野口論文「伝え合う力」を語るvol.7ー2000年10月  

論文作成のポイント
北海道教育大学函館校教授    
野口 芳宏       

    

 初めてで最後の担任学生が4年生になり,今彼らは卒業論文の作成に取り組んでいる。提出されたものを査読し,国語科の全教官立ち会いで試問をし,合格すれば無事卒業ということになる。学生の論文意図が教官に十分伝わることが何よりも大切な条件となる。彼らの意図が十分に伝わる為にはいくつかのポイントがあり,それはわれわれ教師が書く論文にも通ずる原理である。今回は例年感ずる卒論についての問題点を書いてみたい。自戒の意味もある。

1.「論文」の本質を踏まえる

 論文は「自分の主張」を「論証しつつ」述べたものである。「記録」とも「報告」とも違う。そこには何らかの「新しい問題提起」がなければならない。大発見や大問題提起である必要はないが,主張の見えないものは「論文」とは言えない。まずこれを踏まえたい。
 
2.必要な「手続き」を踏む

 単に主張点を叫んでもその意図は伝わらない。「論証」には「手続き」が必要だ。従来の文献や研究による成果の確認→そこにある不備や問題点の洗い出し→解決や打開の仮説(主張)→その仮説の正しさの論証→結論。大まかにはこのような手続き,筋道をたどらなければならない。

3.チャンスを生かす積極性を

 単位さえ貰えばいい,という消極的な姿勢では碌なものができない。恐らく生涯の中でこれほどの長さで自説を主張する文章を書くということはまずないだろう。生涯唯一のチャンスに存分に挑む心構えが必要だ。そこに打ちこむとき,いかに時間というものが大切であり,いかに日常の勉強が不足しているかということを自覚するだろう。
 この自覚を持つか否かによって学生生活も,教師の人生も全く違ってくる。己を見つめて今後の生き方を考える上からも力いっぱい取り組むべきだ。

4.論文は「分身」,己の証

 論文は長く大切に保存され,後輩の指針ともなる。そこには紛れもない自分がある。己が問われ,裁かれる証だとも言える。そういう自覚の上に立って書くべきだし,論ずるべきである。
 不消化のまま専門用語を用いてはならない。つっこまれればすぐにぼろが出る。その用語の成立の背景にまで立ち入って理解し,その上で用いたい。専門用語というものは,他の言葉に代えることのできない一種の排他性を持っている。それ故に一つの峰を屹立させて主張できるのだ。それを駆使できるまでによくよく理解して使いたい。

5.批判的精神を持つこと

 「論文」は「飽き足りなさ」から出発して成立する。謙虚に学ぶ態度と共に旺盛な批判精神もまた大切である。その批判が的を射ているとき,「論文」は大きな価値を発揮する。「論文」もまた一つの「伝え合い」の場である。伝え合う力をつける場としても生かそう。


感想・ご意見のコーナー

■田尻宏太郎  (長崎県諫早市)

 野口先生の著書やご講演などは新卒時代から接しており,もう14年ほどになります。
そのときから感じている野口先生の主張の「明快」「簡潔」が,この論文作成のポイントでも現れていました。その点で,大変分かりやすかったです。

 1.「論文」の本質を踏まえる
 2.必要な「手続き」を踏む
 3.チャンスを生かす積極性を
 4.論文は「分身」,己の証
 5.批判的精神を持つこと
 この5つの項目に従って,読んでいくと自分も何だかいい論文が書けそうだなと思いました。

 また,野口先生流のお考えが第3,第4項目に現れているようにも思いました。研究授業の話がきたら積極的に受けていた野口先生。自分の生きてきた証として色々な著書を著してきた野口先生。仕事以外にも俳句や所感文を『国語教室』に示していた野口先生。そんな生き様が,この論考にも見えていた感じがしたのです。
 私自身,野口先生の著書で深く研究を積んできたといえる者ではないのですが,『国語教室』誌の蜂を飼う話とか,色々な個人的なお話が思い出されて,「書くことは自分自身を知ること」であるという感が新たになりました。
 また,自分の大学卒業論文を思い出して,あの時にこのような指導をしてくださる教授がいたら…と思いました。野口先生の指導学生を少しうらやましくねたましく思いました。

 教師生活が十年を越えて手の抜き方も知り,まだ言葉も発せぬ幼子を二人抱えなかなか仕事に集中しづらい日常生活を送っている私です。が,教室には「鍛える」という一言を掲げています。野口先生の著書から戴いたこの言葉を改めて見直そうという気持ちになりました。

 今回の論文をありがたく思いました。
 それではお体ご自愛のほど。  早々


■吉田志津雄 (北海道蘭越町立名駒小学校) 

『単位さえ貰えればいい、という消極的な姿勢では碌なものができない。』

 今となってはもうほとんど覚えていないが、卒論提出期限ぎりぎりになって出しに行ったことだけは覚えている。教員養成系大学で理科を専攻していたので、卒論を書くために毎日実験をやっていた。卒論のできは、それまでの実験の質と量に大きく左右され、結果的には100枚に満たないものになってしまった。提出期日が迫ってくるにつれて、「単位さえ取れればいい、卒業できればいい」的な気持ちになっていった。恥ずかしい限りである。
 さて、今でも論文まがいの文章を書くことがあるが、読む人に自分の主張がきちんと伝えるということはなかなか難しい。わたしの場合、書いた文章は家内に読んでもらって「理解できるか」聞くことにしているのだが、結構厳しい審査結果をだしてくれる。
 野口先生の論文を読ませていただき、もう一度「自分の主張を人にきちんと伝える努力と工夫」について考えさせられた。これからの世の中を生きていく子どもたちには、このことはしっかりと教えていかなければならない。そのためにも、まず自分が勉強しなければ、と思う。 


■ 松浦 憲子 (長崎市)

 「論文作成のポイント」を読ませていただきました。
 学生時代を振り返ると、なんだかとても恥ずかしくなりました。
 学生時代に未消化のまま終わった論文をいつか自分が納得がいく形にすることが私の夢です。
 その日まで、人として、教師として始業を積みたいと思っています。


■ 横藤 雅人 (札幌市立北野平小学校)   

 私が,大学の卒論を書いたのは,もう22年も前のことになります。正直に申しますと,2日間で書き上げました。仕事(朝,夕の新聞配達と集金や拡張業務でした)をしておりましたので,それにとられる時間を除き,2日間一睡もせずに取り組み,原稿用紙100枚程度の論文を書き上げたときは,もうろうとしていたのを思い出します。
 そんな書き方でしたから,良いものができるはずもなく,記念にコピーを取ったものの表紙に「率論=軽率な論文」といたずら書きをしたものです。もし,大学時代に野口先生のような先生に巡り会って,論文指導を受けていたら,今の私の論文執筆のスタイルもかなり違ってきていたのではないかと感じさせられました。
 今,私は毎月数本の論文(めいた雑文)を書かせていただく場を頂戴しています。先生の簡にして明なご指摘,「新しい問題提起」「論証の手続き」「己を見つめる」「専門用語の精査」「批判精神」を心に刻んで,少しでも読んでくださる方のお役に立つ文章が書けるように取り組んで参りたいと思いを新たにしました。ありがとうございました。

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