未熟の自覚が学びの出発
1.未熟と不完全の自覚から
 言うまでもないことだが,人間は神ではない。完全無欠ではない。不完全で未熟のままでついにその生涯を終える。人間は,それでいいのである。これは,開き直りではなく,人間存在というものをそのようにとらえないとたまらなくなるからだ。
 不完全の自覚ということは,諦めではなく,だから少しでもよい方向に自分を導こうという勇気を生む源泉なのである。全ての努力や精進はこの「未熟の自覚」「不完全さの自認」から出発する。未熟や不完全の自覚は,そういうプラスの発想に向かっていかなければならない。

2.未熟なるが故に学ぶ
 私は還暦を超えること6年,この年にしてなお自分の不完全,未熟がいっぱいである。それは,まだ少しは良くなるという向上の余地を残しているということで,嬉しく,めでたいことだと考えている。
 たとえば,俳句一つ,短歌一つとっても今以てこれはというほどの自信作がない。いくら作ってもへぼ俳句,へぼ短歌の域を出ない。そうであるからと言って止めてしまうということにはしていない。むしろ,下手であるからこそ少しは良いものを作ろうとして,句会や歌会に出たり,新聞のそれらの記事に目を通したりしている。そうすると,ほんのちょっぴりだが自分が前進したような気分になる。これが励みになってまた次の作品を作ろうとする。
 このような単純な繰り返しが,つまりは「生涯学習」ということなのではないか。だから,生涯学習というのは「未熟の自覚」からこそ出発するといってよいだろう。

3.変わり続けるという楽しみ
 ところが世の中の人は様々で,未熟の自覚を忘れている例が意外に多い。「わかってるよ」「そんなことは知ってる」「別に今のところは何に困っているわけではない」というように考える人が多い。こういう人は,現状に安んじ,甘んじ,自分を変えようとはしない。自分では十分だと思っているのだろうが,端目からは不十分だし,残念ながらその後の伸びも覚束ない。
 狭い経験ながら,「勉強好き」と言われる人々は,等しく「未熟の自覚」をしている謙虚な生き方をしているように思われる。
 人生というものは,より良い目標に向けて変わり続けるというプロセスであることが望ましい。私は「向上的変容の連続」という言葉を作って自らの戒めとしているが,それは中々に楽しいことである。固苦しく,窮屈な生き方ではない。変わり続けるというのは「柔軟」であるということだ。流動的でしなやかだから変わることを受け入れることができるのである。
 これから先は,生きてきたこれまでほどの時間は私にはない。残されたこの僅かの時間をやはり私は変わり続けることに充てたいと思う。まだまだ楽しみがある。

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