緊急発言「生活科は総合の下請けではない」
新しい教育課程にかかわる情報が矢継ぎ早に示され,各学校で具体的なプランが姿を見せてきた。学校の裁量を十分に生かそうとするその取り組みには敬意を覚える。生活科と総合的な学習を,うまく連携させることではじめて低学年から高学年までの一貫した教育活動が成立する。望ましいかかわりを柔軟に求めたい。しかし,特に生活科に関わって,疑問を覚えるプランも多い。そこで,その具体例3つを元に,新しい教育課程における生活科の指導計画について考えてみたい。
1.具体例1〜生活科でコンピュータ?
週3時間の生活科の時間にコンピュータでお絵かきをしようというプランを入れている学校がある。コンピュータ及びお絵かきソフトの起動から,プリントアウトまで年間15コマ程度時間を当てている。違う!
生活科の時間は,あくまでも具体的な活動を軸に展開すべきだ。もちろん低学年からコンピュータに親しむことは大事である。できるなら,コンピュータについては1年生からある程度系統的な活動を入れるべきである。(99年苫小牧での研究発表にそのプランを示している。)しかし,生活科でお絵かきはない。図工や作文,歌や身体表現などを生活科に取り入れて合科で扱うことは,従来もあった。しかし,コンピュータを使うというのは,それらとまるっきり違う。すなわち,子供たちにとって,その活動は具体的な体験とのつながりが,まるで実感できないものだからだ。
例えば,子供をコンピュータの前に座らせて,「さあ,学校探検で見つけたことを絵に描いて教えてね。」とでもやるのだろうか?そんな活動は,子供にとってあまり楽しくないだろう。コンピュータでお絵かきするのなら,アニメのキャラクターや完全な落書き,あるいは音を出したり,一気に吹き飛ばしたり,色を反転させたり等した方が,ずっと楽しい。
こういう活動の中で,コンピュータリテラシーが自然に身に付いていくのである。リテラシーに関しては,独立させて扱った方がよい。体験活動の時間をきちんと確保したい。また,それにかかわる表現活動にコンピュータを使うのは,かなりリテラシーが身に付いてからとなるだろう。
結論=コンピュータリテラシーの指導は,生活科と切り離して行おう!
2.具体例2〜高学年に教えてもらう?
高学年の総合の活動の中に,「学習の成果を低学年に教えてやろう」という活動がある。内容は環境だったり福祉だったりする。これは,まず90%以上うまくいかない。低学年は,具体的な活動を通して活動することで真に主体的になれるからこそ,生活科が誕生したのではなかったか。高学年が調べた現代の課題の報告を聞いても,せいぜい「ふ〜ん。面白かった。」で終わりになる。内容を耳で聞いて頭で理解することにどれほその意味があるのだろうか。それに,この活動は完全に受け身である。また,高学年の方も,低学年に説明しようとすることで,自分たちの追求活動・表現活動に一種のゆるみが出てしまうことが懸念される。
異学年交流が不可能だと言っているのではない。「高学年の学習内容を低学年に教える」という安易な交流の設定がダメなのである。こんなことに生活科の時間を使ってほしくない。
例えば,高学年の学習のために,低学年の子にも家庭や地域で何かを調べてきてほしいというお願いならばこれは両方の学習として成立する。例えば,高学年と低学年で小グループを作って,地域に散って活動するのならば,これもあり得る。しかし,それまでの活動の文脈のないところに,一方的に聞かせる,おとなしく聞くという活動は,実りないものである。
ただし,冒頭で90%以上と言ったのは,残り10%くらいはうまくいく可能性もあるというニュアンスである。それは,扱うテーマが高学年にも低学年にも身近で関心が高いこと,異学年同士のかかわりが日常からうまくいっていること,高学年のプレゼンテーションがある程度以上のレベルにあり,低学年が自然に反応しながら楽しめるようなものであること,等の条件がそろっていれば,ということである。
結論=やっぱり生活科は具体的な体験でなくちゃ。
3.生活科でやっておく?
◇総合で「環境」をやるから,生活科の校区探検でも川の汚れ具合を見るなどしておき,スムーズな接続を図るべきだ。
◇総合で「国際理解」をやるから,生活科でも英語の歌遊びを導入する。
このように総合で〜をするから,生活科で〜をやっておく,という発想は本末転倒である。コンピュータと違って,具体的な活動を伴うからよいように見える。しかし,生活科の学習原理はあくまでも子供の身近な生活圏から思いや願いを掘り起こすところから始まる。川の汚れ具合を見ること自体はよい。英語で遊ぶこともあってよい。しかし,それは子供たちの生活,そして子供たちの自然な興味関心からつながって成立する活動でなくてはならない。
大体,「早くにやっておく」という発想は,トップダウン的である。先取りすれば,それだけ子供が高まるという幻影から,もういいかげんに醒めてもよい。
生活科は,活動の内容ばかりでなく,目標すらも子供自ら設定していく教科である。そこに生活科のすばらしさと難しさがある。「やっておく」というのは,内容も目標も教師側が一方的に決め,それを噛み砕いて子供に下ろすという旧来の指導観からの発想である。
総合でも,「児童・生徒の興味関心に基づく課題」と明示されているのは,このトップダウンの指導観にブレーキをかけているのである。生活科の理念を発展させて,それを高学年,中学,高校へと押し広げようとして創設したはずの総合なのに,いざ実施しようとするとこのように旧来の指導観に染まってしまう。指導要領解説(文部省)第2章第5節の冒頭に,「児童の思いや願いを育てる」とある。ここが一番のポイントなのである。ここからピントがずれてしまうと,生活科は形だけのものになってしまう。
結論=「やっておく」は,トップダウン。つまらないからやめよう。
現在気になっていることを,大急ぎで論じた。これは,単に生活科の指導計画の問題でなく,新教育課程に取り組む際のポイントとなることだと思う。