分からないので,的はずれになるかもしれませんが,先の「安全面」,あるいは「集団としての学習の枠から外れた行為」でなければ,基本的に認めていくことだと考えています。生活科の評価は「ゴール・フリー」だと言われる所以です。
> また、環境教育でやっているのに、木を切ったり
> 草をちぎったり虫を捕ったりすることはどうだろうかという
> 新たな疑問も生じました。先生はどのようにお考えでしょうか。
これも実際を見ていないので,子供たちがどんな様子で「木を切ったり草をちぎったり虫を捕ったり」したのか分かりませんが,
基本的には,そのような行為をうんとさせたいと私は考えます。公園など,管理されている場所ならばもちろん許されないでしょうが,体験として採取は数多く体験させたいものです。
命の尊さに気付くためには,たくさんの命に触れなくてはいけません。自分の手の中で,小さな虫の命が消えていく体験を,何回も,何十回,何百回もして,子供たちは命のはかなさを感じるのです。簡単に手折れると思った細い木の枝のしなやかな強さに,生きているものの強さ,必死さを学ぶのです。体験は蓄積されて,ある日ふいにそれらがひとつのまとまりをもって,子供に「気付き」となって迫ってきます。「もう,虫を殺すのやめよう」という日がやって来ます。それまで,無頓着に草花を手折っていた子が,じょうろを手にします。それが,本物です。
基本的には,私はこのように考えています。
ただし,「木を切ったり草をちぎったり虫を捕ったり」の目的が別のところにあるのなら,話は変わってきます。つまり,何かその活動や教師,友達への欲求不満のはけ口として,そういう自然への八つ当たりがあるのだとしたら,そこには命への気付きが生まれることはあまり期待できないでしょう。
私自身,小学校1年生の時に母の気を引くために,花瓶の花をちぎってしまったことがあります。母がやってきて,叱られると身を固くしていましたら,母は花を拾いながら「痛かったでしょう。」とつぶやきました。小さかった私は,一気に突き放されたような気持ちになり,心から「しまった!」と思い,またどうして良いか分からずにただワーワーと泣くしかありませんでした。この瞬間から,私は命というものに気付いたと自覚しています。
しかし,それはこの時1回の体験で気付いたことではなく,体験の蓄積がある程度臨界点に達しており,そこに母の支援(突き放し)があって,自分の行為が見えたという構造だったと思うのです。
個人的な例を挙げて失礼いたしました。意をお汲み取りいただければ幸いです。
雑ぱくですが,いただいたメールへの感想まで。長文失礼いたしました。
T先生からの第6信
横藤先生
授業について教えていただきましてありがとうございます。
「感動を素直に表現し、子供に返す」その通りです。
活動中には気付きがあるという指摘も、今後の指導に役立ちます。教師の力量を高め、児童を見取る技量を高めたいです。
草木をちぎることも具体的な事例でお話しいただきよくわかりました。心のもやもやが消えたような気がします。
さて、そこで1点だけ教えて下さい。「ねらいに沿わない活動」のことです。
具体的に書きませんでしたので意図が伝わらなかったことをお詫びします。そこでもう少し具体的に書きます。
「学校の近くの公園とその周辺の山を使って学習をします。教師は季節の変化を感じ取ることをねらいたいのですが、児童は自然物を使い遊び、遊びを楽しみ、遊びを工夫するような活動をするかもしれません。そこで、ねらいを季節を感じ取ることに付け加え、遊びを工夫する、ということもあわせます。つまり指導書のねらいのDとEを一緒にすることです。」
具体的にわかりやすく教えていただき本校の研究が深まります。先日の授業は、クイズなどでの表現活動にします。
そこでも、気付きが表出するでしょうから、児童の表情やふるまいを見取り、児童に返してやりたいと思います。
今後ともご指導をお願いいたします。
私からの返信
T先生,こうしてメールをやりとりできますことを,うれしく思います。
まず,以下の点についてお話しします。
> さて、そこで1点だけ教えて下さい。
> 「ねらいに沿わない活動」のことです。
> 具体的に書きませんでしたので意図が伝わらなかった
> ことをお詫びします。そこでもう少し具体的に書きます。
> 「学校の近くの公園とその周辺の山を使って学習をします。
> 教師は季節の変化を感じ取ることをねらいたいのですが、
> 児童は自然物を使い遊び、遊びを楽しみ、遊びを工夫する
> ような活動をするかもしれません。そこで、ねらいを季節を
> 感じ取ることに付け加え、遊びを工夫する、ということも
> あわせます。つまり指導書のねらいのDとEを一緒に
> することです。」
ぜひこうした方がよいと思います。子供の学びに寄り添って,あらかじめ設定したねらいも柔軟に変えていくことが大切です。生活科は,「〜のことを理解させる,覚えさせる」という内容優先の教科なのではなく,「〜をしてみる」という方法優先の教科ですから,教師のねらいも方法がふくらむところにこそ求めるべきです。
活動を進めていく中で,教師の当初の意図と子供の活動にズレが生じることがよくあります。というか,あるという前提で考えた方が良いと思います。その時,内容優先の考え方では,子供の目先をうまく教師のねらいの方に向けていきがちです。しかし,子供の学び(活動)をつなぐことを考える方法優先の考え方ならば,教師のねらいの方を見直すことになるでしょう。
T先生のように,活動前からズレを予測してねらいを幅広く設定するのは,子供の興味や関心に無理なく沿っていこうとする思想の具現化であると思います。
遊びの工夫からこそ,季節の変化への本物の気付きが生まれるのだととらえたいものです。
そうなると「ねらいに沿わない活動」と名付けるよりも「ねらいに至るために,複線的に構成する活動」と名付けた方がよいと思います。
> 具体的にわかりやすく教えていただき本校の研究が深まり
> ます。先日の授業は、クイズなどでの表現活動にします。
> そこでも、気付きが表出するでしょうから、児童の表情や
> ふるまいを見取り、児童に返してやりたいと思います。
私の拙い感想が,いくらかでもお役に立てればうれしいこと,この上ありません。ホームページ上の先生とのやりとりを見て,他にも私に質問をくださった方がいらっしゃいます。メールの即時性,機動性,記録性を生かして,私の研究範囲も広がっています。心より感謝いたします。
私の考え方は,スタンダードなものではないかもしれませんが,子供の学びを豊かなものにしたいと願っての工夫の積み重ねであることだけは自負するものです。多分に一面的なものもあることと思いますので,その点は鳥谷先生の方からもどうぞご遠慮なくご指摘くださいね。
今後ともよろしくお願いいたします。
T先生からの第7信
横藤先生
私こそメールでいろいろと教えていただきありがたく思っています。
先生のお話を聞き、生活科の本質が具体的に見えてきます。
本校の研究をここで今一度整理します。
また、質問をすると思いますが、教えて下さい。よろしくお願いいたします。
ホームページを見ています。とても参考になります。
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