抗議をされて考えたこと
1.学生からの抗議

 ある学校で生徒の作文を教室で公開添削をしたところ,大変な不評で強い抗議を受けた。その一例を引いてみたい。
「授業中にみんなの書いた文章をみんなの前で読まされ,そこで直されるのは私には理解しにくい。私は読まされることに抵抗はないが,みんなに直されるというのはとても嫌である。できれば避けたいというのが本音である。
基本的には誰かに批判されたりするのは許せない性格だ。しかし,先生に何か言われるのはまだ大丈夫なのでできれば先生に直して貰いたい。」 こういう考え方の若者がどうも多くなっているように思われる。もう一例を引く。
「添削されるだけならまだしも,その文章を何度も読まされることはかなりのストレスであると思う。クラスメイトが自分の文章をとり上げられることで精神的苦痛を感じている姿を見て,誰もが,もし自分がとり上げられたらどうしようと考えるであろう。また,先生は文章を添削する際,駄目なところのみをズバズバと指摘して,一方的に『こうしなさい』と押しつけている。これでは自分の書いたものを全部否定されているようなものである。駄目なところのみを指摘して一方的に押しつける添削ではなく,よい所をほめたり,こうした方がよいのではないかといったような,文章を書く友人と一緒に考えていく方法にするべきである。」

2.私の反省点

 学生の作文力を高めるという科目でのことなので,私はいわゆる検討や添削が学生からも歓迎されるとばかり考えていた。厳しいほど有益と受けとめられるだろうと思っていた所に誤算があった。私の指摘や助言が「精神的苦痛」と受けとめられている。意外だった。
 しかし,あるいは学生の言い分の方が普通なのかもしれない,とも思う。私がこれまでに接してきた教師仲間はほとんどが例外なく自己改善,自己向上を望んでいる積極的な一級の面々ばかりだった。この学生達のように受けとめるだろう先生方は第一休日の勉強会なんかに身銭を切って参加はしない。一級の先生方とばかり出合ってきた私の心の中からはいつの間にか「普通の先生」の姿が消えてしまい,理想的な先生方ばかりが残ってしまったようだ。
 また,クラスで公開することだけは話してあったが,公開添削をするとは伝えていなかった。私にとって公開するというのは当然ながら公開添削を意味していたのだがここにもくいちがいが生じる隙があった。「伝え合う力」の不足だ。
 つまり,抗議を受けてみると私の側の落ち度もいくつかあったと反省せざるを得ないことになる。未熟という他はなく恥ずかしい。

3.そして,私の考え

 さてしかし,それはそれとして考えさせられたこともある。
 一つは「精神的苦痛」と受けとめるその受けとめ方についてだ。自分の不完全さや未熟ということを知っている者は,人前で添削されることを「精神的苦痛」と受けとめるだろうか。少なくとも私に限って言えばそういうことはない。私は自分の至らなさを人前で指摘されようと,個人的にこっそり指摘されようと,いずれも有難いこととして受けとめる。私にはそういう心の姿勢が小さい頃から身についているからだろう。
 自分が向上し,前進する機会としての叱責や注意や指導に対しては「精神的苦痛」どころかむしろ私は「感謝」の気持ちで受けとめる。有難いこととして受けとめる。
 私の他にもそういう心の持主はたくさんいる。いずれも自分の至らなさ,不完全さを本当に知っている人達であり,その人達は少なくとも前述の人達よりは人間としてのレベルが高い。レベルが高いから謙虚になれるのである。
 二つは,「誰かに批判されることは許せない」という心の姿勢についてである。私などむしろ批判や反論をこそ歓迎する。いろいろな所で話をさせて戴いた後に参加者からのアンケートを求め,その結果を私に知らせてくれることが多い。その折り,私はいつも「私の話がよかったとか,為になったとかいう肯定的なアンケートについては知らせて下さるに及びません。反対に,私の話に対する批判や反論,不満や要望があったらぜひ教えて下さい」と言うことにしている。自分にとって不都合な意見こそが自分を高めてくれるのだと私は考えているからだ。

 ゲーテの格言に次のようなものがある。
− 賢人から学ぶ愚者は少なく,愚者から学ぶ賢人は多い。−

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